日本初フライトをけん引 日の丸航空界の父「徳川好敏」どんな人物? 実現へのドラマ

日本初フライトをけん引 日の丸航空界の父「徳川好敏」どんな人物? 実現へのドラマ

代々木公園の徳川好敏像(柘植優介撮影)。

日本で初めて飛行機の公式飛行が実施されてから、110周年を迎えます。この中心人物といえば、「ファルマン式二層型」の操縦を担った徳川好敏でしょう。「日の丸航空界生みの親&育ての親」といえる彼はどのような人物だったのでしょうか。

家康の末裔 でもフクザツな事情…

 2020年は、日本で初めて飛行機の公式飛行が実施された1910年(明治43)年12月19日から、ちょうど110年となります。その公式飛行で、飛んだのがフランス製の「ファルマン式二層型」と呼ばれる飛行機です。

 一般的に、ファルマン式二層型は「アンリ・ファルマン複葉機」と呼ばれることもありますが、ここでは飛行機などを軍事利用に用いることを目的に、旧日本陸海軍が設置した『組織臨時軍用気球研究会』公式資料上の愛称に準拠します。

 このファルマン式二層型飛行機を操縦したのが徳川好敏(よしとし)氏だったのですが、彼はどのような人物だったのでしょうか。

 徳川好敏氏は、その名前からわかるとおり、江戸幕府を開いた征夷大将軍、徳川家康公の末裔にあたります。ただ、ご多分に漏れず、徳川家が全てひとつの家系として、直接的に血がつながっていた訳ではありません。

 徳川好敏氏は、徳川幕府の第9代将軍である徳川家重の次男が興した「清水徳川家」の末裔とされています。「清水徳川家」は、将軍を世襲できる家系ではあったようですが、実際にここから将軍になった人はいないとのこと。また、「清水徳川家」自体も1人目から世継ぎがなく、水戸徳川家からの養子で家系を継いだということで諸説あり、その詳細ははっきりとわかっていません。清水という名前は、清水徳川家が江戸城の清水門内(東京都千代田区。現在の北の丸公園や日本武道館のあたり)に居所を持っていたためとされています。

 幕末の清水徳川家の当主は、最後の将軍、慶喜の弟で水戸徳川家の昭武氏。彼は、当時開催されたパリ万博への日本代表としてヨーロッパ外交を担当し、そのままフランスに滞在したといいます。その後、彼は水戸徳川家を継ぐために清水徳川家を離れましたが、明治時代になって昭武氏の甥である篤守氏が清水徳川家を継ぎ、明治政府から「華族」の称号とともに、「伯爵」の爵位を得ました。

 この篤守氏の長男が、初飛行に携わった冒頭の好敏氏であり、第8代清水徳川家となるそうです。ただ、武士の家系に多かったのかもしれませんが、好敏氏が若い頃に、清水徳川家が借金による訴訟事件を起こされたことで、爵位を返上しています。

 つまり、徳川好敏氏は、清水徳川家の系統にあり、伯父がフランスに駐在した経験があったものの、父親が借金問題で爵位返上になるほどの不名誉な事件を起こしているのです。このことが、後年まで彼に多大な影響を与え続けることになるのです。

徳川好敏氏はどんな人間だったのか

 徳川好敏氏は、高等師範学校附属小学校および中学校(現在の筑波大学付属の小中高等学校)を経て、旧日本陸軍士官学校を卒業し、工兵大尉となります。25歳のときに、先述の臨時軍用気球研究会の委員となり、パリへ出張し、飛行機の購入と飛行術の習得を命じられます。このあたりの経緯を細かく記載されている資料は見たことがないのですが、好敏氏が清水徳川家の名誉を回復したいと望んでいることを、工兵隊の上官が理解していたからこそ、飛行術の習得やパリ留学ができたのではないでしょうか。もしかすると私(種山雅夫:元航空科学博物館展示部長 学芸員)は、そのような日本人的な事情が考慮されたのではないかとも考えます。

