沖田総司の死因は本当に肺結核か? 新選組の活躍から探るナゾの時期

沖田総司の死因は本当に肺結核か? 新選組の活躍から探るナゾの時期

「沖田総司終焉之地」の碑

 沖田総司――。倒幕志士が入り乱れた幕末に洛中を勇壮に濶歩し、壮絶な結核死を遂げたと伝わる青年剣士。その生と死は、脚色され神格化された形跡はないか? 沖田総司は史実か? 活劇伝説か?

 明治、大正、昭和、平成へ。時代が移ろうが、民衆が沖田総司という格好のヒーローを賛美しつつ、劇的な歴史ロマンの美酒に酔うのは、宜(むべ)なるかな。沖田総司の壮絶な結核死を語り起こすほかない。

新選組・沖田総司は本当に肺結核で夭逝?

 沖田総司は、1842(天保13)年、陸奥国白河藩藩士・沖田勝次郎の嫡男として、江戸の白河藩屋敷(東京都港区西麻布)に生を授かる。幼名は宗次郎。

 9歳の頃、剣豪・近藤周助が開塾した天然理心流の道場・試衛館の門下に。後に京都の反幕府勢力を取り締まる新選組を結成する近藤勇や土方歳三と同じ釜の飯を食うことになる。

 1856(安政3)年、わずか14歳の幼若は、試衛館の塾頭に。巧みな剣術が門下の剣豪たちを恐れさせ、権勢を誇るようになる。

 1863(文久3)年、20歳、「浪士組」に参集すべく上洛。組の分裂後は近藤らと「新選組」を旗揚げ。一番隊組長となる。同年9月、土方、山南敬助、原田左之助らに加勢し、水戸派の反抗分子・芹沢鴨を暗殺。近藤らの試衛館派が組を掌握する。

 1864(元治元)年5月、大坂西町奉行所与力・内山彦次郎の暗殺に関与。そして6月5日、尊皇攘夷派志士を殺傷・捕縛した池田屋事件が起きる。近藤や永倉新八らに従い、池田屋(三条木屋町)に斬り込む。だが、奮戦中に昏倒し喀血、戦線を離れる。昏倒の原因は、激闘による熱中症か、体調不良かは不明だ。

 1865(慶応元)年2月、組の「鉄の戒律」を破り、脱走した総長の山南敬助を捕らえ、兄さながらに尊崇する山南の切腹を無念の思いを込めて介錯する。

 1868(明治元/慶応4)年1月、戊辰戦争の緒戦となる「鳥羽・伏見の戦い」には参戦せず、戦地に向かう途上で負傷し、船中で肺結核を発症する。以来、幕府典医の松本良順の加護を受け、千駄ヶ谷・植木屋平五郎宅で療養。だが、病状は重く病床は冷え入るばかりだった。

 そして5月30日(7月19日?)に死去。前年の12月、近藤勇が御陵衛士の残党に狙撃され、斬首されて2ヶ月後の落命だった。「近藤先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」。沖田は近藤の死を知らずに旅立ったのかもしれない。

 享年は「生年不明」のため諸説ある。沖田家累代墓碑には「24歳」、沖田家文書には「25歳」、『両雄士伝』(小島鹿之助)には「27歳」とある。墓所は東京都港区の専称寺。戒名は「賢光院仁誉明道居士」。

 ちなみに、松本良順が新選組隊士約170人の健康診断を行った記録によれば、罹患者数の第1位は風邪、2位は食あたり、3位は梅毒。「肺結核の者が1名居た」とあり、沖田総司とする説がある。

池田屋事件の喀血は事実か?

 沖田が肺結核(労咳)を発症したのはいつか? 池田屋事件の喀血は事実か? 喀血は末期症状のため、余命は半年から1年とされる。特効薬のペニシリンがない往時に、池田屋事件(1864年)で喀血した総司が、1868年まで4年近くも生き永らえたのか?

