【今週はこれを読め! SF編】未来の化石を描く実験作「終着の浜辺」、アイロニーと詩情の「溺れた巨人」

【今週はこれを読め! SF編】未来の化石を描く実験作「終着の浜辺」、アイロニーと詩情の「溺れた巨人」

『J・G・バラード短編全集3 (終着の浜辺)』J・G・バラード 東京創元社

 J・G・バラードの短編を年代順に網羅する全五巻の全集の、これが第三巻。収録されている十九篇が発表されたのは1963〜66年で、SF界におけるバラードの位置を決定づけた《破滅三部作》----『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』----と重なっている。内容的にもつながりが見られる。

 はじめての邦訳となる「光り輝く男」は、『結晶世界』の原型となった作品。宇宙的な変異の影響であらゆる生物が結晶化していくアイデア、結晶化をしばらく遅らせる効果のある宝石という象徴性、光り輝く森や動物の鮮やかな描写など、共通する要素が多い。ただし、『結晶世界』の舞台はアフリカだったが、「光り輝く男」はフロリダだ。語り手も、『結晶世界』が医師のサンダーズ博士だったのに、「光り輝く男」は科学技術参事官になっている。同行する調査団の仲間からは「ジェームズ」と呼ばれている。読者は当然、作者バラードの分身と見なすだろう(J・G・バラードの「J」はジェームズである)。

 サンダーズ博士が人妻スザンヌとの奇妙な不倫関係にあり、やや妄執的な衝動に突き動かされていたのに対し、ジェームズはどちらかというと虚無的な心を抱えて登場する。十年前に妻と三歳の娘を交通事故で失ったせいだ。

 しかし、船で結晶化した森に入ったとたん、その圧倒的な景観が彼の心を揺さぶる。

 現象の正体をめぐって船上で大論争がくりひろげられ、そのあいだわたしと髭面の男だけが沈黙をまもっていた。どういうわけか、われわれが目撃した奇妙な現象について、いわゆる「科学的な」説明をみつけることに、ほとんど関心がなくなったのである。みごとな光景の美しさがわたしの記憶をよびさまし、四十年近く忘れていた幼年時代の無数の記憶にいま心が満たされて、ワーズワースが幼年時代の回想のなかでじつに正確に描写した、あのプリズム的な光によってあらゆるものが光り輝いていた幼いころの楽園的な世界がよみがえったのである。

 作中で結晶化は「時間の涸渇」によるものと説明されるが、そうやって生まれた景観が語り手の「失われた時」を呼びもどすのだ。物理的な時間と現象論的な時間とが、バラードの想像力によって転換している。生物の結晶化は通常のSFのコンテクストでは破滅だが、バラードのヴィジョンでは永遠性への到達であり、始原への回帰だ。

 ところで、「交通事故によって妻と子どもを失った」というジェームズの境涯は、「終着の浜辺」の主人公、米軍パイロットのトレイヴンと共通する。トレイヴンは、廃棄された核実験場である太平洋のエニウェトク環礁へやってくる。

 コンクリートのブロックが入り組んだ施設、砂とわずかな椰子だけの荒涼たる自然。バラードは作中人物の口を借り、「この島は心の状態なのだ」と明言する。おそらく残留した放射能の影響をこうむりながら、疲弊しきった身体であてどなく島をめぐるトレイヴンは、自らの精神を彷徨っているのだ。そして、ときどき妻と息子をみかける。

 しかし、そこには通常の意味での家族の情などはない。それは謎めいた記憶であり、消せない印象として、ただそこにあらわれる。

 これを、いわゆる心理描写として捉えてしまうと、バラードの特質を見誤ることになる。「この島は心の状態なのだ」の「心」は、主人公トレイヴンの心だけにとどまらず、あらゆる人間の心である。地質学が化石によって過去をさぐるように、バラードは遺棄された核実験施設を「未来の化石」と見立て、それによって現在をさぐる。

 その試みにふさわしく、「終着の浜辺」はスタイルも実験的だ。レンズを通して記録しているかのような乾いた筆致と、短い断章を並置していく叙述形式。のちに『残虐行為展覧会』として結実する濃縮小説(コンデンスト・ノヴェル)の先ぶれともいえる。

 この作品と並ぶバラードの代表的短編が「溺れた巨人」である。こちらは実験的な手法ではなく、寓話的な仕立ての小説として読むことも可能だ。嵐の去った朝、浜辺にマッコウクジラほどもある巨人の水死体が流れつく。たちまち野次馬が群がってくる。学術調査団も来るが、たいていのひとは珍しいアトラクションのように受けとめ、巨人によじ登ったり、胸や顔の上を歩きまわったり、なかには鼻の先で軽業のようなことをする者まであらわれる。

 面白いのは、この巨人の正体をめぐる議論がまったくおこなわれないことだ。学術調査団のふるまいも点景のように置かれているだけで、とくに調査報告がおこなわれることもない。そもそもひとびとから巨人を隔離する手だても講じられない。語り手の職業ははっきりとはわからないが、「同僚たちとわたしが研究に使っている図書館」という記述から察するに、アカデミックな仕事なのだろう。その彼にしても、巨人に対する興味は、生物学的なものでも解剖学的なものでもなく、まず「巨人の性格」なのだ。しかし、あたりまえだが、死体の外見からはなんの手がかりも得られない。

 結晶化する森とは対称的に、溺れた巨人は日に日に朽ちていく。しかし、その死体のあちこちの部分(骨やミイラ化した皮膚)は切りだされて、やがて世界のあちあちこちに出まわる。巨人という実体はなくなったものの、そうやって遍在性を得たともいえる。しかし、奇妙なことに、ひとびとのなかで巨人の水死体が流れついたという記憶は薄れ、あたかも大きな海獣くらいの印象しか残っていない。奇妙なアイロニーと詩情が残る作品だ。

(牧眞司)

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