両津勘吉も訪れた「船橋ヘルスセンター」跡地に残る「昭和の痕跡」 撤去の危機を2度乗り越えた「一本松」が伝える思い出【昭和の日特集】

両津勘吉も訪れた「船橋ヘルスセンター」跡地に残る「昭和の痕跡」 撤去の危機を2度乗り越えた「一本松」が伝える思い出【昭和の日特集】

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突然だが、読者の皆様は「船橋ヘルスセンター」という施設を覚えているだろうか。

船橋ヘルスセンターは、1955年にオープンした温泉レジャー施設。温泉施設をはじめ、遊園地やプール、劇場にサーキット場、遊覧船の就航とさまざまな娯楽が楽しめる人気スポットだった。

施設内の劇場で行われた当時の大人気番組「8時だョ!全員集合」(TBS系)の公開放送や、故・三木鶏郎さんが作詞・作曲を手掛けたCMソング「長生きチョンパ」、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」で両津勘吉が子供の頃に同センターを訪れた時の思い出を語るシーン(「柴又の思い出の巻」66巻収録)などに触れ、「行ったことはないけど、名前くらいは知っている」という人もいるのではないだろうか。

そんな一大レジャー施設だった船橋ヘルスセンターは、1977年に閉園となった。来客数の減少や温泉の採掘が地盤沈下防止のために禁止されたことなどが要因である。

跡地には現在、「三井ショッピングパーク ららぽーとTOKYO−BAY」や「IKEA Tokyo-Bay」といった人気の商業施設が立ち並んでいて、すさまじい進化を遂げている。

今の船橋のベイエリアも楽しいし、素敵。だけど、昭和の時代に多くの人々の思い出を作ってきた船橋ヘルスセンターの空気を少しでも味わってみたい。平成生まれの筆者はそんなことを考えた。

閉園から45年が経った2022年。かつての名所の痕跡を探してみると、ある記念碑を発見した。

■記念碑はなぜそこに?

その記念碑が残っているのは、ららぽーとTOKYO-BAYの北側にある駐車場の一角。生垣に囲まれた小さなスペースの中にそれがあった。

鳩のモニュメントが印象的なこちらは、1957年に船橋ヘルスセンターが「週刊読売」(読売新聞社)選定の全国温泉コンクールベストテンに入選したことを記念して作られたもの。

町が様変わりしていく中でも、船橋ヘルスセンター時代からずっと残り続けている記念碑なのだ。ららぽーとの喧騒から離れた静かな駐車場の一角で、当時を伝える姿に思わず感動してしまった。が、そうしてばかりもいられない。

なぜ、閉園から45年も経った今もなお、この場所に残り続けているのか。その理由が気になってきて仕方ないのである。

そこで筆者はららぽーとの運営を行う三井不動産マネジメントや船橋市広報課に記念碑が今も残る理由を聞いたのだが、残念ながら手掛かりは得られず。

なんとか、記念碑が残っている理由をつかめないか。一度編集部に戻り、現地で撮影した写真を見ながらヒントを探していると、記念碑の目の前に商店街があることに気づいた。「浜町商店街」だ。

ここの商店街の方なら記念碑にも近いし、何か知っているのではないか――そう思い、当時を知る人を探すと、1976年から営業を続けている居酒屋「あんこう」の店主・丸山茂雄さんに出会った。

■「シンボルは一本松」だった

4月16日、丸山さんから話を聞くべく「あんこう」を訪れた筆者。そこで、記念碑が今も残っている理由を聞くと、丸山さんから意外な答えが返ってきた。

「記念碑の方はあんまり気にしたことなかったですね。記念碑の隣にある一本松が当時はシンボルでしたから」

筆者は大きな勘違いをしていたようだ。船橋ヘルスセンターの賑わいを今に伝えるものは、記念碑しかないと思い込んでいた。

しかし、丸山さんによると、船橋ヘルスセンターの名残のメインはその隣にある一本松だというのだ。

「あの松は船橋ヘルスセンターが開園した当時からずっとあるもので、施設のシンボルでした。松は、船橋大神宮(意富比神社)の方向を向いていて、かつては松のあるところがヘルスセンターの入り口だったんです」(丸山さん)

シンボルとして存在している松。そのすぐ隣に記念碑が建った理由について、丸山さんはこんな推測を話した。

「松の隣は1番いいポジションです。そこに記念碑を建てたのは、自慢や自信の現れだったのかもしれません」(丸山さん)

■松に託された思い

2022年になっても駐車場の一角でひっそりと残り続けている松の木だが、以前、撤去されてしまう危機が2度あったという。

「かなり前ですが、三井不動産が松を撤去する計画があると聞きました。そのときに私は三井不動産の方に松の話をしたんです。ご神木だから、撤去したらマズいんじゃないのって。それが直接関係したかわかりませんが、松は残ることになりました。その後も、記念碑の近くにある公民館とららぽーとをつなぐ通路を作るという話になった時、松のすぐ近くまで通路を確保するという話を耳にしました。そこで私が三井不動産の方に松の根が張っているのであまり広くしない方が良いんじゃないかと話しました。これも直接関係しているのかわかりませんが、通路は松の近くまでは来なかったんです」(丸山さん)

松のピンチに動いてきた丸山さんだが、自身が松を救ったとは考えていないという。その行動の背景に、船橋ヘルスセンターの重要人物の存在も見えてきた。

「私はヘルスセンターの2代目の社長だった丹沢章浩さん(故人)に非常によくしていただきました。その丹沢さんからヘルスセンターがなくなるときに、松が写った写真の複製を多くいただいたんです。理由は今でもわからないのですが、それだけ松が大切だったということなのかもしれませんね」(丸山さん)

船橋ヘルスセンターのシンボルだった松。それがどういう存在なのか、取材の最後に丸山さんはこう話した。

「あの松は全部を見ている生き証人です。あの一本松が、船橋ヘルスセンターの状況を残している。当時の人は今のららぽーとを見ても、さっぱりわからないけど、あの松の木を見れば全部思い出すというんです」

松の木は現在も業者の手を入れながら、大切にされているという。そこに隣接する記念碑とともに昭和の人々の「楽しい思い出」をこれからもずっと伝え続けてくれるだろう。

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