「乗組員はスパイとも思える」「損害が誇張されている」終戦9年目、日本人水爆実験被害者にアメリカから向けられた言葉

「乗組員はスパイとも思える」「損害が誇張されている」終戦9年目、日本人水爆実験被害者にアメリカから向けられた言葉

“原爆マグロ”“放射能マグロ”への不安と恐怖が国民の間に広がった(朝日)

「西から太陽が昇った」太平洋に降った死の灰 歯ぐきの出血に脱毛…日本人が核の恐怖を最も感じた日 から続く

■「食べれば原子病にかかる」“原子マグロ”登場

 3月16日付夕刊では朝日が「マグロ漁船ビキニで原爆浴びる」を社会面トップで、毎日は「ビキニの水爆?実験で邦人漁夫三十三名被災」を1面左肩で追いかけた。毎日が社会面トップに載せた「売られた“原子マグロ” 食べれば被病 都内では一応押える」の記事はその後の騒動のきっかけとなったといえるだろう。(全2回の2回目。 #1 を読む)

◆ ◆ ◆

〈 1面所報、ビキニ環礁で原爆に遭遇した第五福竜丸には、同船が南太平洋で漁獲したマグロ、サメが積まれ、その一部は15日水揚げ、出荷されたが、この“放射能の洗礼”を受けた魚について東大名誉教授・都築正男氏は「食べれば原子病にかかる」と警告。事態を重視した(東京)都衛生局と中央市場では直ちに問題の魚を廃棄処分に付する一方市販に回されたものについて販売禁止の通告を発した。〉

 3月17日朝刊の朝日には社会面3段で「築地で五百貫埋める 各地に流れる福竜丸の魚」の見出しの記事が。

〈 焼津からの“原爆マグロ”と一緒に築地魚市場に入荷、販売された魚は果たして人体に危険があるかどうか。東京都衛生局では東大と科研の協力で16日午後1時半から、市場内にガイガーカウンターを持ち込み、放射能測定を行った。問題のマグロは3尾。そのうち一番放射性物質がついていたものは6.2ミリレントゲン時。サメは約500貫(約1.88トン)あったが、そのうち最高は9ミリレントゲン時。もちろん販売中止となった。しかし、朝の売買でほかの約2万貫(約75トン)が残らずハケており、都内、近県各地にバラまかれてしまったので、いまとなっては検査の方法もない。衛生局では「このマグロのうち、一部には放射性物質が付着したものもある恐れがあり、16日に小売りの魚屋さんに出回ったマグロなどについては、よく洗ってから食べるように」と都民に要望した。

 魚市場では問題の魚542貫を同夜半、市場内の片隅に埋め、17日からは平常通り、セリ場も使うことになった。〉

 同じ話題を取り上げた記事に毎日は「原子マグロを土埋め」、読売は「原子マグロ土葬」の見出しを付けた。既に「原爆マグロ」「原子マグロ」が紙面をまかり通っていた。

 事件はその後、国際問題、特に日米間の核管理と安全保障の問題として複雑に広がる。まず問題になったのは、第五福竜丸が死の灰を浴びたのが、アメリカが設定した「航行禁止区域」の中だったのかどうか。

 各紙ともこの問題の記事であふれた3月17日付朝刊。朝日社会面のトップは、海上保安庁が乗組員らの話から「ビキニ被爆は禁止区域外」(見出し)とみているというニュースだった。

■調査班が一様に驚くことは…

 朝日の同じ紙面には「頭髪も抜け始める 東大に入院の増田、山本両君」の記事も。3月17日付夕刊では、アメリカのダレス国務長官が「不幸な事件だ」と述べたことが各紙に載った。

