「人生最悪の時こそヒントがある」NYファッション界で見たドン底と栄光

「人生最悪の時こそヒントがある」NYファッション界で見たドン底と栄光

「フラワー・ゴッデス」の作品のひとつ。



 ニューヨークのファション界で活躍した日本人のファッションデザイナー、アケミS・ミラーさんをご存知でしょうか。25年間のニューヨーク生活を経て、現在は大阪でフェイスデザインスクールを運営しているアケミさんに、前回に続き、日本人女性へのメッセージを聞きました。

 1989年、何のツテもなくNYに渡って、1990年にはNYコレクションでデビューを果たしたアケミさん。ですが、このデビューコレクションで借金を背負って、最悪の状態だったと言います。(以下はアケミさん談)

◆コレクションで借金を背負うことに…

 コレクションを続けるには毎回莫大な資金が必要です。春夏・秋冬の年2回のニューヨークコレクションの製作と簡単に言いますが、そこに行きつくまでは私の場合、生地から製作していましたので、糸を選んでオリジナルジャガードを織、手描きした絵柄をプリントするところから始まります。

 ビジネスの方も同時進行で、アメリカ人のセールスディレクター達がイメージや価格帯の合うストアーのバイヤー達との交渉から入ります。サンプルが出来上がってくる頃には、招いているお店のオーナーやバイヤーに合わせた商品ラインを作り、その人たちの好みの飲み物、チーズやフルーツ、おいしいおつまみ等も準備し“AKEMIの今年の春夏コレクション”のプレゼンが始まるのです。ショーを開催する前に半分以上のビジネスは既に終わっています。

 年間の運営費はブティックの経営を省いても当時で3億円ほどが必要でした。非常に大金です。コレクションはとても華やかな半面、商品が売れないと地獄に落ちる、命を懸けた真剣勝負です。コレクションを続けるには、資金繰りという課題が常に付きまとうのです。

 日本の某有名企業からスポンサーをして頂いたことも過去にはあったのですが、先方はファッション業界の知識がゼロ。無理難題を押し付けられた上、突然手を引かれたこともあります。

「NYコレクションで発表する前に、その商品を東京の店舗に飾らせて欲しい」等、要求を重ねられる事を全て無理だとお断りした結果、新たな負債まで背負ってしまいました。

◆ 食べるものがなかったクリスマス

 経営の悪化は社員全員が知る周知の事実でしたが、日本から来た古いスタッフは誰一人辞めたいとは言いません。このままでは終われない――。全員が目指している方向は決まっていました。深夜、スタッフが泣きながらミシンを踏んでいる姿が今でも脳裏に焼き付いています。

 私は声をかける事が出来ず、凍りつくような厳しい寒さのニューヨークの深夜に、一人で自宅まで歩いて帰ったことを今でもはっきり覚えています。道々にホームレスの人が段ボールに包まって寝ているのを見て、まるで自分がそこにいるように感じました。

 あれは確か1991年の冬、NYがクリスマスで彩られた日の出来事です。一人のスタッフが「先生のお宅に行っていいですか?」と聞いてきました。

 後にそのスタッフは「先生、その時私と何を食べたか覚えていますか?」と嬉しそうに聞きました。せっかくクリスマスに遊びに来たスタッフに、自宅にあったのはインスタント麺ひとつ。それを2人でシェアしたと言うのです。

 私は「1個しかないけど、一緒に食べる?」と笑顔で言ったそうです(笑)。

◆人生最悪の時こそ、ヒントが隠れている

 でも、人生は最悪な時期こそ、ヒントが隠されているもの。私の経験上のちの人生の道しるべとなるアイデアが生まれるのはそういう時なのです。

 私は毎回窮地に追い込まれるような事件が発生した時こそ、強く立ちあがると言う習性を持っています。悲しい事や辛い事が続くというのが嫌なのです。そのまま負け犬になるのも我慢できません。

 片頬を殴られたら、殴り返してから立ち上がりたい! それぐらいの気持ちでニューヨークでは生活していました。そして次に進むその答えは、まず周りを見渡して下さい。必ず次に進むヒントがそこにあります。

