【今週はこれを読め! ミステリー編】おそるべき規模の物語アルネ・ダール『時計仕掛けの歪んだ罠』

【今週はこれを読め! ミステリー編】おそるべき規模の物語アルネ・ダール『時計仕掛けの歪んだ罠』

『時計仕掛けの歪んだ罠 (小学館文庫)』Dahl,Arne,ダール,アルネ,俊樹, 田口 小学館

 何も信用できなくなって世界が剣呑に見えてくる。

 アルネ・ダール『時計仕掛けの歪んだ罠』(小学館文庫)はそういう小説だ。サムエル・ベリエルが率いるストックホルム警察犯罪捜査課員が、ある建物に突入する場面から物語は始まる。15歳のエレン・サヴィンエルが行方不明になっている事件で、その建物で彼女を目撃したという通報があったのだ。扉を破り踏み込んだ警察官をブービートラップから放たれたナイフが出迎える。屋内はもぬけの殻だった。ベリエルたちは遅すぎたのだ。地下へと続く階段を下りると、中は迷路のように入り組んだ構造になっていた。壁を破城槌で壊す。その先には奥の見えない穴倉が現れた。中から漂う異臭。壁に沁み込んでいるのは明らかに血液だった。やはり遅すぎた。はるかに遅すぎたのだ。怒りと徒労感に塗れながら外に出たベリエルは、ある違和感を覚えて携帯電話で写真を撮影する。

 このあとの展開で、ベリエルと上司のアラン・グズムンドソン警視が捜査方針で対立していることがわかる。捜査員に余計な情報を吹き込むな、と警視は牽制するが、ベリエルは犯人がエレンの前に二人の犠牲者を出していると確信していた。グズムンドソンは、スウェーデンには連続殺人者など存在しないという迷信にどっぷり浸かった、時代遅れな社会主義者なのだ。しかしベリエルは自分が正しいことを知っている。

 これだけの構図ならありふれた警察小説なのだが、作者は読者に注意を促す。ベリエルは一徹な捜査官に見えるが、過剰な部分があるように描写されているのである。彼はローレックスなどの高級腕時計を複数所持していて、日曜日のたびにそれをはめ替える。すぐに結露してしまい、捜査の現場には不向きな腕時計を。ベリエルは自宅に捜査資料を持ち帰っている。ユリア・アルムストレームとヨンナ・エリクソン。彼が連続誘拐犯の第一、第二の犠牲者となったと考えている少女たちに関する資料だ。そして読者は、ベリエルが不可解な証拠品を手にしている場面を目にする。

 書いていいのはここまでだろう。十代の少女ばかりを標的にする憎むべきシリアルキラーと刑事との闘いを描く警察捜査小説、と単純に言い切っていいのは第一部までだ。この小説は四部構成になっていて、第二部、第三部と進行するにつれて目に見える事件の様相も変化していく。そのさまはさながら、昆虫が完全変態を遂げるが如し。

 とりあえず明かしていい情報を書いておくと、第二部はベリエルがある重要な証言をした人物を尋問する場面が核になっている。その模様が延々と描かれるだけで舞台もほぼ取調室から動かないのに、息詰まる緊迫感がある。ポーカーやチェスなどの勝負を描いた小説を思わせるのは、相手のちょっとした表情の変化からベリエルが心理を読み取ろうとするからだろう。ここはどちらかという静の場。続いて動の場になってすべての見え方ががらりと変わるある事実が判明し、何を信じていいのかわからない五里霧中の闇に読者は投げ込まれることになる。その時点でまだページは半分近く残っているのだ。ええっ、このあとどうなるの、と戸惑いながら第三部に入ると、思いがけないチェンジ・オブ・ペースが待っている。

 あまりに驚くことばかりなので、できれば文庫帯なども見ないで読み始めたほうがいいと思う。裏表紙の内容紹介はセーフ。川出正樹の解説も、書きにくい要素をぎりぎりのところまで踏み込んで明かしている。とにかく、先が気になってページをめくりたい気持ちにとことんさせてくれる小説なのだ。書かれているのは残酷な少女誘拐事件だが、どんよりとした気分にだけさせられるわけではないので、エンターテインメントとしてのカタルシスがあることは保証しておく。そして伏線回収の技巧がたいしたものであることも。ベリエルの腕時計エピソードなども含め、第一部に書かれたことで無駄な要素は一切ないのである。ウルトラマン映画で言うと、最後にベリアルがすべての怪獣亡霊と合体してベリュドラになっちゃうような。そこまでなんでもかんでも持ってきますか、というような展開になる。とにかくおそるべき規模の物語だ。

 アルネ・ダールはスウェーデン・ミステリー界の新星として高く評価されつつも、翻訳機会に恵まれなかった作家である。元は文芸評論家だったが小説家としての活動を開始し、日本でも2012年に『靄の旋律 国家刑事警察特別捜査班』(集英社文庫)が翻訳されている。北欧警察小説にチーム捜査の要素を持ち込んだ画期的な作品で、このときは来日までしているのだが、残念ながら第二作以降が訳されなかった。そのシリーズを完結させた上での再挑戦である。はっきり言って小説としての凄味は今回のほうが断然上だ。第二部の心理戦など、ありすぎるほどに読みどころのある作品で、しかも警察小説としての新境地もある。最後まで読めばわかるとおり続篇のある書かれ方をしており、そちらも翻訳刊行の予定が決まっているという。警察官としてはとんでもないことになってしまったベリエル、このあとどうなるんだろう。

(杉江松恋)

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