「西武電鉄」「東急鉄道」とはならなかったワケ 私鉄の社名に見る世代間ギャップ

「西武電鉄」「東急鉄道」とはならなかったワケ 私鉄の社名に見る世代間ギャップ

西武国分寺線の国分寺~恋ヶ窪間。開業当初はここをSLが走っていた(2020年4月、内田宗治撮影)。

地下鉄を除く東京の大手私鉄のうち、社名に「鉄道」と付くのは東武鉄道と西武鉄道のみ。ほかは「電鉄」です。名前の違いから歴史を紐解くと、路線の性格の様々な違いが見えてきます。

私鉄の世代間ギャップ? 沿線の土地や線形などに違い

 東京メトロを除く東京の大手私鉄7社のなかで、東武鉄道と西武鉄道だけが社名に「電鉄」の文字がありません。なぜなのでしょうか。

 東京の私鉄各社は誕生時期が様々で、実は世代間ギャップのようなものも存在します。その世代の名残として、駅に隣接した土地に特徴が見られたり、急勾配区間があったりと興味深い違いがあります。ここで、第1世代から第3世代までを定義付けてみます。

 第1世代はいわゆる「SL世代」。社名に「鉄道」が付く2社が該当します。東武鉄道が1899(明治32)年、最初に北千住~久喜間(現・東武スカイツリーライン)を開業させた時、列車は英国ベイヤー・ピーコック社製のSL牽引でした。東武鉄道で電車が走り出すのは1924(大正13)年、浅草(現・とうきょうスカイツリー)~西新井間の電化完成以後です。

 西武鉄道は路線ごとに出自が複雑なのですが、1895(明治28)年に川越鉄道によって国分寺~東村山~川越間(現・本川越)が全通します。現在の西武国分寺線と新宿線の一部です。西武鉄道の母体は1915(大正4)年に池袋~飯能間を開業させた武蔵野鉄道ですが、当初は非電化で、電化されるのは1922(大正11)年の池袋~所沢間からとなります。

 社名としては、1922年に川越鉄道(現在の国分寺線と新宿線の東村山以北を運営)の系譜である旧・西武鉄道が、1946(昭和21)年に武蔵野鉄道の系譜である現・西武鉄道が、それぞれ誕生します。戦後に成立した現・西武鉄道は、当時からほとんど電化されていましたが、歴史を重んじてか「西武電鉄」とは名乗りませんでした。

開業時から電化されていた「第2・第3世代」〇〇電鉄

 第2世代以降はすべて「電鉄」と名の付く会社で、開業当初から電車運転が行われています。

 その一番手は京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)です。川崎方面から路線を伸ばし、1904(明治37)年に品川(現・北品川駅付近)まで全通させました。さらに1912(大正元)年に押上~市川(現・江戸川)間を開業した京成電気軌道(現・京成電鉄)、1913(大正2)年に笹塚~調布間を開業した京王電気軌道(現・京王電鉄)と続きます。

 ところで、以上の路線はいずれも旧街道に沿っています。例えば江戸時代の東海道沿いに走っているのはJR東海道線ではなく、京急本線です。旧品川宿の近くには、京急の新馬場駅があります。

 甲州街道も、新宿から西へしばらく並行しているのはJR中央線ではなく、京王線です。京成本線も旧佐倉街道と並行しています。つまり私鉄各社は、街道を往来していた人を主な乗客と見込んで線路を敷設したわけです。この世代は、「軌道」(元来は路面電車のように道路交通の補助としての敷設)として特許を受けた点も特徴で、「街道沿いの軌道世代」と呼べるでしょう。

 第3世代は小田急小田原線、東急各線、京王井の頭線、西武新宿線(西武新宿~東村山)などが挙げられます。東急目黒線など一部を除いて昭和生まれです。1923(大正12)年の関東大震災以後、郊外への移住が顕著になり、都心と郊外を高速で結ぶために造られました。いわば「郊外電車の世代」でしょう。

 改めて世代別に見てみると、第1世代の東武鉄道と西武鉄道は、貨物輸送に力を入れていたことも大きな特徴でした。東武鉄道は最盛期の1947(昭和22)年には154もの駅で貨物を取り扱っていました。西武鉄道も、前身の川越鉄道や武蔵野鉄道敷設の主な目的が川越、狭山、所沢などの物産を都心に運ぶことだったため、貨物輸送が盛んに行われました。

駅近接のやや大きな空間 貨物取り扱いの名残

 貨物輸送は、モーダルシフトの進展により1970年代前後から縮小され、西武鉄道では1996(平成8)年、東武鉄道では2003(平成15)年に貨物列車が全廃となります。

 西武や東武のいくつかの駅には、線路に隣接した不思議な空き地やコインパーキング、駐輪場が目に付きます。それらの多くはかつての貨物列車用の側線やそのホーム、倉庫だった箇所です。都心に近い場所では、橋上駅舎化でだいぶ痕跡が失われたものの西武池袋線の東長崎で、そのほかは清瀬、西武新宿線の井荻、田無、西武国分寺線の恋ヶ窪、小川、西武多摩川線の新小金井、競艇場前、是政などで、そうした空間と推定されるものが存在します。

 東武スカイツリーラインには、牛田~北千住間で南に分岐する千住貨物線がありました。京成本線のガードをくぐり、隅田川に面した千住ドックまでを結ぶ路線でした。現在も、一部にレールが残されています。

 一方、第3世代の路線になると、電車の性能向上により第1世代の路線には見られなかった急勾配区間が現れます。神田川の谷を走る西武新宿線は、下落合駅方面からカーブしながら高田馬場駅へと急勾配を上っていきますが、その代表例といえるでしょう。

 ほかにも、地下化で地上区間は廃線となりましたが、東急目黒線(当時は目蒲線)の不動前~目黒間も挙げられます。目黒川の谷からJR山手線を見下ろす台地上の目黒駅までは、都内有数の急勾配区間でした。

 世代別に路線を捉えると、乗車して車窓を眺める楽しみが増してきます。

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