 毎日は社会面で厚生省と東大などの調査団が焼津で現地調査を始めたことを報じたが、「余りに無関心な地元民」の脇見出しでこう書いている。

「これら調査班が一様に驚くことは、地元民やこの事件の関係者などが放射能の脅威に無関心すぎるということで、調査班は皆、消毒用ゴム手袋、マスクなどで身を固めて船内の放射能調査などを行っているのに、地元民や報道関係者はマスクを持っている者すらない。西脇大阪市医大助教授は、これら船内の甲板を一巡した地元の人の靴を脱がせ、その場で放射能探知機により測定したところ、この靴の裏には相当多量の放射能塵が付着していることが明らかとなった」。現場の雰囲気がよく分かる。

 同日、アリソン駐日大使は外務省を訪ね「アメリカ政府は今度の不幸な事件に非常な関心を持っており、被害者の治療、放射能の消毒などについてはできるだけのことをしたい」と述べたことが3月18日付朝刊各紙に載った。

 同じ日の紙面には、焼津で乗組員の診察や第五福竜丸の船体検査などを続けていた東大などの総合調査団が

1)乗組員らは生命に危険はなく2カ月ぐらいで回復する
2)船体を焼いたり沈めたりする必要はない
3)魚はサメは危ないがマグロは食べてもよい

 との結論を出したことも載っている。

■ついにあきらかにされた水爆の事実 「想像を絶した爆発力 測定不能」

 3月18日付夕刊各紙には、アメリカ議会原子力委員らを情報源としたビキニ実験の規模などについての記事が掲載された。朝日は「想像を絶した爆発力 測定不能 米科学も驚倒」、読売は、「測定装置役立たず 強力無比の水爆」の見出しだったが、「史上最大・ビキニ『水爆』 広島原爆の六百倍」が見出しの毎日を見よう。

〈【ワシントン17日発(マイラー記者)UP特約】米原子力専門家が述べたところによれば、マーシャル群島で放射能の障害を受けた日本人漁夫(第五福竜丸の23名)は“ベータ―線による火傷”を受けたものだとされる。3月1日、ビキニ環礁で行われた巨大な熱原子核爆発(注=水爆は原爆の発生する高熱を利用して水素原子核をヘリウムに転換させ、その際に発生するエネルギーを爆弾としたもので、一般に熱原子核爆発といえば水爆を指している)から生じた放射性の塵埃(じんあい)が原子雲の中に混じり、これが日本人漁夫の乗っていた漁船に降りかかったというのが今回の事件なのである。

 3月1日の爆発は、これまで行われた原子爆発のうち、最も大きなものであったことは明らかで、少なくとも広島に投下された原爆の600倍の威力を持っていた。この爆発は地上か、または鉄塔の上で行われ、実験を行った島を吹き飛ばし、粉砕されたサンゴ礁と、放射能を帯びた水100万トンを20マイル以上の上空へ舞い上がらせたのである。〉

 アメリカは軍事機密として公式には明らかにしていなかったが、ビキニの実験が水爆だったことがアメリカ側の見解として明らかになった。

■各機関の調査団が現地へ 交錯する評価

 現地焼津には東大のほか、京大など各機関の調査団が入ったほか、広島のABCC(原爆傷害調査委員会=現放射線影響研究所=)のモートン所長らも加わることになり、3月19日付読売朝刊は「日米死の灰調査合戦」の見出しで報じた。

 モートン所長は焼津入りして被災者らとも面談。読売は3月22日付朝刊でも「対立する調査団」の見出しで、日米だけでなく、日本の各組織同士の“調査合戦”の実態を伝えた。それによれば、モートン所長は「焼津の病院の施設は不十分。(被災乗組員)全員東大に移すよう勧告したい」と語り、第五福竜丸についても「船は極東米海軍が横須賀に曳航して適当に処理したい」と語ったという。

 さらに、同じ紙面では、サンフランシスコ特電(INS)で、ビキニの実験場と東京を視察して帰国したアメリカの上下両院合同原子力委員会委員のパストール(パストアと表記した新聞もある)上院議員の談話が「漁夫の火傷は浅い」の見出しで載っている。

