油で揚げてソースをかける? 謎だらけの「そうめん」調理法

油で揚げてソースをかける? 謎だらけの「そうめん」調理法

そうめんが旨い!(写真:アフロ)

 そうめんが一般的に食べられるようになったのは、江戸時代からという。それから長く私たちの夏を美味しくしてくれたが、昭和初期には謎の調理法もあった。食文化に詳しい編集・ライターの松浦達也氏が語る。

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 2年前の夏、本稿でそうめんに触れ、「うだるような暑さの『うだる』とは『茹だる』と書く」と書いた。そして梅雨明け目前(本稿執筆時点)、今年もまさしく「茹だるような暑さ」に襲われており、ついついそうめんに思いが及んでしまう。

 そうめんがいまのように誰もが口にできる麺として普及したのは江戸時代だと言われている。コメよりも日照りに強い麦。その麦を使って乾麺を作るのだから、平時はもちろん飢饉に備えての保存食にもなる。室町時代までは温かいにゅうめんとして食べられていたのが、江戸時代の中期、18世紀中頃には冷たい麺として夏の風物詩となっていったという。

 では明治以降はどうか、明治以降の朝日新聞の過去記事を調べてみると、意外にもそうめんから見えてくる世の中もある。

 最初に登場するのは1881(明治14)年7月のこと。大阪版の「近日商況」という欄で、向こう数日~数週間程度のそうめん市況の予測を立てている。少なくとも大阪ではそれなりの需要があったということのようだ。

 実際、その2年後の1883(明治16)年7月、やはり大阪版に日野安という店の「冷そうめん 一人前代 一銭五厘 三銭五輪」、その他「かやくもの色々菓子碗御膳代五銭」という広告が出されている。この頃、東京版では編集記事、広告記事含め、まったくそうめんが取り上げられていなかったことを考えると、当時のそうめんは関東よりも関西で生活に根ざしていたと考えられる。

 それもそのはず、そうめんの名産地は播州(兵庫)、三輪(奈良)、小豆島(香川)、備中(岡山)など関西圏。もちろん関東へ流通していたにしても、広告や記事を出すほどの存在感はなかったということなのだろう。

 その後、そうめん相場の記事などがたまに掲載されるものの、明治から大正にかけて紙面に掲出される「そうめん」の文字は製麺機械メーカーの広告が中心となる。さらに1923年の関東大震災以降、こうした広告すらも紙面でみかけなくなった。

 その後、1929(昭和4)年には、家庭用のレシピが紹介されるようになる。明治、大正と外食文化が花開きかけたときに起きた関東大震災に加え、同年に起きた世界恐慌の影響などもあり、ライフスタイルが緊縮していく。内食志向も強くなり、新聞紙上にもそうめんのような保存が効き、安価で簡便な素材を使ったレシピが増えていった。紙面上にも読者投稿レシピが掲載されるようになる。

 もっともこの頃、紹介されたレシピには、不思議なものも少なくなかった。食文化が一定の断絶を迎えた直後なのだから無理もないが、その象徴的なレシピが同年7月9日の紙面で紹介された「支那そうめん 美味しい料理法」だ。

 まず「支那そうめん」という謎素材が突如現れる。紙面では「近頃は支那さうめんという新しい材料もありますから」とあるが、どんな素材か特に説明もない。

 しかも書かれているレシピも謎めいている。「今食べるなら油で揚げてソースをかけても中々結構です」とある。「今」とはいつだ。どんなソースなのか。かた焼きそばのような麺か。ならばやはり中華麺か。と思いきや「季節の魚と一緒に蒸してもいい」「酢の物にしてもよい」「相当に滋養もありますから」などやたらと展開したがる。

 そもそも見慣れぬ素材を扱うにあたり、素材の特徴を紹介もせず、微妙な調理法を次々に紹介するあたり、このレシピ企画自体の精度も微妙だ。そして後にも先にも朝日新聞の紙面で「支那そうめん」という言葉が登場するのはこれ一度きり。どうにもこの企画自体が、その後の日本を覆う不穏な空気を暗示していると言ったら言い過ぎか。

 言い過ぎである。そして、戦中戦後のそうめん史についてはまた次回に。

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