【今週はこれを読め! ミステリー編】フィツェック『座席ナンバー7Aの恐怖』を買いだ!

【今週はこれを読め! ミステリー編】フィツェック『座席ナンバー7Aの恐怖』を買いだ!

『座席ナンバー7Aの恐怖』セバスチャン フィツェック 文藝春秋

 安心と信頼のセバスチャン・フィツェック、なのである。

 小説の中では不穏すぎることが次々に起きて読者の心を脅かすし、出てくる登場人物がみんな胡散臭くて誰の言葉に耳を傾ければいいのかわからないほどだが、それでもフィツェック・ブランドに間違いなし、なのである。

 新作長篇『座席ナンバー7Aの恐怖』も、もちろん買いだ。

 フィツェック作品ではいつものことだが、ページを開いた途端に読者の前には大量の情報が押し寄せてきて、あっという間に作品世界の中に連れ込まれる。ただし情報間の脈絡が最初は整理されていない形で提示されるので、ものすごくせっかちな監督が編集したフィルムを見せられているような気分になる。なんだこのコマ割りは、という感じに。

 冒頭、プロローグでまず見せられるのは病院での一コマだ。殺人課の刑事が苛々しながらある患者の意識が戻るのを待っている。医師によれば件の人物は閉じ込め症候群になっている可能性があり、意思疎通は困難だというのだ。どうやらその患者がとある行方不明者を見つけるための有力な手がかりを握っているらしい、ということが判った瞬間にパタリと幕が下りて、本編の話が始まる。

 まず起きることは誘拐である。ネレというベルリンに住む女性が、予約したタクシーで病院を目指そうとする。彼女は出産を控えているのだが、自然分娩ではなく帝王切開を希望していた。HIVキャリアなので、胎児への感染可能性を低くするためだ。ところがそのタクシーは彼女の予約したものではなかった。運転手がネレを連れ込んだのは病院ではなく、牛舎と書かれた建物だった。そして言うのである。心配しないで、きみの母乳が欲しいだけだから、と。いや、その恐怖しか掻き立てない言葉はなんなんだ。

 次に起きるのは大西洋を挟んだ向こう側、ブエノスアイレスの出来事である。精神科医のマッツ・クリューガーがベルリンに向けて十三時間のフライトに臨もうとしている。問題が一つあり、彼は飛行機恐怖症なのである。かつてベルリンからブエノスアイレスに移住した際も貨客船を使ったほどで、今回の搭乗も娘が出産を控えていて彼の助力を必要としているという事情がなければ、ありえないことだった。墜落を怖れるマッツは、その便の座席を複数購入していた。過去の事故において奇跡的に乗客が生還できた場所なのである。ただし、ビジネスクラスの7Aだけは違う。破壊実験の結果によれば、そこは確実に乗客を死に至らしめる席なのだ。そのもっとも危険な席をマッツは空けたままにしておきたかった。しかし手違いがあり、子連れの女性がそこに移ってしまう。

 もうお気づきだと思うが、ネレはマッツの娘である。賢明な作家の常套手段として、フィツェックは二人の過去を小説の冒頭で滔々と語って読者を退屈させたりはせず、想像に任せたまま物語の本筋に入っていく。離陸後、マッツのスマートフォンには正体不明の相手から着信がある。ボイスチェンジャーで声を変えているらしい相手は意外なことを言い出した。「すぐに近くの化粧室へ行って、次の指示を待て。二分で行かなければ、娘は死ぬ」と。そして同時に送られてきていたメールには、絶望そのものの表情を浮かべたネレが縛られて横たわる姿の写真が添付されていた。

 ここまでが序破急で言えば序に当たる部分だろう。続く通話によって、謎の人物の狙いが明らかになっていく。マッツに突き付けられた任務は自分が今乗っている飛行機を墜落させることだ。ブエノスアイレス発のLEA23がレーダーから消えればネレは解放される。しかしベルリンに到着すれば彼女と胎児は殺害される。16人の乗務員も入れれば622の人命が失われるが、地上のネレは救われるのだ。この残酷な取引を行えるのは、一人マッツ・クリューガーのみなのである。彼は自分たちの運命を破滅へ向けて動かすための、ある鍵を持っている。その鍵を使ったことにより、機内の人間関係の一画には小さな変化が起き、不穏な空気が漂い始める。そこからの展開は読んでのお愉しみである。あれよあれよという間に予想外の方向に持っていかれてしまう、この作者ならではの語り口を堪能してもらいたい。

 飛行機内にいる人間が電波のローミングによって携帯電話の通信を自由にできるようになった時代だからこそ成立する話で、マッツは比較的容易に地上にいる人間とやりとりをする。そこまで巧くいくかな、という疑問が頭を掠めるが、フィツェックの物語運びはおおむねフェアである。どんなに大風呂敷を拡げているように見えても、読者に見せた部品には無駄なものが一つもなく、すべて使い切る。提示された情報の中には陰惨で目を背けたくなるものもあるが、それも最終的に構成された真相の中にきちんと収まり、単なる露悪趣味で書かれたものではないことを証明される。そのへんの書きぶりが「安心と信頼」の所以なのだ。

 前回翻訳された『乗客ナンバー23の消失』は豪華客船上からの人間消失を扱った〈閉鎖空間タイムリミット・サスペンス〉であった。今回も航空機内での事件を扱ったという点で同趣向の作品といえる。前作をお読みになった方なら、その意外なほどの後味のよさをご記憶だと思う。あんなにひどいことばかり起きる話なのに。フィツェックの中には、すべてを陽光の下に引き出し、論理によって物事の決着をつけたい、という欲求があるように思われる。どんなに混乱した物語であっても、最後にはその明快さが勝つのである。推理を希求する精神と言ってもいいように思われる。おそらく、謎は解かれるからこそ美しいという信念がフィツェックの中にあるのだろう。垂れこめた黒雲に一筋の光明が射しこみ、見る間に辺りを晴明な空間に変えていく。そのカタルシスが欲しくて、私はフィツェックを読むのである。

(杉江松恋)

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