83歳筆者が「敬老の日」に考える...若い人に知ってほしい、老いるということのリアル

83歳筆者が「敬老の日」に考える...若い人に知ってほしい、老いるということのリアル

画像はイメージです(Alessandro Luciaさん撮影、Flickrより)

9月19日は敬老の日だった。これを機に、83歳のぶらいおんさんは改めて自らの「老い」について考えたという。

「歩く」ということがまず「努力を要する」作業となり、今までは容易にできたマルチタスク作業が難しくなる――ぶらいおんさんが語るリアルな「老い」の実態は、若い読者にとっても、将来をシミュレートし、周囲の年長者に対して想像力を働かす、良いきっかけになるはずだ。

80歳を超えてはじめて実感した「老い」

自分が現役で、同居の母が老人だった頃には、「敬老の日」に、ちょっとしたご馳走をしたり、何か母の気に入りそうな物をプレゼントしたりしていた、と記憶する。

一方、自分が高齢者(老人)になってみると、「敬老の日」とは一体、何なのかな?と考えたりする。

自分としては、祭日だからと言って、"思い出したように"、改めて「敬って貰おう」という気もサラサラ無いが、誰かが「年下」の者に対する場合とはちょっと違って、自然に私を「年長者」として立ててくれることには無論、悪い気はしない。そういうのがどちらかと言えば、むしろ常識というものでは無いだろうか。そんな時、筆者だって、確実にそういう機会はジワジワと減っているにせよ、自分より年長者に対しては自然にそういう態度となるのは、むしろ当たり前になっているからだ。

だから、そんなことよりも、一体「老い」とは何か?について、書いてみた方が、まだしも何かの役に立つのでは無いか?と考えた。

「何故?」って、実は斯く申す筆者自身が、80歳を超えるまで、余り「老い」というものを身につまされて感じたことが無かったので、具体的な意味で(もしくは体感的に)「老い」というものを理解していなかった、と今更思い出すからである。

「老い」とは結局、体感してみないと分からないものだ、と改めて思う。今、筆者からすると、105歳になり、施設であの世とこの世の境界を彷徨っているように見える母が80代から90代の頃、何度か一緒に外出し、電車などを乗降するために駅を利用したときのことを思い出している。そんな時、何故?母がエスカレーターでは無く、見つけ難いエレベーターを探すのか?余りピンと来ていなかった。でも、今、自分が80歳を超える歳になってみると、自然に自分もそうしていることに気付く。

だが、勘違いしないで頂きたい。筆者がエスカレーターを利用出来ないわけでは無く、場合によれば、「停止して登る列」ではなく、「急いで小走りしながら登る優先列」の方だって、ベルトに手さえ添えていれば、今でも利用出来るし、現に利用することすら、あるのだから...。

まあ、このセンテンスから読み取れるのは、「老い」とは先ず、身体能力の低下、劣化として現れる「自然現象である」と言えよう。それも(高齢者を除く)誰でもが、全く意識せずに、通常、普通に行っていることを、意識的に、かつ努力しないと、実際にはうまく出来なくなって来る、ということなのだ。

多くの場合、最も顕著に表れる具体的な例としては、いわゆる「足腰の衰え」というやつだ。筆者のように、余り運動をしない人間には、誤魔化しようも無く、はっきりと現れて来る。大したことをしていなくても、直ぐに筋肉が痛くなり、疲労して背筋を伸ばしていられなくなる。身近な人に、幾ら注意されても、実った稲穂のように頭が重くなるのか?垂れ下がり、背筋をしゃんと伸ばしていられないようになる。そうこうしている内に、直ぐに、更に深刻な事態が生ずる。

これから述べることが、或る意味では人間にとって最も深刻な問題となる。それは、赤ちゃんが、(多分)満1歳前後になると、伝い歩きをしたり、尻餅をついたりしながらよちよち歩きし始め、親は無論、家族や周りの人達から、大いなる祝福を受けることになる歩行、いわゆるヒトの2足歩行が開始され、それが当たり前のように継続されるわけだが、この歩行について、「老い」が原因で、意図せぬ異変が発生するという問題だ。

この「2足歩行」は、ヒト独自の基本的な移動行為と言えようが、それこそ幼児から成人まで、誰でもが殆ど無意識の内に、極当たり前のこととしてこなしているわけだが、こんな簡単な動作ですら高齢者になると、いつの間にか、様相が変って来る。