 同時代に肺結核(労咳)で急死した人物を見よう。

 長州藩の倒幕志士・高杉晋作(1839年生まれ)は、1866(慶応2)年9月に喀血し7ヵ月後の慶応3年4月に29歳で死亡。歌人・詩人の石川啄木(1886年生まれ)は、25歳で発病し26歳で急死。だが、俳人・歌人の正岡子規(1867年生まれ)は、21歳の時に喀血し35歳で死亡。発病後、14年間も生存している。

 先述の通り沖田は、池田屋事件の翌年に山南を介錯する。その直後、脱走した隊士・酒井兵庫や浅野薫を処断した記録も残っている。1868(明治元/慶応4)年1月の鳥羽・伏見の戦いの前後に発症したとする証言(永倉新八『新選組顛末記』)が正しければ、池田屋事件の喀血は疑わしいかもしれない。

 つまり沖田は、発病した1月から5月30日(7月19日?)までの4〜6ヶ月ほど闘病し急死したことになる。

沖田総司の「玉虫色の伝説」

 短気狼藉! 先陣を切って斬り込む新選組一番隊隊長! 刀術の天才は白皙(はくせき)の美剣士! 目にも止まらぬ速攻剣技の三段突き! 師範の近藤より恐れられ、「刀で斬るな! 体で斬れ!」と恫喝。

 また周囲からは、「沖田は猛者の剣、斎藤一は無敵の剣」とも言われた。新町の廓九軒町吉田屋で天神(遊女)を買うも、池田屋襲撃で不覚の喀血! 不治の病、肺結核(労咳)の闘病! 享年27の夭逝......。

 綿々たる歴史の大舞台に跳梁し、夥しいエピソードに彩られた傑物ほど、絢爛勇猛なる「玉虫色の伝説」の洗礼を受けやすい。人物像の偶像化、生い立ちや足跡の美談化、生き様の神格化が蔓延(はびこ)りやすい。古今東西、大衆は流言飛語に惑わされ、ゴシップに陶酔しやすい。

 尊皇攘夷と倒幕の嵐が吹き荒み、風雲急を告げた幕末の激動期の最中、民衆は戦火を浴びて暮らしは千々に乱れてえいただろう。昼夜、飢えに苛まれ、悲嘆に暮れる。流血沙汰に逃げ惑う。民衆のやり場のない狼狽と苦悩は、想像もできない。

 巷間に頻発する殺傷事件や捕縛事件――。風の噂を伝聞される度に「倒幕浪士なら、さもありなん」と脚色し、「新選組なら、さもあらまほしき」と美談化する。

 そんな困惑した世相に晒される民衆の日常は、推し量れない。逃げ場を失った民衆は、諸手を挙げて流言飛語やスキャンダルに食いつくほかない。付和雷同の集団催眠にほだされて、我が身の置き場を冷静に顧みる暇などはない。

 永倉新八は晩年、「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては(総司に)子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語っている(『永倉新八遺談』)。

 沖田は漫画や映画など数々の作品でドラマ化され、作品によっては、1867(慶応3)年11月15日(12月10日)の近江屋で起きた坂本龍馬の暗殺の直前まで活躍するシーンもある(渡辺多恵子の漫画『風光る』、NHK大河ドラマ『新選組!』、同じく『龍馬伝』など)。

 沖田総司の生と死は史実なのか! 活劇伝説なのか? 消えたのは闘魂か? 残されたのは美談なのか?
(文=佐藤博)

*参考文献:司馬遼太郎『新選組血風録』『燃えよ剣』、子母澤寛『新選組始末記』、木村幸比古『新選組と沖田総司 「誠」とは剣を極めることなり』、『剣の達人111人データファイル』、釣洋一『新選組写真全集』(新人物往来社)、調布市史編纂委員会編『調布の近世史料』、『新選組日誌 上巻「沖田家文書」』、西村兼文『新撰組始末記』、「近藤勇書簡」、「島田魁日記」、永倉新八『新選組顛末記』など

佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

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