 同議員は日本滞在中、アメリカ側官憲から第五福竜丸の23人についての「あらゆる資料の提供を受けた」としたうえで「残念なことだが、最初の報告は事件を誇張したものであり、漁夫たちの火傷を実際よりもはるかに重いように伝えたことが分かった」と語っている。

 同議員はその後、コール原子力委員長に「ビキニ水爆実験で日本人漁夫が受けた負傷は大したことはなく、後々まで悪影響を残すようなことはないだろう。最初の報告は不幸にして事実をずっと大げさに誇張したものだ」と報告している(3月24日付読売朝刊)。

■乗組員はスパイ!? アメリカの思惑

 アメリカは3月19日に実験の危険区域を数倍に拡大する一方、実験の被害をなるべく小さく見せようとした。パストール議員から報告を受けたコール委員長はさらに踏み込んだ。

 3月24日付産経夕刊には「被爆漁民スパイとも思える コール委員長が重大発言」の見出しでワシントン発AP=共同電が載っている。第五福竜丸の補償について、権限はあくまで議会にあるとしたうえで、最後にこう語っている。

「日本人漁船及び漁夫が受けた損害についての報道は誇張されているし、これら日本人が漁業以外の目的(スパイの行為を意味する)で実験区域に来たことも考えられないことではない」

 不幸にも久保山無線長の危惧が的中したことになる。第五福竜丸平和協会編「ビキニ水爆被災資料集」によれば、これに先立つ3月18日、原子力委員の下院議員2人が「部外者が放射能によって被害を受けるほど接近できた理由を議会が調査すべきだ」「そうでなければソ連が潜水艦でスパイ行為をするのを防げないことになる」と述べていた。

 この時期、アメリカは東西冷戦のさなか、国際戦略の見直しを迫られていた。

「時事年鑑1955年版」の「各国情勢」によれば、インドシナでのフランス軍の劣勢が明らかになり、ダレス国務長官は中国の出方によっては介入も辞さない決意を表明。1954年1月には、原子兵器で武装した機動部隊を中心に強力な戦略予備軍を確立し、融通自在の反撃態勢をつくるという「ニュールック戦略」で対ソ連封じ込めを進める意思を示した。

 第五福竜丸事件はその根幹に関わる事態だった。そして、日本との間ではビキニ実験直後の3月8日、日本の防衛力増強と日米軍事提携を約束した「MSA(日米相互防衛援助)協定」が調印されたばかり。実に微妙なタイミングで、日本側には強く出られない事情があった。

 その間も事態は動いていた。アリソン大使は3月19日、ビキニ被災に必要な補償をすると声明。3月20日には東大総合調査団団長の都築正男・名誉教授らが、問題の灰の中から4種類の核分裂生成物を確認。乗組員の症状は「医学的には急性放射能症で、いわゆる原爆症ではない」(3月20日付読売夕刊)と発表した。

 3月21日付読売夕刊は1面に大きく、東大病院に入院した乗組員2人の写真を掲載。3月22日の衆院厚生委員会では、都築名誉教授が「23人の漁夫の10%は死亡するかもしれない」と「“水爆的”重大発言を行った」(3月23日付読売朝刊)。3月24日、「福竜丸問題に関する日米連絡協議会」で患者の治療は日本側が責任を持つことが決定。3月25日には、第五福竜丸を日本政府の管理下に置くことが決まった。

■国際社会へ与えた大きな衝撃

 事件に衝撃を受けたのは日本だけではなかった。金子敦郎「核と反核の70年」は書いている。

「ビキニ水爆実験に参加した科学者や軍関係者は、太陽を真っ暗にした爆発力に恐れおののいた。報告を受けた米国や英国、それにソ連の指導者も、水爆がジェノサイド兵器どころか、人類と地球の運命まで握っていることを思い知った。ソ連のマレンコフ首相は『文明の終わり』と驚きの声を上げ、ソ連に対して先制的な原爆攻撃を主張していたチャーチルも、何発かで英国は無人の地になると警告し、その後は核戦略で柔軟姿勢に転換した」

