「さて、死のう」コロナうつで、発達障害の私がやってしまった夜のこと

「さて、死のう」コロナうつで、発達障害の私がやってしまった夜のこと

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ここ数年、“大人の発達障害”という言葉がよく聞かれるようになってきました。著名人によるカミングアウトなど、当事者による発信もその一因といえるでしょう。

『発達障害グレーゾーン』の大ヒットで知られるライター・姫野桂さんが、自身のさまざまな“生きづらさ”をつづった初エッセイ『生きづらさにまみれて』を刊行しました。本書では、30歳で発覚した発達障害や、コロナの影響でアルコール依存症になったこと、仕事関係者から“都合のいい女”にされてしまった体験などが赤裸々につづられています。

 今回は、そんな姫野さんが精神障害者保健福祉手帳を取得するにいたった経緯をつづった章を紹介します(以下、『生きづらさにまみれて』より抜粋、再編集)。

◆「生きづらさ」に名前がついた

 30歳の頃、自分が発達障害であることが判明した。私は発達障害でずっと生きづらい思いをしていたのだ。それまでの私の生きづらさに名前がついたようでホッとした反面、数日間は「障害」という言葉がショックだった。

 しかし今は「自分はこういう性質なのだ」と受け入れ、「だからこそ過集中で原稿が書けるのだ」とポジティブに捉えている。

 発達障害とは簡単に言うと、得意なことと苦手なことの差が大きい特徴を持つ障害だ。主に不注意や衝動的な言動の多いADHD(注意欠陥多動性障害)、コミュニケーションに難があったり独特なこだわりやルーティンを好むASD(自閉スペクトラム症)、知能に問題がないにもかかわらず読み書きや計算が難しいLD(学習障害)の三つがある。

 その中で私は算数LDと不注意傾向のADHDが顕著に表れていた。そのため私には事務職は厳しかったが、取材をして原稿を書く、言語理解能力は優れていた。発達障害の特性を持つ人は一見ポンコツに見えても、適材適所に配置すると驚くほど能力を発揮する場合がある。それは接客業であったりシステムエンジニアであったり人それぞれだ。それが私の場合ライターという仕事だったのだ。

 しかし、事務的な経理作業は相変わらず苦手なため、経理関連は税理士さんにお任せしている。私がフリーライターになったのはある意味必然で、それしか働く方法がなかったのだ。

◆二次障害としての“双極性障害”

 発達障害でつらいのは二次障害だ。元々は二次障害の不眠で病院へ行き、ついでに発達障害の検査をしてもらったら見事にクロだったのだ。今の私には双極性障害II型と摂食障害がある。

 双極性障害はその昔、躁うつ病と呼ばれており、うつ状態と躁状態を繰り返す病気だ。双極性障害にはI型とII型があり、I型の方がうつ状態と躁状態の差が激しく「ジェットコースターのようだ」と例える人もいる。

 一方II型のほうは差が少ないので一見うつ病と間違えられがちだ。しかし、躁状態のテンションのときにあれやこれやアイデアを思いついてなんでもやり過ぎてしまったり、後先考えずにお金を使ってしまうので、後から疲れがどっと来たり、借金を作ってしまったりする人もいる。

 だから、調子が良いときほどエネルギーを使い過ぎないようにと主治医に言われている。逆にうつ状態のときは、昼過ぎまで布団から出られないことがあったり10時間以上眠ってしまうこともある。

 ちょっとしたきっかけで「もう自分はダメだ」と希死念慮に襲われることもある。これはもう、薬で調整するしかない。

◆痩せていないと自分を好きになれない

 何よりつらいのが摂食障害だ。痩せていないと自分を好きになれない。私は昔からぽっちゃり体型で父や同級生からデブとからかわれていた。痩せようと頑張ったこともあったが上手くいかなかった。

 一時期は過食症のように食べ物を詰め込んでいた。しかし就活が引き金となって拒食症の症状が表れ、突然痩せた。とても気持ちが良くて、みんなに私の痩せた姿を見てもらいたかった。

 ところが先にも述べたが、コロナによる自粛太りのため体重が42kgから一時は49kgにまで増えてしまった。鏡に写ったぽっちゃり体型が嫌で、食べた後嘔吐することもある。嘔吐しているときは苦しいのに気持ちが良い。これはリストカットするときの心境にもよく似ている。吐いた後はスッキリするし、食べたことがなかったことになる。

