“匕首をくわえたザンバラ髪の女”の刺青から血が吹き出して… 戦後の新橋を我が物にしたヤクザの哀しき最期

“匕首をくわえたザンバラ髪の女”の刺青から血が吹き出して… 戦後の新橋を我が物にしたヤクザの哀しき最期

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熊も倒せる“S&W45口径”が腹を貫通しても起き上がり…北海道のカリスマヤクザ“雁木のバラ”の正体 から続く

 現代のヤクザ社会では、一人ひとりのヤクザが単独で行動をすることは許されず、徹底的な“組織”での行動が求められるようになっているという。すなわち一人のヤクザが伝説にはなりえぬ時代といえるだろう。しかし、かつては際立った個性を持ち、各地で伝説と呼ばれるヤクザたちがいた。

 そのような“伝説のヤクザ”の生涯を詳らかにした書籍が、フリーライターの山平重樹氏による『 伝説のヤクザ18人 』(イースト・プレス)だ。ここでは同書を引用し、頭脳と腕力で戦後の新橋を牛耳り、巨大な駅前開発を計画していた男の生き様を紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◇◇◇

■水泳教師の過去からきた異名

 “カッパの松”こと関東松田組初代組長の松田義一は、戦後、東京・新橋駅前に広がった膨大な闇市の利権を一代で掴みとった風雲児であった。

 松田は富山県氷見(ひみ)の出身だが、もともとが愚連隊だった。旧制の神田・錦城中学(現・錦城学園高校)時代には愛宕、三田、芝神明、新橋駅周辺を根城とする学生愚連隊のリーダーにのしあがっていた。

 中学を卒業後、しばらくは“兄ィ”として新橋のサロン「春」の用心棒をしながら、銀座界隈で名を売った。水泳が巧みで、昼間は芝プールの水泳教師を兼ねていたことから、“カッパの松”の異名で呼ばれるようになったという。

 日中戦争が勃発すると、大陸ブームに刺激されて上海に渡った。そのころ、銀座に事務所を構えていた大和新風大化会(のちに大化会)の岩田富美夫の影響を受け、彼に付いての上海行きであった。

 大陸での消息は明らかではないが、上海にしばらく滞在したあとに北満(ほくまん)を流れ歩いて大連(だいれん)へと至り、大陸ゴロのボスに納まって関東軍に協力していたようだ──との話も伝わっている。

■服役中に妻が亡くなる

 大陸には2年ほどいて帰国後の昭和16年10月、ちょっとした間違いから上野の日東拳闘クラブ会長の伊藤祐天を斬るという傷害事件を引き起こした。間もなく手打ちとなったが、松田はこの一件で実刑を打たれ、千葉刑務所に10カ月服役するハメになる。

 千葉刑務所では、破笠一家入村貞治の若衆で“佐竹の坊ちゃん”こと飯村操とともに、500人からの受刑者の上に君臨し、よく統率し、刑務官からも服役者からも一目置かれていたという。

 松田は昭和17年暮れに出所したが、服役中に最初の妻ルミを肺結核で亡くしている。喪が明けたあとで妻に迎えたのが、ルミの姉の芳子であった。

 松田義一亡きあと、その跡目をとり、戦後初の女組長として名を馳せた関東松田組二代目の松田芳子である。

 芳子はもともと横浜・山元町(やまもとちょう)の出身で、旧姓を松永といった。芳子は美人として知られるが、妹のルミは芳子にもまして目の覚めるような美女であったという。不良っ気もたっぷりで、腕に“流れ星”の文字の刺青を彫り、“流れ星のルミ”という異名もあった。

 本牧(ほんもく)のチャブ屋(外国船員相手の高級遊郭)「東亜」に勤め、つねにナンバーワンの座を保っていたが、プライドも高く、気にいらない客は絶対にとらなかった。

■横浜の伝説的な愚連隊とのつながり

 この「東亜」の用心棒をつとめていたのが、横浜の伝説的な愚連隊、“メリケン武”こと松永武だった。

 メリケン武はスラリとした長身に三つぞろいのスーツを着こなし、ボルサリーノをかぶり、赤茶色に染めたコールマン髭を立て、つねに仕込み杖のステッキを持ち、運転手つきの黒のフォード・セダンを乗りまわす──という不良少年たちをシビれさせるスタイルで、まさに時代の先端を行った。本牧を根城に、ダンスホールやチャブ屋のあらかたの面倒もみていた。