 新聞紙面にもそれは表れた。3月27日付朝日朝刊は「ビキニ水爆と英の世論」の見出しで「これ以上の水爆実験はやめよ」などとイギリスのメディアが主張し始めたと報道。3月27日付朝日夕刊は1面トップで「米、次の水爆実験に慎重」と伝えた。

 しかし、アメリカ原子力委員会は3月29日、第2回の水爆実験を3月26日からマーシャル群島で実施し、成功したと発表した。

 3月27日、第五福竜丸は危険区域外にあり、事件に対して日本側に全く手落ちがなかったとする日本政府の調査結果がアリソン大使に伝えられた。それに対して、アメリカ側は直接意思表示はしなかったが、4月9日、アリソン大使が事実上受け入れを表明。焦点は補償問題に移った。

 3月28日には、焼津で入院していた乗組員21人がアメリカ軍用機で東京に移送され、東大付属病院と国立東京第一病院に収容された。

 この間にも数多くの放射能を浴びた船と魚が発見された。

 川崎昭一郎「岩波ブックレット 第五福竜丸」によれば、船は北海道から沖縄まで太平洋岸の全都道府県に登録されており、特に多かったのは高知、神奈川、静岡、和歌山。漁獲した魚を廃棄した漁船は、1954年末までに856隻、廃棄された魚は485.7トンに及んだという。

 風評被害でマグロをはじめ、魚の価格が暴落した。新聞には原子力と放射能に関するさまざまな企画記事が載った。「水爆不安は解消するのか」(3月20日付読売朝刊)、「水爆の脅威 時には全地球が危険」(3月22日付毎日朝刊)、「魚……心配ご無用 “ビキニのぬれぎぬ”マグロをめぐって」(3月24日付朝日朝刊)……。学者の見解も悲観論と楽観論を行き来する一方、新聞は、原子力と放射能の知識が乏しい読者を啓蒙するのに必死だった印象だ。

 水爆実験による被害は、海上保安庁の調査船「俊鶻(こつ)丸」の5月から2カ月近くに及ぶ調査で証明された。ビキニ海域で海水やプランクトン、魚から高濃度の放射能を検出。予想を覆して、ビキニ環礁から1000〜2000キロ離れた海域でも海水や魚が放射能に汚染されていることが分かり、世界に衝撃を与えた。

■「頭がハゲる」と真剣に逃げ回った小学生たち

 さらに実験の結果はマグロ漁船や水産業界だけでなく、一般国民の日常生活にも深刻な影響を与えるようになる。

「5月ごろになると、放射能の混じった雨が日本列島、特に太平洋岸の各地に降るようになった」(「岩波ブックレット 第五福竜丸」)。同書によると、各地の大学や研究所に雨やチリの放射能測定が始まり、観測ネットワークが作られた。

「本格的に放射能雨が確認されたのは5月半ば以後のことである。鹿児島大学から5月14日の雨に毎分1リットル当たり4000カウント、5月16日には1万5000カウントの放射能を検出。京都大学でも16日の雨に8万6760カウントの測定。その他の大学からも続々と雨水中の高い放射能価が報告された」(同書)

 科学研究所が土壌からも核分裂生成物が検出されたと発表。その後、5月16日前後からの雨の中に含まれている放射性物質は人工のもので、その原因は太平洋の彼方だとの見解を示した。

 私はこの年の4月に千葉県の小学校に入学した。“放射能マグロ”は遠い世界の出来事だったが、いったん小雨でも降ると、「頭がハゲる」と焦り、軒下を探して逃げ回った。それは核という、目に見えず得体の知れないものに対する真剣な恐怖だった。

