飛行機の日本初飛行直前の大ピンチ! 窮地を救った隠れた偉人「奈良原三次」とは

飛行機の日本初飛行直前の大ピンチ! 窮地を救った隠れた偉人「奈良原三次」とは

アンリ・ファルマン複葉機。いわゆるファルマン式二層型(画像:アメリカ議会図書館)

飛行機の日本初公式飛行が成功した1910年12月、実は直前にファルマン式複葉機のプロペラにトラブルが発生、大ピンチに陥ります。これを救ったのが、影の立役者である奈良原三次氏。どのような人物で、どう支えたのでしょうか。

金属製プロペラだった場合、日本史が大きく変わっていたかも!?

 公式記録上では、日本で初めて飛行機が飛んでから、2020年でちょうど110年の年になります。その公式飛行において「ファルマン式二層型(臨時軍用気球研究会の公式名称)」、いわゆるアンリ・ファルマン複葉機が飛ぶにあたり、あまり広く知られていない、ひとりの技術者の支援がありました。その名は奈良原三次、どのような人物だったのでしょうか。

 奈良原三次氏は、鹿児島県鹿児島市生まれ。東京の城北中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学(現東京大学)に合格し、工学部造兵科に進学します。1908(明治41)年の卒業後は、旧日本海軍の少技士(少尉待遇の技術者)に任官し、横須賀海軍工廠に勤務となります。その頃から欧米の資料をもとに、飛行機に魅せられ、自ら飛行機の製作に励むようになったといいます。

 22才のときに海軍側の委員として、軍事に飛行機や気球を活用しようと旧日本陸海軍が立ち上げた「臨時軍用気球研究会」に参加。ただ、この研究会は、陸軍中心の組織であることから、旧海軍籍の奈良原氏は肩身が狭かったようです。そのため、身銭を切ってヨーロッパから飛行機用エンジンを調達して機体を製作することに。結果、1910(明治43)年10月に独力で「奈良原式1号機」を完成させたものの、購入したエンジンの馬力不足からか、わずかに地上を離れることしかできなかったそうです。

 2か月後、臨時軍用気球研究会は飛行機の公式初飛行を12月15日に設定します。会場となる代々木練兵場(東京都渋谷区、現在の代々木公園)でようやくファルマン式二層型を組み立て、18日に滑走試験を行いましたが、通路の溝に入ったとたんピンが抜け、車輪が吹っ飛んでしまい、プロペラが地面を叩いて壊れてしまったのです。ちなみにファルマン式二層型を購入するとき、プロペラなどの予備部品は購入されていません。

 とはいえ、先述のとおり、この数日後の初飛行自体は成功しています。どのように復活をしたのでしょうか、

初飛行の影の立役者の活躍とは

 プロペラが壊れたファルマン式二層型を飛べる状態に復活させ、日本初の飛行機の公式飛行成功へと導いたのが、奈良原三次氏です。

 修理を依頼された奈良原氏が、たまたま別の飛行機用に購入したプロペラを、ファルマン機の壊れたプロペラの軸に合わせてみたところ、使えそうなことが判明、急きょ流用したというのが真相のようです。そのため、当時のファルマン機の写真をよく見ると、初飛行の際のプロペラと、ほかの日に所沢などで撮られた機体とでは、初飛行の前後でプロペラが微妙に異なっています。

 なお初飛行時のプロペラは、グラーデ機のプロペラと共に国立科学博物館が所蔵しており、日本航空協会により重要航空遺産に認定されています。

 こうして、12月19日に日本における飛行機の公式飛行が初めて成功するのですが、グラーデ機の方も前日に浮上した際にひっくり返ってしまい、修復が遅れ午後の公式飛行となりました。

 奈良原氏はその後、旧日本海軍を退職すると、臨時軍用気球研究会の委員も辞め、本格的な民間による飛行機開発に傾注し、翌1911(明治44)年に日本の国産飛行機の初フライトに成功します。また千葉県の稲毛海岸に日本初の民間飛行場を開設。ここを飛行機の研究、製作を自由に行える場所として用いたといいます。

航空界の超重要人物の師匠へ

 奈良原三次氏の立場的は、いうなればプロデューサーのような位置づけとなるでしょうか。飛行機を自分で飛ばすために、資金を投入し、必要な技術者を集めたチームを立ち上げています。

 こうして、奈良原氏は、旧日本海軍の出身者から民間航空生みの親となり、「日本民間航空の開拓者」と呼ばれた伊藤音次郎などの後継者に後を託します。なぜ手を引くようになったのか、一説によると彼は華族出身のため、最終的に危険でお金のかかる飛行機を止めるよう諭されたとか。真相は不明ながら、こうして彼は日本航空史から姿を消します。しかし、日本の民間航空界の黎明期をけん引した人物であることは間違いありません。

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