 BMIで言うと今は標準体重なのだが、私が目指すのは華奢で痩せ過ぎの女性だ。そんな女性が愛されるような錯覚に陥っている(実際はそうではないことは分かっている)私は「愛されたい病」なのかもしれない。でも、自分を好きになるためにも、早く体重を戻したい。

◆就活中に起きた“リーマンショック”

 2008年の秋、世をリーマンショックが襲った。私は当時大学3年生で、ちょうど就活を始めた頃だった。大学時代、心のどこかで書く仕事がしたいと思っていた私は小さな出版社でバイトをしていた。

 ところが、仕事がハード過ぎて校了前は何日も帰れず、女性社員は身体を壊し、男性社員は精神を壊して辞めていくのを目の当たりにして、とてもじゃないけれど私にこの仕事はできないと思い、出版社は一社も受けなかった(バイトはきちんと時間が決まっていて労働環境には恵まれていたし、出版のいろはを学べたのは今につながっている)。

 何よりバンギャル(編集部注:ヴィジュアル系バンドの熱狂的な女性ファン)活動を優先したかった私は、9時―17時で帰れて残業の少ない一般職や事務職を中心に就活を始めた。特にやりたい仕事はなかったので、志望動機やエントリーシートを書くのに一苦労した。また、数学が全くダメなため、SPIはどんなに勉強しても数学だけ解けなかった。大手企業はほとんどが入社試験にSPIを取り入れている。そこで私は大手企業を諦め、SPIのない会社を狙い始めた。

◆バイト先のトイレから心療内科に電話

 私は嘘をついたり自分を実物以上に良く見せかけることが苦手だ。だから就活は苦行だった。最初に受けた企業はあっという間に最終選考まで進んだ。なんだ、就活って意外とちょろいじゃないか。そう思った矢先、最終選考で落とされた。

 自信満々だったのでショックは大きく、しばらく立ち直れなかった。その直後にリーマンショックがやって来て、どの企業も書類審査で落とされ面接にすらたどり着けない日々が始まった。

 就活は心を削られる。なんたって、お祈りメール(編集部注:不採用通知)を開く瞬間に「自分はこの世から必要とされていない」と思い知らされてしまうのだから。私はどの企業からも必要とされていない。そう思うと涙が溢れてきて、食欲が一気に失せて常に微熱が出ていた。お菓子と発泡酒だけは口にすることができたので、毎日「たべっ子どうぶつ」というクッキー1箱を一日の食事にしていたら1カ月で10kg痩せて、就活用のスーツはガバガバになった。今思うとこれは第一次摂食障害だった(10年後に第二次摂食障害を起こす)。

 現実逃避して就活を中断したが、何もしていないことに焦燥感がつのり、涙が溢れてくる。バイト先の出版社のトイレから心療内科に電話して初診の予約を入れた。

 心療内科では抑うつ状態だと診断された。しかし今となっては根幹には発達障害があり、その二次障害の抑うつ状態だったと思われる。当時はまだ発達障害について認知が進んでいなかったため、私はこのときちょっとした誤診をされたことになる。

 調剤薬局で安定剤と抗うつ薬、睡眠導入剤を処方された私は「メンヘラ」の太鼓判を押され、晴れてメンヘラデビューした。しかし、薬を飲んでも効いているのかどうかよく分からない。ガリガリの身体で毎日「たべっ子どうぶつ」を食べ、発泡酒で精神薬を流し込んでいた。

◆心の病の医療費助成に、親は大反対した

 当時は学生だったので親の扶養の保険証を使って通院していた。ということは、医療費と通院歴の通知書が親のもとへ届く。2週間に一度心療内科に通っていたので、医療費はかなりの額になっていた。その通知書を見た父は「桂は病気なんかじゃない」と私の生きづらさを否定した。

 精神疾患の医療費は自立支援医療制度を受ければかなり負担が減る。主治医に診断書を書いてもらい、役所に提出するだけという非常に簡単な手続きで済む。私も当時の主治医に勧められて自立支援医療制度を受けようと、5000円ほど出して診断書を書いてもらった。