 当時、太平洋岸の子どもの多くがそうだったのではないだろうか。このビキニ被爆をヒントに怪獣映画「ゴジラ」が生まれるが、あの映画を見たときの重い衝撃はその体験と密接に結び付いたものだったような気がする。

■奇跡は二度と起こらなかった

 入院中の第五福竜丸乗組員の病状はなかなかよくならなかった。

 3月30日には中泉教授が「23名は現在最悪の段階」と発表。5月ごろには回復が見られたが、久保山無線長は肝臓障害による黄疸が激しく、重体に陥った。

 一時回復したものの9月23日。「主治医は光るまなざしで家族に最期を告げた。久保山さんのお母さんは、小さな体をベッドにすり寄せてすがった。『愛吉、約束が違う、違うじゃあないか』。久保山さんは数日前、お母さんに『大丈夫だ、元気になるよ』と言っていた。『お父ちゃあん』。奥さんと3人の子どもたちの呼ぶ声が、張り詰めた病室の空気を切り裂くように響いた」(「死の灰を背負って」)。

 翌9月24日付朝日夕刊は2面全面を使って報じた。

〈久保山さん遂に死去 死因は「放射能症」

 奇跡は二度と起こらなかった。第五福竜丸無線長・久保山愛吉さん(40)=静岡県志太郡東益津村浜当目483=は、重体から奇跡的に持ち直したのもつかの間、再び悪化して23日午後6時56分、東京都新宿区戸山町の国立東京第一病院3階南病棟11号室で「放射能症」によりついに死去。その旨同7時、病院から発表された。「ビキニの灰」事件以来半年余、水爆実験による初の犠牲者を出したのである。同病院には深い悲しみと暗い興奮が渦巻いている。悲痛な空気が病院から国中へ、そして全世界へ、一夜のうちに広がっていった。〉

 この日の紙面にはなかったが、久保山無線長は「『原水爆の被害者は私を最後にしてほしい』という言葉を遺して息を引き取った」(「岩波ブックレット 第五福竜丸」)という。

■「日本側がアメリカ医師の診断と治療を許していたら死ななかったのでは」

 直後にはアメリカ原子力委員である下院議員が「日本側が原子力委員会のアメリカ医師の診断と治療を許していたら死ななかったのでは」と発言。翌1955年3月、同委員会幹部が「久保山氏は黄疸と肝臓病で死亡したのであり、放射能が原因ではない」との見解を示し、同年8月、国防次官補も公式の声明でそれを追認した。

 一方、補償交渉は名目や財源などで難航したが、1955年1月3日、アメリカ政府が慰謝料200万ドル(当時約7億2000万円)を支払うことで妥結した。1月4日付朝日夕刊には「政治的解決 法律問題はタナ上げ」との見出しが見られる。他の乗組員は1955年5月、1年2カ月にわたる入院生活を終えて退院した。

■事件の衝撃と水爆のその後

 事件の衝撃もあって、水爆の開発は事実上ストップした。

「各地で市民の中から自発的、自然発生的に水爆実験禁止や原子兵器反対の署名運動が始められた」「公民館長の永井郁・法政大教授を囲んで読書会を開いていた東京・杉並の母親の学習グループは『水爆禁止署名運動協議会』をつくり、1954年5月9日に呼び掛け、1カ月余りで区民の7割の署名を集めた」(「岩波ブックレット 第五福竜丸」)。原水爆禁止運動の始まりだった。

 同書によると、8月には署名を集計する全国協議会が結成され、署名は12月には2000万人を突破。翌1955年には第1回「原水爆禁止世界大会」が広島で開催される。第五福竜丸の“犠牲と功績”といえるだろう。

 その後、原水禁運動は分裂。海外から逆輸入する形で「反核運動」が広がり、現在に至っている。第五福竜丸は東京水産大の練習船として使われた後、1967年に廃船となり、東京・夢の島に放置された。1968年にそのことが報道されて保存運動が起き、「東京都立第五福竜丸展示館」として現存する。また、「死の灰」によるマーシャル諸島住民の被害も明らかになり、ロンゲラップ島では1984年に住民全員が離島した。

