連合軍と枢軸軍 両方と砲火を交えたフランス艦…? 戦艦「リシュリュー」の波乱万丈

連合軍と枢軸軍 両方と砲火を交えたフランス艦…? 戦艦「リシュリュー」の波乱万丈

アメリカで修理、完工直前の1943年9月にアメリカ東海岸で撮影された「リシュリュー」(画像:アメリカ海軍)。

第2次世界大戦で激しく戦火を交えた連合国と枢軸国。この両陣営いずれにも所属し、いずれの陣営とも砲戦を繰り広げた戦艦がありました。名前は「リシュリュー」、当時のフランスを体現するかのように、時代に翻弄されたのでした。

「背後など取られぬ」フランスらしい割り切りから生まれた特異な戦艦

 フランス戦艦「リシュリュー」がその姿をあらわしたとき、世界は目を見張りました。時は第1次世界大戦後の戦間期から第2次世界大戦初期にかけてのころ、いまだ戦艦が海戦の主役だった時代です。

「リシュリュー」は主砲38cm(45口径)4連装砲塔を2基とも前部甲板に集中配置し、後方への主砲射界を考慮していませんでした。戦艦同士の交戦は長距離砲戦になることが想定され、簡単には後方に回り込まれないと見込んで、思い切ったレイアウトを採用したのです。芸術の国フランス、戦艦も独創性に富んでいました。

 とはいえ、この異形の「リシュリュー」は、実は優れた設計でした。主砲弾薬庫が前部に集中しているので防護すべきバイタルパートが小さく、艦全体の装甲重量が抑えられ、基準排水量3万5000トンという大きさのわりに防御力が充実していました。ちなみにライバルのドイツ戦艦「ビスマルク」は、基準排水量4万1700トンでした。最大速力も30ノット(公試では32ノット)という高速を実現します。防御力に優れしかも高速という、見た目の独創性以上の高性能艦でした。

「リシュリュー」が起工されたのは、戦雲が濃くなった1935(昭和10)年10月22日のことです。ドイツの「ビスマルク」に匹敵するヨーロッパ最強戦艦となることが期待されたのですが、工事は遅々として進まず、1939(昭和14)年9月3日にドイツへ宣戦布告した後も建造ペースは平時と変わらなかったといいます。フランス海軍には危機感があまり無かったようです。

 しかしドイツの電撃戦に晒されたフランス陸軍は大苦戦、ドイツ機甲部隊に翻弄されてしまいました。1940(昭和15)年4月1日になって、「リシュリュー」は慌ただしく一部未成のまま就役するものの、その約2か月半後の6月22日にはドイツとの休戦協定が結ばれ、事実上、フランスは敗北します。そこから「リシュリュー」の波乱が始まりました。

「イギリス人は恋と戦争には手段を選ばない。」

 フランス陸軍はドイツによる機甲師団を中心とした、いわゆる「電撃戦」の前に敗れ去りましたが、フランス艦隊はほとんど無傷でした。負けたつもりのないフランス海軍は、ドイツ軍によるろ獲(勝利した側が敗れた側の兵器などを獲得すること)を逃れるため、艦艇を北アフリカなどのフランス植民地に脱出させ、「リシュリュー」も北アフリカ、セネガルのダカールに向かいます。

 独仏間の休戦条約では、フランス艦隊はドイツに引き渡されず、また親独のフランス・ヴィシー政府は、軍事的には連合にも枢軸にも加わらない中立とされます。「リシュリュー」など脱出艦隊の立場も「親ドイツ的中立」という、ややこしいものでした。

 この動きをもっとも脅威に感じたのがイギリスでした。彼らが恐れたのは、ドイツによりヴィシー政府からフランス艦隊が取り上げられて、ドイツ海軍に編入されてしまうことです。そこでイギリスはヴィシー政府へ艦艇の引渡し、または自沈を要求しますが、そのような要求が簡単に通るわけがありません。

 しかしイギリスは本気でした。脅威となりそうなものは徹底的に叩き潰すというのが彼らの流儀です。1940年7月3日に「カタパルト作戦」を実行し、イギリス艦隊はアルジェリアのメルセルケビールにてフランス艦隊を攻撃します。そのころダカールに居た「リシュリュー」も、イギリス空母「ハーミーズ」のソードフィッシュ雷撃機隊による攻撃を受け魚雷1本が命中しました。

 同年9月24日には「ダカール沖海戦」で、「リシュリュー」はイギリス戦艦「レゾリューション」「バーラム」、空母「アークロイヤル」などと本格的に交戦します。ダカール沖海戦は3日に渡る激戦となり、イギリス艦隊とフランス艦隊はガチンコの艦隊戦を演じたのですが、あまり本気を出すとフランス・ヴィシー政府を本当に敵に回しかねない、と、イギリス艦隊は撤退します。この引き際も外交上手のイギリスらしいといえます。

「昨日の敵は今日の友」気付けば戦った相手の艦隊へ

 その後「リシュリュー」は、本国から充分な兵站を受けられないまま留め置かれます。そうしたなか1942(昭和17)年11月8日より、連合軍のモロッコとアルジェリアへの上陸作戦「トーチ作戦」が始まります。アルジェリアを守備していたフランス軍は一時抵抗し、「カサブランカ沖海戦」にてフランス艦隊は、今度はアメリカ艦隊とも戦いますが、結局フランス軍は降伏します。

 ヒトラーはフランス守備軍の降伏に激怒し、休戦条約を無視してフランス艦隊の接収を命令します。それに反発したフランス海軍は多くの艦艇を自沈させてしまう「ツーロンの悲劇」事件が起こりました。

 このドイツの休戦条約違反によって「リシュリュー」はようやく立場をはっきりとさせ、連合軍に加わることになります。損傷修理と残工事の完成のためニューヨーク海軍工廠に回航され、1943(昭和18)年10月10日に完工しました。

 1943年11月からは、かつて砲火を交えたイギリス艦隊に所属します。すでに宿敵だった「ビスマルク」は沈没しており、ヨーロッパ方面では出番がなく、1944(昭和19)年3月には対日戦のためイギリス海軍東洋艦隊に配属となりますが、日本艦隊との交戦機会もないまま終戦を迎えます。

 その後「リシュリュー」は、1945(昭和20)年9月にインドシナのフランス植民地の独立をめぐる第1次インドシナ戦争に派遣され艦砲射撃を行いました。1947(昭和22)年4月と6月にはヴァンサン・オリオール大統領のアフリカ植民地訪問にも使われましたが、もはや戦艦も植民地主義も時代遅れでした。

 過去の栄光の残滓を惜しむように20年、予備役のまま留め置かれた「リシュリュー」は、1968(昭和43)年1月に除籍。9月に解体され、色々あったフランスの歴史をも体現するような数奇な経歴を閉じます。現在、ブレスト港の海軍基地敷地内に「リシュリュー」の主砲1門だけが残っています。

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