「呼吸にも気を遣わなければ…」福島第一原発の“決死隊”に命じられた想像を絶する作業の実態

「呼吸にも気を遣わなければ…」福島第一原発の“決死隊”に命じられた想像を絶する作業の実態

※写真はイメージです ©iStock.com

 2011年3月11日に起こった東日本大震災は、日本の歴史に暗く影を落とす悲惨な原子力事故を招いた。格納容器内の圧力が高まり続け、刻一刻とメルトダウンが進む福島第一原子力発電所。極限状況下で、当時の現場所員は何を思い、どのように仕事に臨んでいたのか。

 ここでは、船橋洋一氏を中心とした調査委員会による綿密な取材で明らかになった新事実を『 フクシマ戦記 上 10年後の「カウントダウン・メルトダウン」 』より引用。生々しい当時の様子を紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◇◇◇

■決死隊

 8時すぎ、吉田(編集部注:東京電力福島第一原子力発電所所長)は菅直人と別れたあと、緊対室に戻った。

「9時を目標に、ベント(編集部注:放射性物質を含む気体の一部を外部に排出させて圧力を下げる緊急措置)を実施する」

 吉田は、そう指示した。

 ベントに必要な弁を開けるためには、放射線量上昇のため入れなくなっていた1号機の原子炉建屋内に入らなければならない。電源がないため遠隔操作の電動駆動弁(MO弁)と空気作動弁(AO弁)が動かない。マニュアル(手動)で格納容器のベント弁(MO弁)とS/C(サプレッション・チェンバー)のベント弁(AO弁)を開くしかない。

 S/C(サプレッション・チェンバー)は、D/W(ドライウェル)とベント管で繋がっている格納容器下部のドーナッツ型の容器。1号機で1750トン、2〜4号機で2980トンという大量の水を蓄えている。配管破断などの事故時やSR弁(主蒸気逃がし弁)が開いて高温の蒸気が入ってきたとき、蒸気はこの水で冷やされ液体の水に戻り、格納容器全体の圧力上昇が抑えられる。

 ベントを行うために最も重要なバルブはS/C(サプレッション・チェンバー)上部に備えられている空気作動弁(AO弁)である。AO弁は「大弁」と呼ばれるメインのバルブと「小弁」と呼ばれる予備のバルブが、ベントラインに並行に備え付けられている。

 AO弁は通常、ハンドルがついていないため、運転員が現場で開けることはできないが、唯一の例外があった。それは1号機のAO弁「小弁」だった。緊対室の復旧班員がそのことを図面で把握した。

 吉田は、発電所対策本部発電班を通じて、当直に要請した。

「相当程度の被ばくの恐れがある。しかし、ここは現場に行ってマニュアルで開操作を実施してもらいたい」

 要するに、「決死隊」として突っ込んでほしいという要請である。

 当直は了承した。

■「ベントの操作をやってくれ」

 午前9時2分。東京電力は、発電所周辺の住民の避難を確認した。

 その2分後、緊急対策室はベントの指示をした。それを受けて、当直長の伊沢郁夫が命令した。

「緊対(緊急時対策室)から指示が出た。ベントの操作をやってくれ」

 すでに午前零時ごろには緊対室から「ベントをやれるようにメンバーを決めておいてくれ」との指令が来ていた。

■決死隊のメンバーたち

 決死隊は、2名1組の3班態勢である。3つの班が同時に現場に行ってしまうと、中央制御室と連絡が取れなくなるし、緊急避難時の救出ができなくなる恐れがある。そこで、1班ずつ現場に行き、その班が作業終了後に中央制御室に戻ってから、次の班が出発することにした。

 それでも、相当量の被ばくを覚悟しなければならない。そのため、若手の当直ははずし、各班とも、当直長と副長クラスの運転員で構成した。

 東電の原発は、協力企業と呼ばれる下請け企業群の従業員で成り立っている。しかし、中央制御室での運転は、東電が協力企業に依存していない唯一の領域だった。ここだけは、運転員たちが互いにプロとしての自負と固い絆を確かめ合う聖域でもある。