筆者もそうだったから、恐らく年下の方々には実感としては理解不能だと思われるのだが、単純に「歩く」ということが、非常な努力をしなければ、本当に出来なくなってしまうのだ。

このことは、初めてそれを体感した高齢者にとっては、年下の方々が容易に想像出来ないほどのショックを与えるものだ。人(高齢者)によっては、それが引き金となって家に閉じこもってしまうケースだって、決して少なく無いはずだ(いわゆるロコモティヴ・シンドローム?に陥る)。

一方で、逆に筆者のように、何処へでも出掛けることの大好き人間にとっては、これはまた別な形で深刻な問題となる。つまり、そんなこと(「歩く」というような基本的動作)は、これまで全く特別に考慮したり、意識したりすることなく、外出する際などは、ただ単純に計画を立て、後は楽しく実行すれば足りた。

しかし、老いると、そうは行かなくなる。どうしても必要な「歩行の範囲」を、現在の身体能力で、どうやってクリアするか?という余計で、困難な問題が更に一つ加わるからだ。

まあ、一番容易な解決手段は杖を使う、ということだろう。これは若い人達が想像する以上に効果がある。つまり、ヒトは長い間2足歩行を続けて来たが、これが若いときには何の問題ももたらさないのに、老いるとそうは行かなくなる。
一方で、ヒトの握力や手による保持力というのは馬鹿にならない。いざという時に、これを活用するのは、可成り有効だ。従って、杖をつくか、階段などで手すりを利用することによって可成り改善できる。

それはヒトも矢張り、昔は4足歩行であったことを証明しているのであろうし、先祖返りのつもりで実行してみると、これは可成り効果がある。もし、あなたが山登りをするような方だったら、杖を利用して登山した経験から筆者の申していることを容易に納得されるであろう。

取り敢えず、この程度の老化なら、杖を利用するだけでも可成りの範囲をカバー出来る。しかしながら、この場合、以前とは異なり、常に手で杖を保持しなければならないから、それに加えて、物を保持したりする場合の工夫が必要となって来る。

この問題を解決するために、既に、老人に限らず、多くの人が外出する際に必要なものを纏めて背中に背負って歩く、というやり方をしている。これは老人にとっては、単に「楽だから」ということではない。常時、杖で手が塞がっているのだから、いわば必然的な対応と言っていいくらいのものだ。

老人が、なるべく、それ以前通りにしていたければ、そこには、いつでも「工夫と努力」が必要となる。だから、怠け者や億劫がりでは無理だ。ここいら辺りが、分かれ道に違いない、「歳に似合わない老人と年齢相応の年寄りとの」。そのどちらを取るのかは、結局、その人次第だ。

つまり、どちらが良いとか、悪いとか、そういう問題では無く、「残された今後の人生を、自分はどうやって過ごすか?」もっと端的に言えば、「どちらが好きか?嫌いか?」の問題だ。

また、この段階より一段と深刻な事態となれば、車椅子の利用でも対応できよう。要は、置かれた状態に応じて柔軟に対応する考えを有してさえいれば、行き詰まるということは、余り無いだろう。

身体的努力も含め、頭もそれなりに使い、どうやって自分の「老い」をカバーして行くのか?それは偏に、その高齢者の問題であるが、また、誰でもが避けることの出来ぬ「老い」というものに対する、或る種の己の「覚悟」とも言える。

尤も、過去のコラムで筆者が触れた『「シンギュラリティ(特異点)」について書かれたレイ・カーツワイルの本による、2045年、人工知能を搭載したスーパーコンピューターが地球を支配する日が訪れ、コンピューターは人間の知性(生物学、生態学)を超え、世界は「シンギュラリティー」に到達する。その結果、病気や老化といった生物学的限界さえ取り払われ、もはや死さえもが「治療可能な」ものになる、という。』そんな世界が本当に来るなら、筆者がここまで述べて来たような懸念は全く見当外れな、無用の長物に成り下がるわけだが...。

そういう輝かしい?(のか、どうか知らぬが)未来となったときは別として、それまでは、ヒトは誰でも、上のような現実を回避することは出来ない。つまり、生きている限り、経時的な老化から逃れることは出来ない。それは、見方を変えれば、将に生きること、そのものなのだから...。

ここで、「老化」の現象として「歩行」の問題に絞って取り上げたが、無論、「老化現象」はこれに留まるものでは無い。当然ながら、そこには各種の変形がある。ホンの一例を挙げれば、布団からの起き上がり困難、ズボンをはいたり、靴下をはく際の(片足で安定した体勢を保つ)困難さ等々であるが、言うまでも無く、他にも変形は幾らでもある。

