【今週はこれを読め! ミステリー編】軽業のように飛翔してゆく物語『パリのアパルトマン』

【今週はこれを読め! ミステリー編】軽業のように飛翔してゆく物語『パリのアパルトマン』

『パリのアパルトマン (集英社文庫)』ギヨーム・ミュッソ 集英社

 不動産屋の手違いから、見ず知らずの男女が一つ屋根の下で共同生活を送り始める話。

 と聞いて、え、それってどこの『翔んだカップル』、と思った人はもうおばさんかおじさんだと思う。あるいは永遠の薬師丸ひろ子ファンか。

 ギョーム・ミュッソ『パリのアパルトマン』は、そんなロマンティック・コメディ風の始まり方をする物語だ。ミュッソはフランスのベストセラー作家で、昨年『ブルックリンの少女』という凝った造りの長篇が翻訳されている。

 主人公の二人は、一人がマデリン・グリーンという元刑事のイギリス人で、もう一人がガスパール・クタンスというアメリカ人の劇作家である。マデリンは刑事の職を辞した後、一時期パリで花屋を開いていた時期があり、当地にはなじみが深い。彼女がパリを訪れた理由は初め伏せられているのだが、ある医療機関にかかる目的があるということがそのうちに明かされる。ガスパールのほうはカンヅメが目的だ。彼は一年に一作の戯曲を書く。そのためにパリにやって来たのだ。パリが大嫌いで、絶対に外出したくないから、執筆が進む。

 二人が不幸にも鉢合わせしてしまった家は、天才画家と呼ばれたショーン・ローレンツが住んでいた場所だ。彼が青春時代を過ごした1980年代のニューヨークは公共物への落書き、いわゆるグラフィティ・アートが全盛期だった。恋した女性・ペネロープを題材にした作品を地下鉄車両に描きなぐったことがきっかけで商業作家として成功し、巨万の富を築いた。だが、あることがきっかけで絵画への情熱を失ってしまったショーンはどん底の日々を送り、マデリンたちがやってくる一年前に死んでしまったのである。画商のベルナール・ベネディックから、そのショーンが残した三枚の絵がどこかに隠されているはずだ、とマデリンは聞かされる。

 たぶん、書いてしまって読者の興を削がないで済む内容はここまでである。マデリンとガスパールは、気に食わない相手と協力しながら、三枚の絵が隠された場所のヒントを探し始めるのである。つまり宝探し小説の展開になるのだが、ここからは読者がまったく予想しなかったであろう方向に話が進み始める。羅針盤の壊れた船というか、坂道を転がるパチンコ玉というか。とにかく、その転がり方を味わってもらうしかない。前作『ブルックリンの少女』もそうだったのだが、ミュッソの作品はとにかく柄が大きくて、せせこましく一ヶ所に留まっているということがない。題名こそ『パリのアパルトマン』なのだが、それこそ世界を股にかけるようにして物語は広がっていくのである。考えてみれば主人公はイギリス人とアメリカ人であり、死んだ画家もニューヨーク生まれだ。初めから壮大な規模に広がってもいいように設定をこしらえているのであり、だからこそ彼は本国でベストセラー作家として支持されているのだろう。

 ここまで故意に書いてこなかったことがたくさんある。巻頭に置かれた「男の子」という断章で、昔愛した男と再会して衝撃を受けた女性は誰なのか。ショーン・ローレンツから画業の情熱を奪ってしまった不幸な事件とは何か。ガスパールの攻撃的な性格は何に起因するものか。そうした疑問が読者の頭をよぎっては消えていく。ミュッソの巧妙なところはそこで、情報を小出しにするのである。また、マデリンとガスパールという二人の視点人物がいることを利用して物語を複線構造で進めていく。過去の出来事や新しく発見された事実は、二人の視点を使って両面的に描かれる。そのために読者の中にしっかりとした像が結ばれるのである。そうして拵えた拠点を使って、ミュッソは軽業のような飛翔を次々に決めていく。あっけにとられた顏の読者を後に残して。

 まったく関係ないことを書くのをお許し願いたい。私の好きなガイ・ハミルトン監督に「レモ 第1の挑戦」という作品がある。その中に、日本の忍者よろしく、主人公が水面を走る場面があるのだ。一方の足が沈まないうちにもう一方の足を出す。それを繰り返していけば水の上でも走ることができる、と雑誌の忍者特集などで昭和の子供たちは吹き込まれ、プールで実践してぶくぶく沈んだものである。それをやってのけたのが「レモ 第1の挑戦」であり、『パリのアパルトマン』なのだ。

 別に水の上を走った、と言っているわけではない。長篇小説には着地点というものがあり、そこに辿り着けばいったん重力が生じる。つまり話は沈みこむのだが、作者はそれと気取られないように別の展開を持ってきて、再び物語を浮かび上がらせようとする。『パリのアパルトマン』は、まったく重力を生じさせないよう、つまり一方の足が沈まないうちにもう一方の足を出す、という難業に挑んだ小説なのだ。物語は決して沈むことがなく、常に何センチ、何ミリか、水面より浮かび上がっている。矢継ぎ早の展開のなせる業である。夢のようなスリラーだと思う。羽根の生えた物語だと思う。

(杉江松恋)

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