■「お前は残って指揮を執ってくれ」

 午前3時頃、伊沢は中操(中央操作室=中央制御室のこと)の運転員たちを前に言った。

「緊対からゴーサインが出た場合には、ベントに行く。そのメンバーを選びたいと思う」

「申し訳ないけど、若い人には行かせられない。そのうえで自分は行けると言う人は、まず手を挙げてくれ」

 誰も言葉を発しない。みな、伊沢の顔を見ている。視線をそらすものはいない。誰もが言葉を探しているようだった。

 5秒、10秒……沈黙の時間が流れた。

 沈黙を破ったのは伊沢だった。

「オレがまず現場に行く。一緒に行ってくれる人間はいるか」

 その時、伊沢の後ろに立っていた大友喜久夫(55)が口を開いた。

「現場には私が行く。伊沢君、君はここにいなきゃダメだよ」

 大友は発電部の作業管理グループ長である。作業管理グループは、原子炉の運転や定期検査の際の作業の段取りを決めたり、機器、設備を隔離するための安全チェックを行う。大友は伊沢の2年先輩、運転員上がりである。いまは作業管理グループに所属しているが、地震直後、1/2号機中操に駆けつけてきた。

 やはり後ろにいた平野勝昭(55)が続いた。

「そうだ。お前は残って指揮を執ってくれ。私が行く」

 平野も伊沢の先輩である。本来は、平野がこの日の1/2号機の当番当直長のはずだったが、病院の精密検査のため伊沢に交代してもらった。平野はこの日午後、地震のあと、必死になって福島第一原発に戻り、伊沢のチームに加わっていた。

 2人の先輩当直長がそう言った瞬間、若手が声を上げた。

「ボクが行きます」

「私も行きます」

 伊沢は、涙が溢れそうになるのを感じた。そして、それを見られまいとするかのように、ホワイトボードの方を向いた。

 やはりその日、応援に駆けつけた遠藤英由当直長(51)がホワイトボードに、10人ほどの名前を一つ一つ、年齢順に書きだした。伊沢はその中から、当直長4人、副長2人の計6人にしぼり、2名1組の3班をつくった。

■伊沢郁夫という男

 伊沢郁夫は、地元・双葉町の農家の長男として生まれた。

 少年時代、自転車に乗って、福島第一原発のところまで来て、友達と遊んだ。30メートルの断崖の上にある広大な敷地だった。

 そこから太平洋を眺めるのが好きだった。いつ来ても海の色は暗く、水平線の彼方は白く光っている。

 太平洋戦争末期、陸軍の航空訓練基地である「磐城陸軍飛行場」の跡地だった。ここで、特攻の飛行訓練が行われた。そこから若いパイロットたちが南方に死地を求めて、飛び立っていった。その飛行場のひび割れた、だだっぴろいコンクリートの跡が広がっている。

 小学校高学年になったとき、ここで突如、建設工事が始まった。林の中に何十棟という平屋の家が忽然と、姿を現した。東電の最初の原発である福島第一原子力発電所の1号機の建設のため米本土からやってきたゼネラル・エレクトリック社の“ビレッジ”だった。米国人たちは、飛行場跡のコンクリの空き地をテニスコートにして、打ち興じた。

 ビレッジには小さな公園や集会場もあった。伊沢たちはビレッジの米国人の子どもたちと友達になった。彼らが持っていたラジコンが珍しかった。彼らにメンコやビー玉を教え、彼らからラジコン遊びを教えてもらった。

 伊沢はその中の一人のラジコン少年となぜか気があった。言葉は英語も日本語も片言だったが、気持ちは通じる。「家においでよ」と言うので、一緒に行くと、金髪のきれいなお母さんがニコニコしながらチョコレートやジュースを振る舞ってくれた。

 クリスマスパーティーに招いてもらったこともある。父親が近くの山で切り出した立派なモミの木のクリスマスツリーがそびえ立っていた。母親がつくったクリスマスケーキがおいしかった。

 1968年6月、1号機の格納容器建設が終わった後、シンデレラが消えるように彼らは立ち去っていった。

 その後、伊沢は地元の工業高校を出て、東京電力に就職。福島第一原発の1/2号機の運転員として長年、経験を積んだ。そうして、2009年、福島原発第一1/2号機の当直長となった。

■鎧のような耐火服をまとって原子炉建屋へ

 伊沢は前日、夜勤明けだった。その日の朝、やはり1/2号機の同じD班で働く運転員の井戸川隆太(27)らとゴルフパークで練習をした。福島原発第一発電所の40周年記念パーティを近く開く。そのアトラクションの一つがゴルフパーク競技だった。この日は休日のはずだったが、本番の当直長の平野勝昭が病院の精密検査で来られなくなったため代わりに当直長勤務に就いていた。