 もちろん、徳川好敏氏の経歴を見れば、真面目で、組織の一員として活動でき、技術に関する理解能力も高かったのではないかと類推できます。また、同氏の人格などについても、肯定的な著述が多く残っているのも特徴です。

 この徳川好敏氏に関する私(種山雅夫、元航空科学博物館展示部長 学芸員)の好きなエピソードをいくつか。先述のとおり彼が飛行学校での飛行術訓練のためパリ郊外に出向いたとき、飛行学校への通学にはバイクを使っていたそうです。というのも、彼が学んだ飛行学校の練習の順番は先着順だったそう。早く行けば、それだけ早く練習できるから……とバイク通勤を選んだとされています。

 しかし、実際の操縦訓練は、同乗飛行数回(練習生が前に座り、教官が後ろから操縦稈を握っていたそうな)で、飛行場上空での卒業試験だけだったとも。こうして、有名なフランス航空協会発行の操縦免許を取得して帰国します。

初飛行当時の様子は?

 その後臨時軍用気球研究会が、飛行機の公式初飛行を1910年(明治43)年12月15日に設定します。それに合わせて、日本まで船で運ばれてきた機体を横浜で陸揚げし、飛行会場となる代々木練兵場(東京都渋谷区、現在の代々木公園)に持ち込み、組み立てるのですが、なかなか思うように組めません。

 ファルマン式二層型は、全長、全幅ともに10mを超え、4m近い高さもあります。つまり、一人では組めません。組み立ては、工兵隊の人手などを用いましたが、日本で飛行機を組み立てた経験がある技術者は皆無に等しく、かの徳川好敏氏も、もちろん熟練整備士ではありません。練兵場にテントを張って組立にあたったそうですが、夜遅くまで煌々とランプの光が灯っていたとか。この際にも、同氏のチームリーダーとしての素養が役に立ったのではないでしょうか。

 ちなみに一方で、同氏については、少し「人間らしさがある」といえるような……エピソードも残っています。

徳川好敏氏のある意味人間らしいエピソード

 徳川好敏氏の陸軍航空界の後輩には、滋野清武氏というパイロットがいました。彼はフランス国内に限定されるフランス航空協会の操縦免許ではなく、格上の世界中で通用する「万国飛行免状」を個人で取得した人物で、臨時軍用気球研究会にも参加を要請されるほどの腕前でした。

 彼は、操縦技術に関しても徳川好敏氏より上で、後輩への指導についてうまかったともいいます。しかし、そのことがマイナスに働いたのか、両者の間に軋轢が生じるようになったとも。結果、徳川好敏氏が彼を教官から外すように動いたことで、彼がメンバーから外れたとの記載があります。そのためか、のちに滋野氏はフランスへ渡り、第1次世界大戦で戦闘機乗りとなります。そして5機以上の戦果を挙げる「エースパイロット」となったことで、「バロン滋野」として名を上げるまでに至ります。

 ハナシを徳川好敏氏に戻すと、1910(明治43)年12月19日、彼は日本における飛行機の公式飛行に初めて成功します。先述のとおりこのフライトで「清水徳川家の名誉を回復したい」と考えていたであろう徳川好敏氏が、もし飛べなかったらならば、自分の責任を感じて……といったことを容易に想像してしまうほど、命がけのチャレンジだったのかもしれません。

 初飛行が成功したことで、清水徳川家の名誉も回復。男爵が授与されます。こうして、徳川好敏氏は、旧日本陸軍航空生みの親、そして育ての親となっていきました。初飛行については、これ以外にも様々な説が飛び交っていますが、誰が最初に飛んだかではなく、これが日本の航空界をけん引するスタートとなったことが重要ではないでしょうか。

 私(種山雅夫、元航空科学博物館展示部長 学芸員)は、実は徳川好敏氏のご子息と日本航空協会のお計らいでお会いしたことがあるのが密かな自慢です。ご子息も威風堂々というか、静かなたたずまいの中に、何か強いものを持っているのを感じたことを覚えています。

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