谷川俊太郎の詩が愛され続ける理由は「恥じらい」にある

 谷川俊太郎は現代を代表する詩人。小説家と違って詩人は詩だけではなかなか暮してゆけない。大学の先生や会社員をしながら詩を書く。そんななか、谷川俊太郎は、詩だけで生きている。平易な日常の言葉で、深い生の喜びや悲しみを語るから読者が多い。

『詩人なんて呼ばれて』(新潮社)は、読売新聞の編集委員である尾崎真理子が聞き手になり、詩人が来し方を語る。

 尾崎真理子は二〇一四年に出版した『ひみつの王国 評伝石井桃子』(新潮社)で高い評価を得た。綿密な取材、丹念な資料の読み込みで定評がある。

 本書も、ただのインタビューに終らず、章ごとに谷川俊太郎論が添えられ、谷川の詩の特色、現代詩のなかでの位置づけが的確に論じられ、大きな現代詩史になっている。

 さらに、哲学者の谷川徹三という偉大な父を持ったことの重み、三人の女性との結婚と離婚についても言及される。「詩人」は同時に「子」であり「夫」であり、また「父」にもなる。尾崎真理子は、谷川俊太郎の全容をとらえようとしている。構えが大きい。

 谷川俊太郎は高校時代から学校が嫌いで、大学には進学しなかった。

 一九五二年、二十一歳で第一詩集『二十億光年の孤独』(創元社)を出版し、世に出た。

 谷川の詩の特色は、飼っている犬とか、食卓風景といった日常風景を語りながら、言葉がいつのまにか遠い宇宙とつながってゆくこと。近景が遠景へと変わる。私小説と寓話が溶け合っているといえようか。

 その点で、谷川俊太郎と村上春樹は似ていると論じるところは新鮮。尾崎真理子の読書の広さ、読みの深さに感服する。

 谷川俊太郎には、どこか「詩人であること」に対する照れ、恥らいがある。普通の生活者に比べ、詩人のどこが偉いんだという自嘲がある。威張っていない。谷川俊太郎の詩が多くの読者に、一貫して愛され続けているのはそのためだろう。

『詩人なんて呼ばれて』という書名にも、この詩人ならではの恥らいが出ている。

◆文・川本三郎

※SAPIO2018年3・4月号

関連記事(外部サイト)