【今週はこれを読め! エンタメ編】断裁工場で働く主人公の朗読の日々『6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む』

【今週はこれを読め! エンタメ編】断裁工場で働く主人公の朗読の日々『6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む』

『6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む (ハーパーコリンズ・フィクション)』ジャン=ポール ディディエローラン ハーパーコリンズ・ ジャパン

 売れ残って在庫として置いておく場所もなくなった本には、「断裁」という末路が待っている。この事実を知ったとき、血の気が引きそうな心持ちがしたことは忘れられない。一時期(今も?)、電子書籍として読めるように本をいったんバラバラに分解してデータとして読み込む「自炊」が流行ったと思うが、それでさえとてつもなく抵抗があったのに。

 本書の主人公は、まさに本の断裁工場で働くギレン・ヴィニョールだ。自分の名前を生まれながらの重荷と感じながら生きている。なぜなら、名前の頭の文字を入れ替えると「ヴィレン・ギニョール」、すなわち「醜い人形」という意味の言葉になってしまうからだ(申し訳ないと思いつつ、「アツはナツいね〜」というギャグを思い出してしまいましたが)。ギレンが担う業務は、工場の中央に鎮座する「ツェアシュトー500」を動かすこと(ドイツ語で「破壊する」という意味の動詞「ツェアシュトーレン」からきている)。本をずたずたに切り裂き、熱湯を加えてさらに細かく粉砕し、パルプ状に練り上げる機械だ。ギレンは疲弊している。元同僚であるジュゼッペがいみじくも言い表したように、これは「大量虐殺だ!」と思っているのだ。ほんとうは本の断裁なんてしたくない、勤続年数を重ねてもいまだに吐き気がするほど自分の仕事に倦んでいる。

 そんな現実と自分の心に折り合いをつけるように、ギレンは朝の通勤列車で朗読をする。毎朝同じ時刻の列車に乗り、ドア右の小さな収納式座席に座って、革のブリーフケースから取り出した紙に書かれた文章を読む。何年にもわたって、同じ車両で同じ時間を過ごしてきた乗客たちがオーディエンスだ。彼らは乗車している20分ほどの間、「ギレンのおかげで退屈な自分の人生を一時忘れることができた」。

 ギレンにとっては、どのような文章を読むかということではなく、読むという行為そのものが重要なのだった。彼が読むのは前日に断裁を免れたほんの10ページほどの文章、彼が読む理由は「紙を言葉から解放して、きちんと往生させるため」。乗客たちはおそらく、ギレンがなぜ毎日違う本の中途半端な範囲を朗読するのか理解してはいないだろう。しかし、どんな文章であろうと熱心に明瞭な発音で読む彼の朗読は、乗客の心を打つ。そもそも、朝の通勤列車でいきなり大声で本を読み始める乗客がいたら、実際には身構えずにはいられないだろうし、「うるせえ!」的な罵声が飛んでもおかしくないと思うのだけれども、彼の朗読は温かく受け入れられている。ある意味ファンタジーなのだが、本を愛する人、そしてちょっと日常に疲れてしまった人同士が、こんな風に温かい時間を共有できたらいいなと思わずにいられない。

 そんなある日、ギレンの日常に思いがけないできごとが起こる。収納式座席を引っぱり出した瞬間にごくふつうの赤いUSBメモリーが飛び出してきたのだ。帰宅したギレンはノートパソコンにそれを差し込み(※よい子のみなさんは落とし物として届けないといけませんよ!)、72個のテキストファイルが保存されていることを知る。1つめのファイルから中身を確認すると...。

 本書は、著者であるジャン=ポール・ディディエローランの長編デビュー作。発売前から話題となり、世界36か国で刊行され、自国フランスにおいては26万部突破のベストセラーとなった。粋な恋愛小説としての魅力はもちろんなのだが、やはり本の断裁という題材が読者の興味を引きつけているのではないかと思う。将来的には生まれた時から電子書籍を読むような世代も現れるだろうし、現時点でさえ紙媒体を必要としない読者もいるようだけれど、私はやはり紙の本を好むアナログ派だ。いまのところはまだまだ同意見の層も多くて、そういった人々は断裁される本への思いを馳せつつ本書を手にとったりしているのではないだろうか。紙の本を愛する者にとっては、できることなら本を「破壊する」ことなどしてほしくないと願うだろうから。

(松井ゆかり)

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