これらの困難は、一般的に高齢者特有の事態とも言えようが、また、それは人によって千差万別であって、そこには可成りの個人差がある。第一、この原稿の内容だって、飽くまでも『私=ぶらいおん』という特定の高齢者の極個人的な体感的実態を述べているに過ぎないのだから...。

ここまで、高齢者の身体能力の減衰ばかり述べて来たが、ご想像通り、実際は、それらのみには留まらず、精神的(あるいは頭脳的)能力も、残念ながら、経時的に減衰の途を辿ることは先ず、間違い無い。

一番、分かりやすいのは、先ず、記憶力の減退である。筆者の場合は、顕著なのが固有名詞の記憶についてである、これがなかなか出て来なくなった。しかしながら、これも細かく述べれば、様々なバラエティがある。会話の中で、咄嗟に出て来なくても、後(極端な場合は、その夜とか、翌朝になって)から、殆どの場合、筆者は、正解に達することが多い。これは大体、現在の状態であって、70歳代では、もっと早く、会話中でも、多少のタイムラグはあっても、案外思い出すのは容易であった。格別、自慢するつもりは無いが、多くの場合、60歳代や60歳間近の人より早めに思い出すことが出来ていたように思う(尤も、もし、この筆者の記憶自体が当てにならない?とすれば、それはまた、「何をか況(いわ)んや!」ということになるが...。

頭脳活動を伴うタスクに関する最も深刻な事態、と筆者が感じているのは、いわゆるマルチタスク遂行能力の減退である。もっと分かり易く言うと、出来れば、早めにやってしまった方が良い、幾つかの懸案があった場合、高齢になるまでは、仕事が一匹狼スタイルだった故もあり、一人で何でもこなねばならず、勢い、複数のタスクを平行して進め、そんなに苦労もせずに達成出来ていたのが、今では到底すんなりと出来なくなってしまった。

処理速度の低下は無論のこと、たとえ頭の中で手順を考えていても、なかなかそれを実行に移せない。結局、身体と共に精神的能力も衰退して来ると、決断力が鈍り、更に実行力も乏しくなり、マルチなタスクを一気呵成にやり遂げることなど殆ど不可能となる、残念ながら...。

高齢者が、こうした「老い」から派生する困難を解決しようとすれば、先ず、それまでの現役時代とは、やり方を変える必要がある。

人は結局、何時でも、その人に見合った能力を見極めながら、その能力を最大限に発揮できるような工夫をし、またそれを実現するための努力を惜しまないということに尽きるわけだが、特に高齢者の場合は、「老い」という更なるハンディキャップを乗り越えて行くためには、身に合った更なる努力と一段の工夫とを必然的に求められることになろう。

ここで、一言申し上げるが、これは高齢者からのお節介なメッセージとして聞き流して頂いても一向に構わない。

前途に溢れた、あなた方の楽しい人生に水を差す気持ちは毛頭無いが、「人であれば、誰にでも確実に「老い」はやって来る(反面、それは或る意味で、成長経過の証でもあるのだから)、そしてそれはまた、当事者が考えて居るより遥に早足に(お呼びで無くても)近付いて来るものでもある。

だからこそ、精一杯燃焼して燃え尽きるのもよし、また、堅実な人生を大過なく、ゆったり送るのもよいが、生きている限り、経時的な身体的、精神的減衰(老化)を回避することは誰にも出来ないから、ここで考えて置くべきことは、そうなってしまってから慌てるのでは無く、平生からそうなったときの対応を研究、工夫し、また、それを敢然として受け入れるだけの覚悟を決めて置くことこそ肝要であろう。

(蛇足−「老い」について、専ら筆者の当面している問題について書いたが、意を尽くしたとは到底言い難い。一般に「老い」の態様、個人差についても様々なバラエティが存在するのだから。一面的な見方だけでは無く、もっと多様な事例や事象を、場合により一層具体的なケースに限って、また考える機会を作ってみたい。それは(筆者の勝手な思い込みかも知れぬが)、普通の人生を送る大部分の方々に、何らかの参考となるであろう情報を、水先案内人として届け得るという筆者の確信にも似た思いに基づく。)

筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になって、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、今は地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、西方浄土に日々臨む後期高齢者、現在100歳を超える母を介護中。https://twitter.com/buraijoh

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