『週刊プレイボーイ』創刊50周年記念ノンフィクション! 三島由紀夫も認めた名物編集者の手腕

『週刊プレイボーイ』創刊50周年記念ノンフィクション! 三島由紀夫も認めた名物編集者の手腕

本郷保雄。1899年生まれ。戦前、『主婦之友』を大ヒットさせた後、編集担当の専務取締役として集英社に入社。

1966年10月28日。『週刊プレイボーイ』は、集英社初の男性週刊誌として産声を上げた。果たして、当時はどういう時代だったのか?

アジアで最初のオリンピック、東京大会を成功裏に終えて2年がたった1966年。高度経済成長の真っただ中にあったわが国で、突如、出生数が激減した。合計特殊出生率は人口維持に必要とされる2.08を遥かに下回る1.58という、当時としては極めて異例な値を記録した。

しかし翌年には超回復を果たし、70年代の第2次ベビーブームまで出生率は伸び続ける。66年だけが例外だったのだ。60年に一度の丙午(ひのえうま)。この年に生まれる女性は気性が荒く、旦那を食い殺すという俗信がある。それで前年から、子づくりの自粛が流行したのだった。

進歩や先進性とはおよそ相いれそうにない迷信が、当時なお社会に大きな影響力を持っていたのだ。がんばって外の――主にアメリカの――最新の価値観を取り入れて、これに倣(なら)おうとしていると、土着の、この国ならではの、得体の知れない伝統や歴史が絡みついてくる。

そういう時代だった。

この年の6月には、皇位僭称者として戦後脚光を浴びたいわゆる「熊沢天皇」の病死がちょっとしたニュースになった。自分こそ真の天皇であると主張し続けた老人の死から2週間後、ビートルズが初来日し、大きなニュースになる。このように、日本的ドロドロ感と世界的イケイケ感が複雑に混ざり合っていた。

とはいえ、全体としては当時の日本は伸びしろだらけだ。大きなイベントに限って見ても、「初めて」を冠するものが頻繁(ひんぱん)に行なわれる。

例えば、この年の10月。オープンして間もない富士スピード・ウェイで、「日本で初めて」となるモータースポーツの国際レース、「インディ富士200」が行なわれた(本国アメリカ外でのインディ開催は世界初でもある)。

世界の一流レーサーたちの走りを一目見ようと数多くの若者たちが集まったその上空に、主役の座を一時的に横取りする不敵なヘリが現れた。

「新男性週刊誌 プレイボーイ誕生」

そう書かれた垂れ幕を存分に印象づけ、ヘリは都心方面へと飛び去って行った。

大空を使ったスタンドプレー。『プレイボーイ』創刊号が店頭に並ぶのはそれから20日後のことだ。

時代を雑誌の女親とすると、男親に当たるのは編集者たちだ。『プレイボーイ』創刊に当たってまず特筆すべきは本郷保雄の果たした役割だろう。

本郷は戦前と戦後と、ふたつの時代を股にかけ、多くの雑誌を育てた名編集者である。『主婦之友』の売り上げを戦前最高記録の163万8800部まで伸ばした実績を持つ彼は、戦後、編集担当の専務取締役として集英社に招き入れられた。当時まだ児童向けの本づくりしか知らなかった集英社にとって、来る雑誌の時代に向けての成功請負人のような存在だった。

雑誌をひとつの劇場に見立てる「ボードビル編集」という方法を提唱する本郷は、まずハイティーン向けの娯楽雑誌『明星』を創刊し、これを100万部雑誌に育てると、『週刊明星』そして『女性明星』と新雑誌を次々に軌道に乗せ、読者の幅を広げていった。

『週刊明星』で本郷に口説かれて連載を持った作家・三島由紀夫は後に、「本郷さんは芸術と商売を結びつけた男です」とたたえている。

企画書を神棚に上げて祈ったり、新雑誌を鎌倉の銭洗弁天に持って行って願をかけるという神がかり的な一面があったが、それはもちろん人事を尽くしたのちのこと。

編集と後進育成にかける彼の情熱たるや、「意に満たない企画をコテンパンにやっつけるんですよ。それは徹底したもので、会議の日になると、おそれをなして仮病をつかい、会社を休む編集者も出ましたよ」(後に集英社社長となる若菜正の言葉)というほどだった。おっかない、名物編集長だったようだ。

このおっかない本郷専務の心を初対面のわずかな時間で鷲づかみにしてしまう、人たらしの魔が現れた。それもまだ24歳の若者だ。

本郷専務に「君のような若者を待っていたんだ!」と評された編集者の登場が、『週刊プレイボーイ』の誕生につながった。そんな創刊前夜のタイムスリップ・ノンフィクションを発売中の『週刊プレイボーイ』42号では掲載中なので、そちらも是非ご覧いただきたい。

(取材・文/前川仁之)

■週刊プレイボーイ42号「創刊50周年記念タイムスリップ・ノンフィクション プレイボ〜イ創刊前夜」より

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