 “カッパの松”こと松田義一は、このメリケン武とは古くからの兄弟分であった。

■現役の毎日新聞記者が相談役

 ともあれ、松田は昭和17年暮れに出所すると、妻の芳子に芝浦で小料理屋を開かせた。が、空襲が激しくなり、彼女を富山・氷見に疎開させている。

 自身はしばらく東京に残り、飯村操の世話で浅草三筋町の龍風荘アパートを仮の住まいとしていたが、間もなくして芳子のもとへ引っ込んだ。

 やがて日本の敗戦となり、松田が本格的に売りだす季節の到来となった。

 戦後すぐに古巣の東京・新橋に舞い戻った松田は、芝西久保桜川町に自宅兼事務所を置き、「関東松田組」を旗揚げする。

 松田組のブレーンとなる塙長一郎と約20年ぶりに再会するのも、それから間もなくのことだった。

 塙長一郎は毎日新聞の記者で、のちにNHKの人気番組『二十の扉』のレギュラーにまでなり、最後は毎日新聞紙面委員をつとめた人物である。

 塙は新聞記者ながら、関東松田組の参謀格として松田義一、芳子の二代にわたって相談役的な役割を担った。いまでは考えられないような話だが、終戦直後という“乱世”ならではのことである。

 カッパの松と塙の出会いにも、面白いいきさつがあった。松田が錦城中学時代、学生愚連隊のリーダーとして芝区内で暴れまわっていた時分、塙は毎日新聞社会部記者として警察まわりを担当、愛宕署を守備範囲に持っていた。

■“カッパの松”と毎日新聞記者との出会い

 たまたまその愛宕署に、不良狩りに引っかかって拘引されてきた一人の異色の中学生グレがあった。

「おい、面白いヤツがいるぞ」

 署長が塙に声をかけてきた。

「何ですか」

「一風変わった不良だ。酒も煙草もやらんし、頭もいい。それにガキのくせに妙に筋っぽいヤツなんだ」

 という署長の話に興味を持った塙は、刑事部屋でその学生グレと会って話を聞くことにした。

 話を聞いているうちに、塙はこの少年の頭の回転の速さに内心で舌を巻いてしまった。

〈なるほど、署長のいう通りだ〉

 それが若かりし松田義一─後年の“カッパの松”だったのである。

「何か欲しいものはないか」

 と聞く塙に対し、

「甘いものが欲しい」

 と松田は答えた。そのため、塙は1週間ほど菓子の差し入れをしてやったものだった。

■20年後、偶然の再会

 それから二人が再会するのは、約20年後の敗戦下の新橋である。塙がNHKの録音取材に協力しているとき、二人はバッタリと出会ったのだった。

「これからの時代は、旧態依然のままのヤクザではやっていけません。関東松田組も、近い将来には近代的な商事会社に変えていくつもりです。塙先生のお知恵をお借りしたい。ぜひ、相談にのってください」

 松田は塙に懇請した。

 関東松田組の事務所を新橋に置いて、新橋制覇の野望に燃えたった松田が、力によって新橋駅前の露店市場を一手に押さえるまで、そう時間はかからなかった。

 その先頭に立ったのは、千葉刑務所時代に松田に惚れこんで若い衆となり、関東松田組に馳せ参じた命知らずの精鋭たちだった。

 新橋はよその地域と違って、テキヤのほうは戦後、一種の混乱地帯となっており、戦勝国民と称する連中が多数入りこむなど、庭主の統制がとれていなかった。それだけに関東松田組のような愚連隊が介入するのも可能であったといえる。

 松田は関東松田組の名で新橋露店市場の制圧にかかり、統制下に入ることを拒んで牙をむいてくる者に対しては、容赦なく力でねじ伏せていった。

■配下総勢2000人を統率

 かくて新橋駅前の広大な露店市場(約1300店)は、ほぼ関東松田組の軍門にくだった。つまり、駅前の闇市は関東松田組の庭場となり、露店からのカスリやショバ代を集める支配権を獲得するに至ったのである。