 日本人の知人やスタッフにメイクをしてあげると、たちまち私のメイクアップ技術が凄いと噂になりました。日本時代も10年間モデルの育成をしていましたから、メイクアップは私の中では必然でした。

 確かにこれまでも、コレクションに出るモデルのメイクを手直しすると、モデルたちは「アケミにメイクして欲しい!」と要望されたことも数えきれません。

 そこでアトリエの一部をスタジオに模様替えして、トータルビューティースタジオを1996年に開校しました。まだファッションデザイナーが美容を考えない時代です。トータルビューティという言葉さえも定着していませんでした。ファッションだけではなく一流のメイクアップ技術があってこそ、トータルビューティ―は完結するという概念を提唱しました。

 募集をかけると反響は凄かった。“ファッションデザイナーが考えるビューティー”“フェイスデザイン”に生徒はあっという間に集まり、NY時代だけで5000人以上の生徒が受講したのです。

◆「私は日本人だ!」という誇り

 このスクール開校の翌年、1997年。人生の節目となる仕事が舞い込んできました。クライアントは、あの国際連合。「国連スタッフデーに日本代表として、本会議場でコレクションを発表しして欲しい」と使者が来たのです。

 国連日本政府を通さず、直接私のオフィスで交渉。さすがに日本政府代表にも話を通すと、イッセイ・ミヤケさん、ハナエ・モリさんの両氏にも打診があったそうですが、最終的に私がファッションショーをお受けしました。

 その時に生まれた作品のひとつが日本の伝統柄“段染め”をデフォルメしたものです。国連加盟国の大使御夫妻と国連スタッフの為に日本の美から生まれたコレクションの数々を6か月間寝食を忘れて作り続けました。

“愛と平和、そしてビューティー・・・”がその時のテーマです。

 私がコレクションの最後に子供達の手をつなぎ登場すると、オーディエンスの大使達が皆立ち上がり迎えてくれました。その時の私の気持ちはAKEMI SONE MILLERではなく、ただ、ただ“私は日本人だ!”という誇りでした。自分の立場や名前なんて飛んでいました。

 日本人はこんなに美しいものを創れるんだ! よく見てくれ! という気持ちです。初めて強く自分が日本人であるという意識を体験した出来事でした。

◆ロックフェラー財団からファッションショーの依頼が

 ファションウィ―クのショーの最後の1点にウェディングをイメージした真っ白い立体の花のドレスを出しました。

 それを見た、ロックフェラー財団のスタッフが、花のドレスをいたく気に入り、1998年夏のニューヨークの代表的な催し“ロックフェラー・フラワーガーデンショー”のメインイベントとしてファッションショーをして欲しいと依頼してきたのです。

 ロックフェラーセンター前にクリスマスに飾られる大きなクリスマスツリーはご存知ですか? 世界中の人が楽しみにしているその場所にステージを作り、NBCテレビでショーは放送されると言います。

 財団の方は必死に私にこう説明するのです。

「NYのど真ん中の3ブロックを森にする。だからメインのショーでは君の衣装が絶対に必要なんだ」。

 ショーのタイトルは“フラワー・ゴッデス”(花の女神)にしました。

 当日は2回のショーが必要でした。1回目はその森の中に創ったステージで、そして夜はロックフェラーセンターの名物アイススケートリンクで、ロックフェラー財団の関係者1000名が集まり行いました。

 寝る間を削って48点もの手創りの立体の花のドレスを手掛けたのは本当に苦労尽きない作業でしたが、ショー終了後このドレス達はロックフェラーセンターの1階に展示され、45日間の間に300万人の世界中の人々に私のドレスを見ていただいた事になります。

 今こうして日本で生活していますが、その時々の世界観は私の身体の中にあります。

―アケミS.ミラーさんインタビュー Vol.3―

【アケミS.ミラー】

兵庫県生まれ。京都できものを学び、79年から東京で“曽根あけみ”として活動。

1989年にニューヨークに渡り、AKEMI STUDIOを設立。ニューヨークコレクションのデザイナーとして活躍。米国人の夫の死をきっかけに2013年に日本に帰国し、大阪市でフェイスデザインのメイクスクール「AKEMI S. MILLER BEAUTY STUDIO」を開校。

<TEXT、現在の撮影/studio KEIF・加藤慶>

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