天皇皇后の行幸啓が休日となったパラオの「日本への思い」

天皇皇后の行幸啓が休日となったパラオの「日本への思い」

ペリリュー戦60周年記念式典で日本・パラオ・アメリカの国旗を持って行進する学生たち

 大東亜戦争の激戦地、パラオ・ペリリュー島では約1万人の日本軍将兵のうち、最後まで戦って生き残ったのはたった34名だった。そのパラオは南洋屈指の親日国である。彼らの思いに、ジャーナリスト・井上和彦氏が触れた。「親日をめぐる旅」パラオ編──。

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 日本から真南に3200キロメートル、そこに南洋一の親日国家「パラオ共和国」がある。国旗は青地に黄色の満月をあしらった“月章旗”──この旗は1994年にパラオがアメリカの信託統治領から独立国となったとき、住民投票で選ばれた。日章旗に因んでデザインされ、“月(パラオ)は太陽(日本)が輝いてこそ輝く”という意味が込められているという説もある。

 パラオは古くはスペイン領で、19世紀末にドイツへ売却されて第一次世界大戦後からおよそ25年間、日本の委任統治が行われていた。

 国際連盟が日本の内南洋(注1)委任統治を決定したのが1922年(大正11年)。これを受けて日本はパラオに「南洋庁」を設けて統治の行政機関とした。日本からは大量の移民が押し寄せ、現地民の4倍にもなったという。そうした邦人移民は漁業や燐鉱石の採掘で生計を立て、また鰹節の生産や米の栽培にも取り組んだ。

【注1/現在の南洋諸島(北マリアナ諸島、パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)を当時の日本では内南洋と呼んだ。】

 日本統治時代のパラオでは台湾や朝鮮の統治に倣って、インフラをはじめ教育制度や医療施設が整備され、生活水準の向上が積極的に推し進められたのだった。

 事実、当時の英国ロンドン・タイムズの記者は、〈内南洋の人々は、世界の列強植民地の中で、最も丁寧に行政されている〉と報じている(『歴史群像』No.34/学習研究社)。

 南洋政策の中心だったパラオは、ラバウルなど重要拠点に向かう輸送船団の中継基地としてたいそう賑わった。日本統治時代の残照は、首都が置かれたコロール島内の随所に見られる。

 かつてのパラオ支庁は現在も最高裁判所として使用されているほか、共和国議会の建物も日本統治時代のものがそのまま使用されている。また日本統治時代の学校がそのままパラオ高校として使われており、正門の門柱などは当時のままだ。さらにアサヒ球場という野球場も健在だ。日本人墓地も当時のままで、戦後は数多くの戦没者慰霊碑が建立されている。

 こうした日本統治時代を経験したパラオの対日感情はすこぶる良く、親日度は世界屈指と言っても過言ではない。いまでも日本語を話せる年配者が多く、また当時持ち込まれた多くの日本語がそのまま日常語として定着しているから驚きだ。

「デンワ」(電話)、「サビシイ」(寂しい)、「コイビト」(恋人)など、多くの日本語が日常で使われているほか、パンツを「サルマタ」(猿股)といい、さらに女性用下着のブラジャーは「チチバンド」(乳バンド)、ビールを飲むことを「ツカレナオース」(疲れ治ーす)というから傑作だ。

 そんなパラオは、実は大東亜戦争時の日米大激戦地であり、点在する島々には日米両軍の兵器や建物が手つかずのまま遺されている。

 最大の激戦地であるペリリュー島には撃破された戦車や遺棄された零戦、破壊された司令部の建物が当時のまま遺されているだけでなく、日本軍が立て籠もった複廓陣地(注2)には今も5000柱の日本兵の遺骨が埋もれたままなのだ。

【注2/約500もの洞窟や壕を通路で結び要塞化した。】

 このペリリュー島を巡る攻防戦は1944年(昭和19年)9月15日に始まった。猛烈な艦砲射撃と空爆に援護された米第一海兵師団が上陸を開始した。

「3日で陥としてみせる」。

 米軍はそう豪語した。しかし彼らを待ち受けていたのは、米海兵隊が経験したことのない精強無比なる日本軍守備隊の猛反撃だった。

 米軍を迎え撃ったのは、中川州男大佐率いる陸軍の水戸第二連隊を中心とする約1万1000人の守備隊であった。日本軍は地元住民を安全な島に疎開させ、それまでの水際撃滅・万歳突撃の戦法から洞窟陣地による徹底的な持久戦に切り替えて戦った。そのため米軍は未曾有の損害を出すことになったのである。

 当時、日本の戦局は振るわず、連日暗いニュースが前線から届く中、このペリリューでの戦いぶりは大本営幕僚を驚かせ、起死回生の逆転をも期待させたという。またペリリュー守備隊の敢闘は消沈していた全軍をおおいに奮い立たせた。

 その勇戦敢闘ぶりに、天皇陛下から11回もの御嘉賞を下賜され、ゆえにこの島は「天皇の島」とも呼ばれたのである。

◆勇敢な愛国心

 2014年(平成26年)9月15日、ペリリュー戦終結70周年記念式典が開かれた。

 式典にはパラオ共和国のトミー・レメンゲサウ大統領のほか、在パラオ米大使館のトーマス・E・ダレイ代理大使、クニオ・ナカムラ元パラオ共和国大統領らも参加した。式典が始まると、日本・アメリカ・パラオの各国旗と米海兵隊旗が会場に入場し、なんと「君が代」が最初に演奏され、これに続いてアメリカ合衆国国歌、パラオ共和国国歌が演奏されたのである。

 そして米海兵隊太平洋基地司令官のチャールズ・L・ハドソン少将はスピーチで、ペリリュー戦での日米両軍の尊い犠牲を讃え、参列したペリリュー戦の勇士・土田喜代一氏とウィリアム・ダーリング氏に最大の敬意を表したのだった。

 これまでも合同式典は互いの武勇を讃え、“昨日の敵は、今日の友”というスタンスで執り行われてきた。

 島にはペリリュー神社が再建されている。そこには敵将、米太平洋艦隊司令長官・C・W・ニミッツ提督から日本軍将兵に送られた賛辞が刻まれた石碑が建立されている。

“TOURISTS FROM EVERY COUNTRY WHO VISIT THIS ISLAND SHOULD BE TOLD HOW COURAGEOUS AND PATRIOTIC WERE THE JAPANESE SOLDIERS WHO ALL DIED DEFENDING THIS ISLAND”

 その日本語訳文が裏面に刻まれている。

“諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ”

 日本軍将兵の武勇がこうして敵将にも讃えられているのである。

 そんなパラオへ2015年(平成27年)4月8日、9日に天皇皇后両陛下が行幸啓された。

 パラオ国民は日章旗と月章旗を振って両陛下を大歓迎した。日本からも多くの人々がパラオに出向いて両陛下を奉迎した。その中に大学生らもいたが、彼らを引率した全日本学生文化会議事務局長・椛島明実氏はこんなエピソードを披露してくれた。

「奉迎団の人々が沿道に並んで天皇皇后両陛下を待っていたんですが、そのとき、板切れを持ったパラオ人の青年が現れて『ここにサインをしてほしい。あなたたち日本人は僕たちのヒーローなんです』と言って多くの日本人にサインを求めて回っていたんです。本当に感動しました」

 現代の若者までもが歴史に学び、日本への親近感を抱いてくれているのだ。

 ペリリュー州では天皇皇后両陛下が行幸啓された4月9日を「天皇皇后両陛下ご訪問の日」として休日に定めた。

※SAPIO 2018年5・6月号

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