「ランチなう」から15年……玉石混淆の言論空間・ツイッターはどこへ行く?

「ランチなう」から15年……玉石混淆の言論空間・ツイッターはどこへ行く?

ツイッターが一般に普及するきっかけになった2011年の東日本大震災 ©iStock.com

 ツイッターは2006年3月にサービスを開始した。日本で最初にブームが盛り上がったのは2009年ごろ、一般に広く使われるようになったのは2011年の東日本大震災の後で、国内でも10年余りの歴史を積み重ねてきている。

 当初は投稿を意味する「ツイート(さえずる)」が「つぶやく」と意訳されていたように、プライベートな出来事を投稿する場だった。「ランチなう」など「なう」を語尾につけるのが流行ったのもこのころである。

 しかしツイッターは次第に政治や社会、経済などについて意見が交わされる場所へと変容していく。

 ツイッター社の2017年の発表によれば、日本の月間利用者数は4500万人を超えている。単一のメディアとして捉えれば、新聞やテレビを凌駕しつつあり、いまや日本国内で最も巨大な言論空間になろうとしている。ではこの大メディアは、日本社会にどのような影響を与えたのだろうか。

■過激な運動、陰謀論、タコツボ化…

 ツイッターに限らずインターネットは「タコツボ」になりやすいと昔から指摘されてきた。

 読む記事や投稿を自分で選択できるため、「自分の見たいものだけを見る」という行動に傾斜しやすい。ツイッターもこの傾向が強く、たとえば過激な反原発運動や反ワクチン運動、陰謀論にはまる人たち、ニセ科学、さらには情報商材系の詐欺商法グループなど、一般社会から乖離した過激な人たちが狭い集団をつくり、その中でしか理解されないような情報を延々と共有し続け、閉鎖的になっていっている。

 特定の信念がたがいに増幅されてしまう状況をエコーチェンバー(残響室)効果というが、ツイッター上での政治党派的発言についても同じような傾向になっている。

 アンチ自民の極端な左派の人たちと、反韓反中の極端な右派は、思想は180度違うにもかかわらず、どちらも排他的で攻撃的という点で非常に似通ってしまっている。

 タコツボ同士での罵声や中傷の応酬も、日常的な光景になってしまった。

■ツイッターには「コードは存在しない」

「議論が成立しない」「公共圏たり得ない」とツイッターの言論空間に否定的な見方をする人も多い。

 しかしわたしはもう少し異なる見方をしている。ツイッターは、公共圏としての言論空間を成立させうる要素も持ち合わせているからだ。

 ひとつは、表現の自由が担保されていることだ。新聞やテレビは自由な表現が可能なようでいて、実はそれぞれのコード(規範)に支配されている。

 新聞記者は自社の社論と著しく異なる言論を紙面に書くことは難しく、テレビでもタレントやコメンテーターがプロデューサーの意に反した意見を繰り返せば、最終的に降板させられることは少なくない。

 ツイッターにはコードは存在しない。アカウント凍結などの処分はあるが、その基準は投稿内容が脅迫や嫌がらせ、なりすましなどに当たるかどうかでしかなく、思想信条には踏み込まない。

 だからレイシストやデマゴーグでも穏やかな言葉で語っていれば処分されないし、逆にリベラルを名乗りながら口汚く他者を罵る人が処分の対象になることがある。

 つまりツイッター社の処分基準に抵触しなければ、過激な主張であっても何でも投稿できる。過度に自由すぎると言っても良いほどだが、過去にこれほど「タブーなき言論」が自由に行える巨大メディアが普及したことなどなかった。

■普及とともに向上した「訂正」力

 第二に、専門家などの手によってデマや誤情報がすぐに訂正されるようになったことは、ツイッター普及の大きな成果である。

 その好例は、2020年の新型コロナ禍だった。たくさんのデマが流れ、著名人やタレントなどがそれらの流布に手を貸してしまったケースも少なくなかった。

 しかし現在のツイッターには感染症専門家など医療従事者も多く参加しており、彼らはさまざまな論文や資料などを参照しながらデマをひとつひとつ否定し、医学的に正しい情報を適切に提供することに力を貸した。

「医クラ(医療クラスタ)」と呼ばれる医療従事者のツイートは非常に多く拡散され、彼らのツイッター発信を頼りにしていた人がきわめて多かったことが示されたと言えるだろう。

■玉石混淆の言論空間の行方

 この両極の要素から見えてきているのは、ツイッターの巨大な言論空間はふたつの世界に分離しつつあるということかもしれない。デマもレイシズムも含めた広範な表現の自由を保証されているこの言論空間は、玉石混淆そのものである。

 その中で「玉」を見ようと努力する人には的確な情報が提供され、冷静でまっとうな議論の場にも導かれる。逆に「石」にたどり着いてしまう人はデマに惑わされ、閉鎖的なタコツボに落ち込み、外部の者を罵り、罵声の応酬という終わりなき戦いに駆り出され続ける。

 ツイッターは言論空間だが同時にプラットフォームであり、その中でどのような情報発信を行うのかまではツイッター側はコントロールしない。そこが新聞・テレビと決定的に異なるところである。

 言い換えればツイッターは、専門家や著名人、一般のユーザー、デマゴーグ、党派的な煽動者まであらゆる人々がそれぞれの影響力を用いながら日々みずからの意見を発信している広大なメディアプラットフォームであり、小さな言論空間が無数に寄せ集まって同時に存在している。

 だからこのメディアのありようを総体として評価することはできない。

「議論が成立している場所ではしているし、罵声の応酬ばかりが行われている場所では成立していない」「まっとうな意見が語られているところでは語られているし、語られていないところでは語られていない」「良質な情報があるところにはあるし、ないところにはない」

 ここで本稿の結論となる。「自由で公正な言論空間は実現したのか」という問いには、こう答えるしかないだろう。「それはあなたがツイッターをどう見て、どう参加しているかによるのだ」と。

(佐々木 俊尚/文春ムック 文藝春秋オピニオン 2021年の論点100)

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