空港なくても「着水」で 水上飛行機の旅客路線はなぜ消えた? 空から優雅に温泉旅行の時代

空港なくても「着水」で 水上飛行機の旅客路線はなぜ消えた? 空から優雅に温泉旅行の時代

日東航空の後身、日本国内航空時代のDHC-3「オッター」。オッターとはカワウソのこと(画像:JAL)。

四方を広い海に囲まれた日本。「水上飛行機ならどこでも行き来できるのでは?」と夢をふくらませたくなります。海上自衛隊では洋上の救難任務に国産のUS-2飛行艇を活用していますが、かつては民間の定期旅客路線も盛況でした。

水上飛行機が主力の関西エアライン「日東航空」

 2021年1月、水陸両用飛行機を用いて瀬戸内海などの遊覧飛行を行っていた「せとうちSEAPLANES」が、新型コロナウイルス感染拡大の影響などにより運航を休止しました。これにより、個人を除くと国内で水上飛行機(飛行艇含む)を運用するのは、ほぼ海上自衛隊ぐらいになってしまいました。

 しかし、いまから60年近く前には、南紀白浜や瀬戸内海を水上飛行機が定期旅客便として飛んでいたのです。

 実は昭和30年代の日本にはいくつもの中小エアラインが存在しました。高度経済成長に沸く当時、様々な企業が「航空事業は将来性がある」と見込んで進出しました。

 代表的なものだけでも「北日本航空」「東亜航空」「富士航空」「藤田航空」、そして産経新聞社が後援した「日東航空」がありました。これら航空会社はいずれもデ・ハビランド「ヘロン」、コンベアCV240、ダグラスDC-3といった15人から40人乗りのプロペラ機を用いていましたが、日東航空だけは水上飛行機を主力としていました。

 日東航空は1952(昭和27)年に「日本観光飛行協会」として大阪市で発足。当初は軽飛行機を使った遊覧飛行や宣伝飛行などが主な事業でした。発足から2年後の1954(昭和29)年暮れ、大阪〜白浜(和歌山県)間に初の定期路線を開設します。近畿では古くから親しまれる温泉地の南紀白浜へ、列車なら片道4時間もかかるところを飛行機であれば1時間もかからずひと飛び! という企画でした。

 21世紀の現在でこそ高台に南紀白浜空港がありますが、当時の白浜にはまだ空港がありませんでした。しかし水上飛行機なら近傍の海面に降りればよいため問題ありません。

 日東航空は、大阪府堺市の港から飛び立ち、海岸線に沿って南下。綱不知(つなしらず)湾に着水すれば目の前は白浜温泉という画期的な路線を開設し、デ・ハビランド・カナダ製の6人乗り単発プロペラ水上機DHC-2「ビーバー」を飛ばします。このルートは、まだ飛行機が贅沢な時代にもかかわらず好評を博し、日東航空のドル箱路線に成長しました。

瀬戸内海路線を開拓 ビジネス需要も取り込み躍進

 これに味をしめたのかわかりませんが、日東航空は1957(昭和32)年に大阪〜徳島線、1959(昭和34)年には大阪〜新居浜(愛媛県)線と、瀬戸内海へ次々に水上飛行機の路線を開設していきます。

 なお徳島や新居浜は、ともに大企業の工場が居並ぶ土地柄であるため、白浜線とは異なりビジネス客が多くを占めました。

 しかも、同社は勢いに乗って機材の増強も行います。まず1958(昭和33)年に、デ・ハビランド・カナダDHC-3「オッター」1機を購入。「オッター」はカナダ製の11人乗り単発プロペラ水上機で、脚には大きなフロート(浮舟)を着けていました。ちなみに日東航空は、「オッター」では「墜ちたー」につながり縁起が悪いという理由から、あえて「アッター」と呼んだそうです。

 1959(昭和34)年にはグラマンG-73「マラード」も導入しています。「マラード」はアメリカ製の10〜12人乗り、双発プロペラの水陸両用飛行艇です。日東航空では4年かけてアメリカの中古機市場で5機調達し、同社の主力旅客機として運用しました。

 日東航空は、ほかにも補助機材として5人もしくは6人乗りの双発プロペラ飛行艇マッキノン「スーパーウィジョン」を1機購入しており、合計で8機もの水上飛行機を持つ異色のエアラインとなりました。なお、この頃、大阪の拠点を堺から大阪国際空港(伊丹)へ移しています。

 そして好景気とレジャーブームの後押しを受け、日東航空はさらに路線網を広げます。

 人気の大阪〜白浜線を、串本〜志摩経由で名古屋(現在の県営名古屋空港)まで延長して“紀伊半島一周線”を開設。これに刺激を受けたのか、ヘリコプター事業で有名な中日本航空がグラマンG-21A「グース」飛行艇で名古屋〜串本路線へ参入したほどなので、いかに当時の水上機路線が人気を集めたのかがうかがえます。

ローカル航空会社ゆえの悲しい幕引き

 1962(昭和37)年、日東航空は大阪〜新居浜線を日本有数の観光地である大分県別府まで延長。これにより同路線は、ビジネス客に加えて行楽客も利用するようになり、混雑する人気路線となりました。

 瀬戸内海や紀伊半島の景色を高度2000m弱の空から楽しみ、着水して迎えのモーターボートに乗り換えればそこは目的地。その優雅さは想像するだけでも楽しい気分にさせられます。

 しかしその栄華は長く続きませんでした。日東航空などの中小エアラインは、収益性が低いローカル航空のため経営が不安定でした。加えて機材も中古機が多く、当時の地方空港は設備が不十分なこともあり事故が多発します。

 日東航空でも1963(昭和38)年に「オッター」が、1964(昭和39)年には「マラード」が相次いで墜落。いずれも多くの死傷者を出しています。特に「マラード」の事故は、海水で傷みやすい中古水上機の問題点が露呈したものでした。

 その結果、1964(昭和39)年、運輸省(現・国土交通省)の指導で日東航空は、北日本航空、富士航空の2社と合併し「日本国内航空」へと生まれ変わります。なお、同社はその後、東亜国内航空を経てJAS(日本エアシステム)に姿を変え、JALグループへ統合されました。

 日本国内航空が誕生すると、日東航空時代に購入した水上飛行機は経済性が悪く、加えて各地に空港が整備されたことで必要性も薄れたなどの理由から、1966(昭和41)年頃までに姿を消しました。

 冒頭の「せとうちSEAPLANES」以外にも、日本では国産のUS-2救難飛行艇を転用した旅客飛行艇による小笠原諸島 父島への航空路開設などで水上飛行機が時折、話題に上がります。60年前の人々が楽しんだ水上飛行機による優雅な海と空の旅。また楽しめる日が来るのを筆者(リタイ屋の梅:メカミリイラストレーター)は静かに願います。

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