 自立支援医療制度を受ければ安くなることを母に知らせると、「そんな制度を受けると選挙権がなくなったり人権がなくなったり、生きていく上で不利になる」と大反対された。もちろんそんなことは一切ない。

 ところが当時の私は親の言うことは絶対だったので、自立支援医療制度を受けることができなかった。それを主治医に話すと「そんな人権が剥奪されるようなこと、あるわけがない」と鼻で笑われた。

 私はこのときもまだ親に言われるがままにしか動けなかったのだ。ちなみに現在は発達障害と双極性障害、摂食障害の治療に自立支援医療制度を利用させていただいている。医療費も薬代もがくんと負担が減ってありがたい限りである。当たり前だが選挙権だってある。

 この自立支援医療制度について知らない精神疾患の方は意外と多いので、もっと認知されてほしい。申請して不利になることなんて一つもないのだから。

◆コロナ禍で襲われた“うつの波”

 2年ほど前に自立支援制度を申請した際、主治医に報告すると「そのとき精神障害者保健福祉手帳のことは役所の人から言われませんでしたか?」と聞かれた。確かに聞かれたが、そのときの私は私程度の生きづらさで手帳なんぞ必要ないだろうと思い、手帳の申請を断ったのであった。そう、たしかに当時は何も困っていなかった。

 ところが2020年の秋、私はうつの波に飲まれることになる。コロナ禍で人になかなか会えない、仕事が急に暇になって収入が著しく落ちた、タクトさんにも会えない。外出自粛のせいもあり、ベッドとパソコンデスクの間を行き来することが多くなった。私の精神状態は最悪だったが、友人の漫画家・渡辺河童さんとSkypeで長話をして気を紛らわせることが増えていた。

 その日も河童さんと、作家の深志美由紀さんと3人でSkypeで長話をした。会話終了後、処方通りの量の薬を飲んでから、大量の発泡酒とチューハイを飲んだ。意識が朦朧としてきた私は自然と「さて、死のう」と思い立ち、クローゼットを開けて安物のベルトを1本取り出した。

 タクトさんに「お付き合いしてもらえないなら今から死にます」とLINEを送った。「申し訳ありません。お付き合いはできません。でも生きてください」と返信が来たが、私はタクトさんに会えないと生きている意味がない。そして踏み台を持ってきてその上に乗り、寝室のドアのドアクローザーにベルトをかけ、首を吊った。ここから先の記憶はぷつりと途切れている。苦しいとも思わなかった。

 どのくらいの時間が流れたのだろう。気づいたら寝室の床のど真ん中に仰向けで倒れていた。失禁していてお尻が冷たかった。頭や身体をあちこちぶつけたようで全身が痛い。特に痛い頭の部分を触ると血が出ていた。ドアの側にはちぎれたベルトが落ちている。身体は痛いしお尻は冷たい。とりあえず失禁で濡れた床を拭き、濡れたパジャマを脱いでシャワーを浴び、新しいパジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。

◆その後、周囲の人との関わり

 翌日、河童さんに自殺未遂をしたことを報告したら「なんで僕と話した後に」と少し怒っていた。実は河童さんも重度のうつ病が原因で何度か自殺未遂をしている(『実録コミックうつでも介護士崖っぷち人生、どん底からやり直してます。』(合同出版)にそのときのことが描かれている)。言ってみれば自殺未遂の先輩だ。本当は主治医のところに行きたかったが、ちょうど土曜日で休診だった。

 すると河童さんは「うちにおいで」と言ってくれた。床にぶつけた頭と身体が痛いので、本当は家でじっとしていたかったが、こういうときは人に会ったほうがいいと判断し、お昼前に1時間ほどかけて河童さんの家に遊びに行った。

 河童さんは最寄り駅まで車で迎えに来てくれた。途中でコンビニに寄ってサンドイッチを買った。河童さんの家は様々なアニメや漫画のオタクグッズで溢れていて、愛猫のきゅうりちゃんも出迎えてくれた。いろんなフィギュアに囲まれた部屋でサンドイッチを食べながら、河童さんとポツポツと世間話をした。早めに主治医のところに行くよう言われたが、運の悪いことにその日から土、日、月と通院している心療内科が3日連続で休診だった。