 そうした庭場からのアガリ(直系露店のアガリも含む)は、1日一升枡100杯に達し、組の金庫は札束で唸ったという。

 同時に組織もふくれにふくれあがった。関東松田組は直系組員だけで100人、総勢2000人ともいわれる勢力になったのである。

 そうした力を背景に、松田義一は昭和20年の暮れ、名門テキヤ・松坂屋五五代目を継承、一介の愚連隊からテキヤ社会の公認の存在となった。松田の愚連隊流のはねっ返りを封じたいとする親分衆と、親分衆に公認されたいという松田との双方の思惑が一致した結果の所産であった。

 だが、松田はテキヤの旧態依然とした露店というスタイルに、それほど希望を持ってはいなかった。かねがね、

「露店の繁栄は、商店街やデパートが息を吹き返すまでの2、3年だ」

 と考えていたのである。

■1000万円を投じた事業計画

 そこで独自の計画を練っていた。合資新生社の渡辺敬吉社長と組んで、新橋駅西口の強制疎開地域広場(2800坪)に新生マーケットを建設しようというものだった。

 そこへ露天商を収容し、ゆくゆくはデパート化して、そこを拠点に商事会社を興し、興行、土建、その他の事業にも手を伸ばそうという壮大な計画であった。

 松田に、こうした“近代化”という考えかたを示唆したのは、ニューヨーク・ポスト東京派遣員のダレル・ベリガンであったといわれる。

 日本の民主化を妨げている最たるものは封建的家族制度、つまり“親子関係”という基本認識を持っていたベリガンは、ヤクザ社会の支配関係も、この家父長制度の病理的移殖と見たのである。

 ベリガンが書いた『やくざの世界──日本社会の内幕』(昭和23年8月刊行「近代思想社」)も、一貫してそういう観点からのものだった。

 ベリガンは取材で知りあい、親しくなった松田に、関東松田組を商事会社に改変して近代化を目指すべきだ──と説いたといわれる。

 このベリガンからどれだけ影響を受けたかは別として、松田が本気で近代化に取りくんだのは確かなことだった。計画通り、総工費1000万円を投じてマーケットの建設に着手したのは、昭和21年3月であった。

 工事は予想以上に順調に進み、3カ月後には完成目前というところまできていた。

■刺青の女の首から吹き出す血

 そんな折──6月10日の夜10時ごろ、関東松田組本部へ約束もなしに訪ねてきた男がいた。

 松田のかつての舎弟で、野寺という男だった。松田に破門された身である。

「親父に会いたい」

 応対に出た手伝いの女が気をきかして、

「出かけています」

 と答えた。どう見ても歓迎すべき客とは思えなかったからだ。

「話がある。呼んできてくれ」

 元舎弟は、松田の在宅を知っていたのだ。

 この夜、松田は麻布のプレス・ネストで、ベリガンと会う約束をしており、その仕度にとりかかっている最中だった。

 訪問客が破門した野寺と知り、松田は、

「用件はなんだ?」

 と着流し姿で応対に出た。

 それから20分くらい二人は話しあった。破門を解いてくれという話だったとも、中国人の意を受けたマーケットの一件であったともいわれるが、その内容は不明である。ときおり意見がぶつかるのか、次第に二人の声が高くなったという。

 やがて野寺は、「帰るぜ」と席を立った。

■振り向きざまに放たれた弾丸

 送って出ようとして、松田がドアのほうへ一歩足を踏みだしたとき、惨劇は起きた。

「バーン!」という銃声が事務所内に轟いた。野寺が隠し持っていた拳銃を取りだすや、振り向きざまにぶっ放したのだ。

 銃弾は間違いなく松田をとらえた。それでも松田はひるまず、「待て!」と追おうとして、5、6歩狙撃者に迫ったところで、力つきてよろけた。

 そこを野寺はさらに2発見舞った。3発目がまともに松田の心臓をぶち抜いた。

 銃声に驚いた妻の芳子が、短銃片手に駆けつけたときにはもう遅かった。松田は血の海に沈んでいたのである。

 松田の胸に彫られた女の刺青が、芳子の目にひときわ鮮やかに映えた。

 そして、その匕首をくわえたザンバラ髪の女の首すじあたりから、血が脈を打って吹き出していた。

 死線をさまよいながら、松田は辞世をこう詠んだという。 

「松虫よ 美人の袖に落ちて死ね」

 かくて“カッパの松”の異名をとった神農界の旋風児は、36年の波瀾の生涯を閉じたのである。

【前編を読む】 熊も倒せる“S&W45口径”が腹を貫通しても起き上がり…北海道のカリスマヤクザ“雁木のバラ”の正体

(山平 重樹)

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