フジロックに厳しい声「いま観客入れてやるか?」。賛否の埋まらない溝

フジロックに厳しい声「いま観客入れてやるか?」。賛否の埋まらない溝

フジロックフェスティバル’21の公式サイト

新型コロナウイルスのデルタ株が猛威をふるう中、観客を入れて行われたフジロックフェスティバル(8月20-22日、新潟県湯沢町苗場スキー場)。来場者は正式発表されていませんが、のべ3万5000人との報道があります。

 現地参戦した人や配信動画を観て感動する人たちがいた一方で、疑問の声も続出しています。

◆「観客あり」でやった結果は……?

 運営サイドやMISIAをはじめとした出演ミュージシャンは、マスク着用や飲酒禁止などの感染予防対策を呼びかけましたが、デイリー新潮(8月21日配信)の現地取材によると、屋根付き会場の若者たちはステージ前で“密”になり盛り上がりまくっていたとのこと。

 さらには東京から大挙してやってきたと思しき大量の車に、公式グッズ売り場ではソーシャルディスタンスそっちのけで長蛇の列。おざなりになってしまった対策が、懸念を抱かせる実情をリポートしていました。

◆「五輪に反対した人がフジロックに出る」ことに批判が

 出演ミュージシャン等の言動も、議論を呼んでいます。というのも、彼らの中には感染を拡大させるとして東京五輪への反対を表明し、開催後も中止を強く訴えた人たちがいるから。にもかかわらず、フジロックという大規模イベント開催への理解を求める姿勢が、あまりにも身勝手だと批判を受けているのです。

 シンガーソングライターのSIRUPは8月18日に長文のツイートの中で、<フジロックは日本が世界に向けて誇れる最大級の文化のステージであり、これを失うことは大きな損失になることは事実です。>と、開催の意義を主張しました。

 このSIRUPのツイートに、アジアンカンフージェネレーションの後藤正文が反応し、8月19日にnote上に文章を発表。開催を求めること自体がエンタメサイドの甘えなのではないかとの葛藤も覚えつつ、それでも様々な責任を引き受けなければならないという、苦しい胸のうちを明かしたのです。

 こうしたミュージシャンたちの叫びに、一部音楽ファンからは共感する声があがったものの、残念ながら大方の世論は否定的でした。SIRUPのツイートは、“だったらフジロックをオリンピックに置き換えても同じこと”とツッコまれ、後藤氏に至っては21日に突如ツイッター休止を宣言してしまったほど。厳しい批判が多数寄せられたのでしょう。

◆東浩紀氏は、「ダブルスタンダード」とバッサリ

 ほとんどの人は、ミュージシャンにも背に腹は代えられない事情があることは理解しているはずですが、同情よりも反感が上回ってしまった背景を鋭く指摘したのが、批評家の東浩紀氏でした。

 無観客の東京五輪を批判しながら、フジロックの開催に理解を求める姿勢はダブルスタンダードだとバッサリ。結局フジロックに出たい・観に行きたいと言うのなら、五輪反対と言うべきではなかったとし、東氏は自身のツイッター上でこう諭したのです。

<別の表現でいいかえれば、フジロックやってもいいけど、それならほかのひとの行動にも寛容になれってことですよ。自分たちが我慢できないのに、他人にばかり我慢を要求するなってこと。>

 感情論ではなく、発言と行動の辻褄が合っていないことがおかしいと言っているのですね。

◆出演ミュージシャンの苦しい胸のうち

 さて、開幕前には“オリンピックは不要不急”との批判が高まりましたが、この状況下でのフジロックを、どう捉えるべきなのでしょうか?

 スポーツも音楽も好きな筆者ですが、さすがにオリンピックよりフジロックが重要だと言い切るのには抵抗があります。良し悪しはともかくとして、国際的な約束事であるオリンピックと地域限定の催し物であるフジロックでは、比較にすらなり得ません。

 また、SIRUP氏の言う、“日本が世界に向けて誇れる最大級の文化のステージ”も、海外アーティストを招いてフルスペックで行われれば、との条件付きなのではないでしょうか。毎年、海外の大物アーティストがヘッドライナーを務めてきたおかげで、フジロックに箔が付いてきたことは否定しがたい事実です。

 だとすれば、今年のように邦楽限定のラインナップで、“日本が世界に向けて誇れる最大級の文化のステージ”であると開催の意義を主張することは、逆にフジロックの築いてきた歴史を否定することになりかねません。

 いずれにせよ、ミュージシャンたちがどれだけ言葉を尽くそうとも、オリンピックに反対しながらフジロックの開催に理解を求める論理展開は、どう見ても無理筋にしか映らなかったわけです。

◆有観客でやる必要はあったのか?

 そもそも、最も危機的状況にあると言われる現在の日本で、観客を入れて大型イベントを開催する必要があったのでしょうか? 不要不急の極みである音楽鑑賞を、わざわざ危機を助長する形態で強行しなければならないものなのでしょうか?

 不要不急と言われると何の価値もないように思われるかもしれませんが、全く逆の意味です。それを聴いたところで、お腹いっぱいになるわけでも口座の残高が増えるわけでも賢い人間になれるわけでもないのですから、もともと音楽なんて何の役にも立たないし、特別有意義なものでもないのです。

 それでも、そんな取るに足らないものに、なぜか心が動かされる瞬間がある。そういう理不尽な感動に、音楽の価値があるのではないでしょうか。言うまでもなく、それは大人数が集うフェスでなければ味わえない類のものではありません。

◆配信だけにしたグラストンベリーの味わい

 コロナ禍は紛れもない危機ですが、同時に新たな視点も提供してくれました。大規模フェスの物量の中で埋もれていた、音楽のささやかな喜びを再び気づかせてくれる試みがありました。

 昨年大規模なロックダウンを行ったイギリス。フジロックと同じように、屋外に大勢の観客を入れて行われるグラストンベリー・フェスティバルですが、昨年も今年も中止を余儀なくされました。かわりに過去の動画や限られた形での生演奏を配信したのです。名前も、“フェスティバル”(お祭り)から“エクスペリエンス”(体験)に変更する念の入れよう。

 昨年の配信で特に印象的だったのが、広大な牧草地帯にひとりたたずむローラ・マーリング。草を食む牛のそばで、アコースティックギター1本の弾き語りを披露した姿は、静寂の力強さをたたえていました。ふだんならば大歓声にかき消されてしまっただろう楽器の音と歌声が風景に溶け込む情緒は、ピンチだからこそ味わえるぜいたくな瞬間でした。

 焚き火を囲んでセッションを展開したヌバイア・ガルシアの音楽も、味わい深かった。炎と煙が醸す究極のミニマリズムが、楽曲を際立たせていました。

◆一人で静かに聴くという音楽体験

 同じようなことをフジロックだってできたはずだし、おそらくはそうすべきだったのだと思います。反感と批判を尻目に騒ぐよりも、動きを止め、ボリュームをしぼった方が、開放感を得られる場合だってあるはずです。そういうアイデアを提案するのではなく、お祭りイベントとして容易い快楽に傾いてしまったことが残念でなりません。

 不要不急の娯楽を支持したいからこそ、今回のフジロックにはがっかりしているのです。

<文/音楽批評・石黒隆之>

【石黒隆之】

音楽批評。カラオケの十八番は『誰より好きなのに』(古内東子)

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