 しばし河童さんの部屋で過ごした後、また1時間ほどかけて自宅に戻った。前日、首を吊る寸前まで話していた深志さんからも心配のLINEが入っていた。元薬物依存症患者で今は薬物依存症の啓蒙活動や保護司の仕事をしており、精神障害にも詳しい風間暁さんも「できるだけ早く会って話したほうがいい」と言ってくれて、新宿の喫茶店で話を聞いてくれた。

 風間さんは虐待サバイバーで元ヤンでもある。だからなのか、生きづらい思いをしている人の話の傾聴がとても上手かった。そして、タクトさんを失ってしまった私に「私、昔バンドやっていて仲の良いバンド界隈の男いっぱいいるから、今度誰か紹介するよ」とも言ってくれた。

◆“自然と死を選んでしまう自分”に気づく

 私には話を聞いてくれる人がたくさんいることに、このとき気づいた。私は一人ではなかった。ちなみに休診日明けにようやく心療内科を受診できたものの、診察はいつもと全く同じで、行く意味があったのかな? とすら思った。

 親には自殺未遂したことを言わないでおくつもりだったが、河童さんの強い勧めで母親に話した。それから、本来ならその月の後半に帰省する予定だったのを前半に前倒しし、5日間、何もせずに実家で過ごした。親は特に気を遣い過ぎることもなく、ゆっくり休ませてくれた。

 この経験から、私は双極性障害のうつ状態に陥ったとき、自然と死を選んでしまうことに気づいた。そしてうつ状態で働けなくなったときに備え少しでも経済的負担を減らそうと、精神障害者保健福祉手帳を取得することを決意した。

 精神障害者保健福祉手帳も、自立支援制度を申請するときと同じように、医師の診断書を役所に提出すれば取得できる。この手帳は1級から3級まで等級があり、級が上がるごとに受けられる支援が増える。そして、病状が快復したときには返納することもできる。これまで取材してきた発達障害当事者は3級を所持している人が多かった。

 しかし、3級は障害者雇用で働く上では手帳があることで有利になることはあるものの、受けられる支援は限られている。ここは、充実した支援を受けられる2級を取得したいところだ。

◆お守りのように持ち歩いている“緑色の手帳”

 このとき、一人ではほとんどのことができない精神状態だったので、先輩文筆家の鈴木大介さん夫妻に役所での手続きを手伝ってもらった。鈴木さんは精神障害についても詳しい。昔は2級は取りやすかったけど今は取りにくくなっている、という事前情報も教えてくれた。手帳の申請から交付までは3カ月ほどかかる。自分は何級なんだろうか。

 周囲の人のおかげでだんだんと元気になり、仕事も忙しくなってきた2021年2月、手帳交付のお知らせが区から届いた。役所に足を運ぶまで等級は分からないらしい。平日の午前中に窓口に行くと「精神障害者保健福祉手帳2級ですね」と言われ、緑色の手帳が私の手に渡った。3級ではなく2級が取れた。

 窓口の人は都営バスが無料になることとタクシーが1割引になることしか教えてくれなかったが、帰宅後に河童さんに聞くと、携帯料金も安くなることを教えてくれた。鈴木さんからは難しいと言われていた2級が取れてよかったという言葉と共に、確定申告に間に合うか分からないけど所得税が安くなることと、私の住んでいる地域では他にも多くの制度が使えることを教えてもらった。

 私は発達障害だけど、自分に合った仕事を立派にこなせているから手帳はいらないとずっと思っていた。自分は大丈夫だ、やればできるのだというマッチョ思考も持っていた。しかし、現実の私はそんなに頑丈ではなかった。

 この緑色の精神障害者保健福祉手帳は、今まで無意識のうちに強がっていた自分とお別れをさせてくれた。もらってすぐは通帳などの貴重品を入れている引き出しにしまっていたが「しまってちゃ意味がないよ」と河童さんに言われ、今はお守りのように持ち歩いている。

<文/姫野桂 構成/女子SPA!編集部 撮影(著者近影)/Karma>

【姫野桂】

フリーライター。1987年生まれ。著書に『発達障害グレーゾーン』、『私たちは生きづらさを抱えている』、『「生きづらさ」解消ライフハック』がある。Twitter:@himeno_kei

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