 6班体制のローテーションで働く中央制御室の運転員たちの昼夜の勤務交代は午後10時である。午後9時、夜の番の交代要員がほとんど何もなかったかのように姿を見せた。6班のうち5班までの当直長がやってきた。地震と津波で天地がひっくり返る状況の中、家族を置いて、皆が逆方向に逃げるのに逆らいながら、漆黒の夜、発電所までただひたすら歩いてたどり着いたのだった。伊沢は制御室に入ってくる彼らの姿を見て胸が熱くなった。

〈百万の援軍だ〉

 仲間として、彼らを誇りに思った。

 第1班は大友と大井川努(47)のチームである。2人とも応援のE班副長である。

 2人は、防護服の上に鎧のような耐火服をまとい、長靴を履き、マスクをつけ、黄色いヘルメットを被った。その上に大きな空気ボンベを背負う。APD(警報付きポケット線量計)を胸ポケットに入れた。APDは、80ミリシーベルトで警報がなるようにセットされている。2人とも手に懐中電灯を持った。先を歩く大井川が、放射線を測るために重さが1キログラムもある箱形のポータブル線量計(サーベイメーター)をぶら下げて、1号機原子炉建屋に入った。

■原子炉建屋内の様子

 温度は40度を超えた。真っ暗である。水蒸気が噴き出ている。線量は高い。

 15分以内に作戦を終わらせなければならない。

 2人は、懐中電灯の明かりを頼りに、2階の原子炉格納容器ベント弁のあるところまで行った。

 格納容器外側の弁のバルブのハンドルを大井川が手で回し始めた。ハンドルは20センチメートルほどだが、ずっしりと重い。バルブの横についている開度計は、5パーセント刻みである。大井川が回すたびに、開度計の針が、5パーセント、10パーセント、15パーセントと度数を増していく。大友の持つ懐中電灯がそれを照らし出していた。

 1分ほど経っただろうか。

「開度を確認してください」

 大井川が大友に言った。

 大友が再度、確認した。

 たしかに25パーセントを指し示している。

「OK!」

 大友が叫んだ。大井川が大きくうなずいた。

 2人は、圧力容器と格納容器の圧力を現場の計器で確認しようとした。バッテリーをつないで中操で見る圧力の数値が実際の数値とあっているのかどうか、を確かめようとしたのである。

 圧力は思った以上に高かった。

■呼吸にも気を遣わなければ……

 午前9時15分、2人は中央制御室に戻った。

 大友は戻るなり、非常用の保存水をガッと飲んだかと思うと、それを床にペッと吐き出した。見るからに苦しそうだった。

 もっとも伊沢は、2人が思ったより早く戻ってきたので意を強くした。

 午前9時24分頃、第2班が建屋に入った。圧力抑制室まで行かなければならない。

 応援のE班当直長、遠藤英由とC班当直長のコンビである。遠藤は、自ら手を挙げて志願したのだった。彼らが向かったのは格納容器下部の圧力抑制室の上にあるベント弁小弁である。先頭の遠藤が1000ミリシーベルトまで測れる線量計を首から下げた。

 酸素の消費量を減らさないようにしなければならない。

〈呼吸にも気を遣わなければ〉

 頭ではそう考えて出かけたが、1号機建屋に入る頃には小走りになっていた。

■福島第一原発で最初に「100ミリシーベルト」を超えた所員

「ヨシ!」

 二重扉の前に立った時、気合を入れた。扉の向こうがどういう状況になっているのか皆目見当がつかない。懐中電灯頼りにトーラス室途中まで行き、キャットウォークへ続く階段のところで線量計を見ると、毎時90〜100ミリシーベルトの間を行ったり来たりしていた。トーラス室とは、圧力抑制室を収納するトーラス形状の部屋、キャットウォークとはトーラス室上部の点検通路である。そこから圧力抑制室を回り込む形で30メートルほど進まなければならない。しかし、線量計の針は毎時100ミリシーベルトを超え、振り切れていた。80ミリシーベルトにセットされているAPDの警報が鳴った。もはや戻るしかない。

 第2班は、中央制御室に引き返した。この時遠藤とC班当直長が浴びた線量は、それぞれ89ミリシーベルトと95ミリシーベルトだった。伊沢は、2人をただちに免震重要棟に退避させた。彼らはその後、緊急時対策室で仕事をしたが、2人とも福島第一原発で最初に「100ミリシーベルト」を超えた所員となった。

「水素爆発はしないって言ったじゃないですか」東電が官邸に出していた原発事故“隠蔽”の要請とは へ続く

(船橋 洋一/ノンフィクション出版)

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