興福寺貫首が指摘、「元気をもらう」という言い方はおかしい

興福寺貫首が指摘、「元気をもらう」という言い方はおかしい

興福寺の貫首・多川俊映師

 平城京遷都を主導した藤原不比等が建立し、今年創建1300年を迎える興福寺の貫首(最高位の僧)・多川俊映師(72)は、重要文化財の修復や中金堂の再建などに力を尽くし、「奈良に天平をよみがえらせた高僧」とも呼ばれる一方で、多くの人が説法を聞きに訪れることでも知られている。同寺には信徒以外にもお金や健康、孤独などさまざまな悩みを抱える人が訪れるが、多川師の法話を聞き、安心した表情で帰っていく。

 * * *
 会社であっても家庭であっても、歴史なくして成り立っているものはありません。親がいて、祖父母がいて、そしてまたその親がいて……という流れのなかに、今の自分はいるのです。

 高齢者の方であれば、お子さんだけでなく、お孫さんもいるかもしれません。自分は祖先から何を受け継いできて、それを子孫にどう渡さねばならないのか、そういう責任ある地点に立っているわけです。

 その歴史をバトンタッチするリレーのなかに立っている自分をよく自覚すること。それこそが、激動の時代のなかにあっても流されないコツなのです。

 つまり人間とは、社会や歴史のなかの、様々なつながりの上に生きている存在ですが、「己が何者なのか」ということに関しては、流されずにきちんとした自覚を持つ必要がある。

 たとえば最近よくテレビで、スポーツ選手の活躍を見たりして「元気をもらった」などと話す人がいますね。活躍に感銘を受けること自体は結構なことですが、「元気をもらう」という言い方はおかしい。いくら人から元気をもらったって、それは他人の元気であって自分の元気ではありません。

 元気、勇気、感動、そういったものは結局、自分自身で自分の中に作り出していくしかない。老いにしても病にしても、自分の問題は、最後は自分で乗り越えていくしかないのです。他人から元気をもらっても、それは一時しのぎの「輸血」にはなるでしょうが、本当の自分の血液ではありません。

 血液を作り出し、体を鍛えていくにはどうすればいいのか。栄養のあるものを食べて、適度な運動をしていくことですよね。心を鍛えるときにそれに相当するのが、古典を読み、歴史をよく知ることなのです。

 興福寺でも時折企画しますが、仏像展などが全国の博物館、美術館などで開催され、活況を呈しています。神社仏閣への観光旅行も定番です。「歴史を知る」最初の入り口は、そういうところでもいいと思います。大切なのは、身近にあるちょっとしたきっかけを大切にしてほしいということです。

 心を鍛え、また成熟した老いを得るには、日々の生き方の積み重ねが大切です。一朝一夕にしてできるものではない。だからこそ、毎日を大切に生きてほしいと私は思います。

●たがわ・しゅんえい/1947年奈良県生まれ。立命館大学卒業。法相宗の僧侶で、大本山興福寺貫首・法相宗管長・帝塚山大学特別客員教授。著書に『貞慶「愚迷発心集」を読む』『観音経のこころ』(春秋社)、『旅の途中』(日本経済新聞社)、『阿修羅を究める』(共著、小学館刊)など。

◆取材・文/小川寛大(『宗教問題』編集長)

※週刊ポスト2019年5月17・24日号

関連記事(外部サイト)