菅田×有村『花束みたいな恋をした』がヒット中。いつか枯れる恋の美しさ

菅田×有村『花束みたいな恋をした』がヒット中。いつか枯れる恋の美しさ

映画『花束みたいな恋をした』より

「一般的なラブストーリーって、なんらかのカセや障害を作ることで面白くしようとするけど、恋愛の面白さってそこにあるんじゃなくて、特別なことが起きなくても、恋愛それ自体が面白いよねって思ってて、それを書いたんです」(公式パンフレットより)

 菅田将暉と有村架純が共演して話題を呼んでいる恋愛映画『花束みたいな恋をした』は、男女ふたりの5年間を切り取り、「恋愛」というものの恍惚と枯渇、盛り上がりと盛り下がりをつぶさに追いかけた作品だ。

 その脚本を務める坂元裕二は、公式パンフレットのインタビューで上記のようなことを述べている。恋愛というものは、なにも恋敵が現れて三角関係になったり、「ロミオとジュリエット」的作劇で壁を描いたりせずとも、それ自体がとても面白く興味深く、また難解だということ。

 王道の恋愛ドラマにありがちな陳腐な設定を押しのけつつ、そうした「恋愛」のミステリアスな部分に鋭く切り込んでいるのが、本作品の魅力のひとつなのだと思う。

◆「好きなもの」の一致でつながったふたり

 菅田将暉演じる山音麦と、有村架純演じる八谷絹。2015年、互いに21歳(大学3年生)だった冬のある日、彼らはともに明大前駅で終電を逃し、偶然の出会いを果たす。

 驚くべきは、彼らが「ほとんど同じ」人間であるということだった。話をしていると好きなカルチャー(それは押井守から始まり、映画、文学、演劇、音楽、漫画、お笑いと途切れることなく広がっていく)の趣味が笑ってしまうほど一致していたのだ。

「共鳴」「同類」「共感」といったスイッチがもし実体としてあるとしたら、それを互いに押し合うようにして急激に心の距離を近づけていくふたり。それは最終的に、麦の家の本棚を見て絹が漏らす「ほぼウチの本棚じゃん……」という興奮の滲み出たセリフに集約される。

 まるで、元はひとつだった生き物がふたつに分かれたみたいに同じなふたり。そんな人を見つけてしまったなら、恋をせずにはいられなかった。

◆「恋愛のはかなさ」という一般論に着地するのではなく…

 予告編にも出ているので軽く内容に触れるが、本作の特異な点は恋愛の「はじまり」だけを描いているわけではないところにある。

 ゴールインして最終話が終わる、結婚して幕を閉じる、という恋愛ドラマや恋愛映画は世にたくさんあふれているが、『花束みたいな恋をした』はそれだけでは終わらない。というよりむしろ、恋愛のかなり難しく暗い側面を描いていて、それが作品の少なくとも半分を占めている。

 恋に恍惚(こうこつ)する前半と、恋が枯渇していく後半――。「出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティーのようにいつしか終わる」。これは劇中の絹が愛読していたブログに書かれていた言葉だが、障害がなくともただ恋を続けることそれ自体がかくも大変なものであると、本作は伝えるのだ。

 さらに本作が面白いのは、恋の枯渇がそうした「恋愛の儚さ」のような抽象的な一般論だけに収まらない点にある。彼らの恋が衰退していく背景には、具体的な原因があったのだ。

◆「男らしさ」にからめとられていく麦

 その原因のひとつは、イラストレーターになりたいという夢を捨て、「男らしさ規範」や「資本主義社会」といったものに無意識のうちに絡(から)めとられていく麦の姿として現れるだろう。

 麦と絹は、駅から徒歩30分のアパートに同棲し、そこで自分たちだけの世界を構築していた。大学を卒業してもすぐには就職活動をせず、最低限の収入を手にしながら飼っている猫と好きなカルチャーに親しむ生活。麦にはイラストレーターを目指す夢もあり、おそらく極貧ではありながらも、彼らなりの楽しい生活はできていたはずだった。

 しかし、物語はある場面を契機に一変し、とりわけ麦に現れた変化を捉える。

 具体的には、一度イラストレーターの夢を諦めて就職活動をすることになるのがそれなのだが、その背景には「一生添い遂げるためにはとにかくお金を稼ぎ、男が女を守らないといけない」といったような、前時代的な男性社会に同調する考えがうっすら読み取れるのだ。

 そうして生活は変わっていき、彼らはその変化に適した関係性を再構築することができなくなっていく。

◆それでも「恋愛」はこの上なく輝かしい

 麦と絹は、「ほとんど同じ」人間だったけど、「まったく同じ」人間ではなかった。それがこの恋愛の真理だったのではないかと思う。

 共鳴スイッチが押されていくことの表面的な興奮に気を取られていたら、いつしか足元をすくわれてしまった。繰り返しになるがそれを、「恋愛はいつしか終わるものだ」という悟りきったような抽象的な概念だけで描いていないところが、本作の素晴らしさであるだろう。

 人と人はどこまでいっても真にわかりあうことはできないだろうけど、だからこそ、それが錯覚であったとしても一度わかりあえたかに思える瞬間はこの上なく輝かしい。それは坂元裕二が『それでも、生きてゆく』や『最高の離婚』、『カルテット』といった諸作で描いてきたテーマである。

 もしかしたらまた彼らは偶然出会い、話をするかもしれない。そのときに、麦と絹の心のなかにあの出会いの夜の記憶が残像としてあったならば、わかりあえないことを前提にした、わかりあおうとする日々がまた始まるかもしれない。

 そんなことを想像せずにはいられない「恋のはじまりの美しさ」が、映画には克明に描写されているはずだ。

製作:『花束みたいな恋をした』製作委員会 配給:東京テアトル、リトルモア (C)2021『花束みたいな恋をした』製作委員会

<文/原航平>

【原航平】

ライター/編集者。1995年生まれ。『リアルサウンド』『クイック・ジャパン』などで、映画やドラマ、YouTubeの記事を執筆。カルチャー記録のブログ「縞馬は青い」を運営。Twitter:@shimauma_aoi

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