■広島、長崎から約9年…根付かなかった原爆被害の実情

 それでは、いまの視点から見て、第五福竜丸事件とは何だったのだろう。

 事件直後、1954年3月20日付朝日朝刊の「声」欄には、MSA協定などと絡め、「食卓の魚にまで放射能の心配をせねばならぬほど身近に、本当に身近に体験したことは、われわれにあらためて日本の将来を真剣に考えさせるという点で大きな意義があった」という学生の投書が載った。

 3月26日付読売朝刊の専門家による座談会では桶谷繁雄・東京工大助教授(のち教授)が「こんなものすごい武器ができた、下手をすると人類が滅亡する、そういう問題です」「今度の第五福竜丸の事件は世界中の人々を考えさせたことでしょう」と述べている。当時の感覚がつかめる。

 しかし、そのこと自体が、まだ9年近くしかたっていなかった原爆被害の実情が、広島、長崎以外の国民に根付いていなかったことを示している。占領期は原爆に関する報道が規制され、独立後も、広島、長崎以外では「平和教育」は限定的にしか行われなかった。

「ビキニ後」も「放射能雨」の恐怖はわずかな期間で消え失せ、「資源小国」のハンデから原子力平和利用が声高に叫ばれて原発政策が推進された。ビキニから57年後の2011年、東日本大震災で東京電力福島第一原発事故が発生。メルトダウン(炉心溶融)の危機は一時深刻だった。だが、地元以外のどれだけの人がその恐怖を実感し、いまも持ち続けているだろう。

 風評被害は冷静・公正な報道と合理的な理解が不足しているからこそ起きる。そのことは第五福竜丸の“原爆マグロ”騒ぎからも明白だ。

■あの時あの場所にいなければ

 ジャーナリスト浦松佐美太郎は「世界」1954年6月号掲載の「第五福竜丸の存在」という文章で広島、長崎の被爆に触れ、こう書いている。

「恐怖の記憶は過去の戦争の出来事として、その生々しさを失おうとしかけている時に第五福竜丸の遭難事件が突発したのであった。過去の恐怖がもう一度、ギラギラと光る生々しさをもって、一足飛びによみがえってきた。しかも今回の事件は広島、長崎の場合と違い、爆弾による直接の被害ではなく、爆発によって吹き飛ばされた『灰』という、捉えどころのない間接の被害だっただけに、日本人が心に感じた恐怖も一層深刻であったと言い得るのである」

 しかし、主に報道について彼は指摘する。彼はアメリカ側の「スパイ説」を取り上げ「(それなら)日本人は日本権益と日本人の自由を主張する立場から報道していいはずであった」と述べる。そして次のように指摘している。

「第五福竜丸の事件には、一つの重大な意味があったはずである」「もしあの時、あの場所に第五福竜丸がいなかったらば、という仮定の上に立ってもう一度考え直すことは今でも必要だと思われる」。その言葉はいまも意味を持っている。

【参考文献】
▽大石又七「死の灰を背負って 私の人生を変えた第五福竜丸」 新潮社 1991年
▽広田重道「第五福竜丸―その真相と現在」 白石書店 1989年
▽「読売新聞百年史」 読売新聞社 1976年
▽「読売新聞八十年史」 読売新聞社 1955年
▽佐野眞一「巨怪伝」 文藝春秋 1994年
▽庄野直美編著「ヒロシマは昔話か」 新潮文庫 1984年
▽「時事年鑑1955年版」 時事通信社 1954年
▽金子敦郎「核と反核の70年」 リベルタ出版 2015年
▽川崎昭一郎「岩波ブックレット 第五福竜丸」 岩波書店 2004年

(小池 新)

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