43歳を迎えた成田空港 開港までの激動の歴史 当初計画は面積2倍、「成田」でもなかった

43歳を迎えた成田空港 開港までの激動の歴史 当初計画は面積2倍、「成田」でもなかった

成田空港を離陸する旅客機(乗りものニュース編集部撮影)。

1978年5月20日に「新東京国際空港」として開港した成田空港。この開港までの歴史には、さまざまな紆余曲折がありました。どのような経緯を辿ったのでしょうか。初便が到着するまでの歴史を見ていきます。

当初の計画は今の倍の広さだった…?

 今から43年前の1978(昭和53)年5月20日、現在の成田空港「新東京国際空港」が開港しました。同空港は開港までに、幾多の紆余曲折があったことは広く知られているところです。その歴史はどのようなものだったのでしょうか。

 新東京国際空港ができるまで、首都圏の空の玄関は羽田空港しかありませんでした。しかし1960年代、東京を中心とする国内、国際線の航空需要が大幅に増加の一途をたどっていたほか、旅客機もジェット化されるなど急速な進歩を遂げ、それまでより大きな機材が相次いで導入されるようになりました。また当時は、将来的に「コンコルド」のような超音速旅客機の出現も予想されていました。

 この状況で、既存の羽田空港を拡張し、それらの需要や革新的な機材を一手に引き受けるには問題点が多かったことから、羽田以外に新構想に基づく首都圏空港の設置を検討することとなりました。

 1962(昭和37)年には、運輸省(現在の国土交通省)において予算化し諸々の調査が開始され、翌年には運輸大臣から航空審議会に対し、「新東京国際空港の候補地およびその規模」に関して諮問され年内中に答申が出ます。この時点では成田地区は候補地に想定されておらず、千葉県の浦安市沖、富里市付近、茨城県の霞ケ浦周辺などが候補となっていました。

 浦安の場合は羽田と同じ東京湾の至近に位置するという問題点があり、霞ケ浦では湖面に滑走路を建設する際の建設費が懸念されることや、近隣の航空自衛隊百里飛行場との兼ね合いもあったことから、1964(昭和39)年からは、千葉県富里市に空港を設置するプランを中心に検討が進められました。

 初期案として構想された空港のレイアウトは、超音速旅客機の運航を前提とした4000m滑走路2本、これと平行する国内線用2500m滑走路2本、これら4本と垂直に交わる横風用3600m滑走路1本、計5本の滑走路をもつものでした。その敷地面積は2300ヘクタール。現在の成田空港の敷地面積は1137ヘクタール(2019年7月末時点で供用中の面積)ですので、計画時には、この倍の広さを持つ空港の建設が考えられていたということになります。

一転した空港計画 各所の準備も進められる

 ただ、富里市へ新空港建設の案が発表されると、地元から強力な反対運動がおこります。政府も当初は説得を試みたものの、1966(昭和41)年には空港予定地を、富里市に隣接し、成田市の三里塚を中心とする地区に変更することにしました。この土地は、県有地を含む皇室用財産である下総御料牧場を中心とするエリアであったことから、用地取得のハードルが下がると考えられていたためです。

 また、買収する民有地を少なくすることとし、空港の規模を当初案の半分ほどの1060ヘクタールに変更。平行に配置された主滑走路2本と横風用の1本を設置して、1971(昭和46)年の開港を目指しました。滑走路のレイアウトは3本で、まず最初に4000mのA滑走路を設置、その後、2500mの平行滑走路、3200mの横風用滑走路を設置し、1974(昭和49)年に全面運用できる計画でした。

 一方、空港予定地にあった御料牧場は、宮内庁などとの調整により、栃木県高根沢地区に建設中の新御料牧場との建築交換によって取得、さらに、敷地内の県有林については空港敷地外の下総御料牧場跡地と交換するなど、調整が進められます。

 こうして1970年頃から、三里塚で空港建設がスタートしました。都内から成田空港へのアクセスについても整備が進められ、新幹線の調査(1972年に認可されたが実現せず)や高速道路の新設も始まります。1971(昭和46)年には、反対派の一坪運動共有地などに関して、建設大臣による土地収用法に基づく代執行が行われ、その結果、第一期工事区域の98%が取得されました。

 また、空港の生命線と言われる航空燃料輸送のためのパイプラインも整備が進められ、当初は、千葉港頭から新東京国際空港まで、東関東自動車道の用地下を配管することになっていました。ただ、開港までに整備が難しかったことから、パイプライン整備完了まで暫定措置として、国鉄の専用タンク車を用いた燃料輸送の準備が進められました。ちなみに、この燃料暫定輸送基地は現在、大型ショッピング施設「イオンモール成田」になっています。

開港直前に起こった大事件 到着初便は?

 そして運輸省は、1977(昭和52)年11月15日、新東京国際空港の開港日を1978(昭和53)年3月30日とし、世界民間航空向けの開港通知や空港事務所の開設、東京湾岸道路の東京方面から幕張までの開通、航空燃料の備蓄など、開港に向けた最終準備を進めます。

 一方、空港反対を叫ぶ過激派の活動は、まさにピークを迎えつつありました。1978(昭和53)年3月26日には、管制塔の16階が反対派によって占拠される事件が発生。屋上に退避した管制官の映像が流されるなど、ショッキングな映像がメディアによって報じられました。この事件で一部の管制機器が破壊されたこともあり、改めて開港日を5月20日に設定。ただし、一層警備体制の強化が図られることとなりました。このときの名残りのひとつとして、同空港に立ち入る際に検問が実施されており、これは2015(平成27)年まで続きました。

 こうして新東京国際空港は1978(昭和53)年5月20日、ついに日本の空の表玄関として開港しましたが、この日は式典のみで、シップ(航空機)の発着は設定されていませんでした。

 21日に到着一番機が飛来。JAL(日本航空)の貨物機で、ダグラスDC-8-62F型で運航されたロサンゼルス発アンカレジ経由のJL47便でした。旅客機の一番機は、フランクフルト発モスクワ経由のJAL446便、こちらもDC-8でした。成田空港の出発一番機は、21日に大韓航空の貨物便で、旅客便の初便は翌22日、サイパン経由グアム行きのJAL947便と記録されています。

 ただ厳密にいうと、成田空港を使用した飛行機の一番機は、航空局の空港機能を確認するためのフライトチェッカー機であり、国産ターボプロップ機のYS−11が担当しています。また供用開始の前年となる、1977年8月7日には、「ジャンボジェット」ことボーイング747が、騒音調査のためのテスト飛行をしています。

 ちなみに、成田国際空港のA滑走路の南端にある航空科学博物館の隣接地に「成田空港 空と大地の歴史館」という施設があります。ここでは、成田空港の開設に関わる事柄を垣間見ることができます。

関連記事(外部サイト)