要塞作るの禁止→なら空母だ! 海戦を一変させた98年前のワシントン海軍軍縮条約

要塞作るの禁止→なら空母だ! 海戦を一変させた98年前のワシントン海軍軍縮条約

旧日本海軍の巡洋戦艦として設計されたものの、ワシントン海軍軍縮条約の発効によって空母に改装された「赤城」(画像:アメリカ海軍)。

11月11日はワシントン海軍軍縮条約の交渉が始まった日。1923年に発効した本条約は、米英日仏伊5か国がどの程度の海軍力を保持できるか決めたものですが、戦艦や空母の保有量の宣言とは別の禁止条項が存在しました。

どんな内容の条約なのか

 いまから、100年ほど前の1923(大正12)年11月11日、世界初の軍備制限条約が発効しました。その条約の名は「ワシントン海軍軍縮条約」。これにより、第1次世界大戦において戦勝主要国となった日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの5か国の海軍力に一定の足かせが加えられることになりました。

 たとえば、建造中の主力艦(戦艦と巡洋戦艦のこと)は全て廃艦となり、主力艦および航空母艦(空母)については、総保有量比率をイギリスとアメリカが5に対して、日本は3と定められました。この保有量は、のちに日本国内で議論になります。一方で、戦艦や巡洋艦の保有量に制限が加えられたことで、各国とも空母の整備を推し進めるようになり、その後の海戦を変える契機ともなったのです。

 空母については、それぞれイギリスとアメリカが13万5000トン、日本が8万1000トン、フランスとイタリアが6万トンの保有枠を得ました。個艦で認められる最大の排水量は2万7000トンですが、アメリカの要望により、2隻に限り3万3000トンまで認められることになりました。これは4万3500トンあったレキシントン級巡洋戦艦2隻を、空母に改装するためでした。

 日本は排水量4万1200トンの天城型巡洋戦艦を空母に改装し、2万6900トンと公表していました。しかし完成した「赤城」は3万2774トン、「天城」の関東大震災による損傷により、代わりに空母に改装された「加賀」は2万9500トンで、条約制限を大きく超過していました。

 当時は空母が出現したばかりで、その活用方法について各国とも模索中でした。また搭載する航空機の能力についても発展途上で、航空機による攻撃で主力艦を軒並み無力化できると考えられていなかったため、空母には大口径の主砲も搭載されていた時代でした。

 よってワシントン条約では、空母の性能制限について「搭載砲」に重きが置かれていたのです。搭載砲は巡洋艦と同じ20.3cm砲までとし、3万3000トン型は最大8門、2万7000トン型は最大10門までの搭載と線引きされていました。また、このように搭載砲の制限を設けないと、空母といいながら、事実上の戦艦を建造することも懸念されたのも理由のひとつでしだったと言えるでしょう。

要塞化禁止条項の意味

 実際、日本海軍は「赤城」「加賀」について、有事には主砲を14門まで増やせる設計としていました。これは、当時の空母は主力戦艦部隊よりも先行し、敵艦隊の動向を探る、いわゆる「偵察艦隊」の目としての役割を期待されていたからで、そうなると同様に先行してくるであろう敵の偵察艦隊と遭遇する可能性を顧慮してのことでした。

 艦載機の性能を考えると、主砲での砲撃戦でも海戦が十分に成立する時代でした。前出のアメリカ海軍のレキシントン級空母や、旧日本海軍の「赤城」などの大型空母は、戦艦に次いで砲撃力に秀でた巡洋艦などと十分に撃ち合うことが可能な、強力な砲撃力を持つ水上戦闘艦艇だったのです。

 さらに日本は、戦艦「陸奥」保有時の駆け引きで、対英米6割を飲む代わりに「要塞化禁止条項」を認めさせています。現状の要塞はそのままに、一部の重要施設の強化を禁止するこの条項を追記できたことは外交的成果であったと言えるでしょう。

 当時、航空機の能力がまだ低かった時代、要塞を無力化するには、海上からの徹底砲撃か、陸上からの攻略しかありません。日露戦争で日本が苦戦した旅順要塞の例などを考えても、充分に防備されて艦隊も常駐し、物資が大量備蓄された要塞は難攻不落な“障害”になりえます。

 この「要塞化禁止条項」の制限範囲に香港が含まれたイギリスは、シンガポールに要塞を新たに建設しています。シンガポール要塞は戦艦と同じ38.1cm砲を備えていました。その要塞砲は、のちに日本が建造する大和型戦艦の15.5m測距儀を遥かに上回る30.48m測距儀を備えており、これにより戦艦を上回る射撃精度を確保するなどしていたことから、シンガポール要塞は海上から難攻不落と言える性能でした。

建艦競争の対象が巡洋艦に移行する

 太平洋戦争の初戦でも、要塞化を禁止されていたフィリピンやグアムに、旧日本軍は上陸作戦を成功させています。フィリピンについては、アメリカはマニラ湾にあったコレヒドール要塞の強化を、ワシントン条約失効後の1936(昭和11)年から着手しています。ただ、この要塞は、旧日本陸軍が海峡を隔てた対岸に大型砲を設置したことや、要塞内部の物資不足などもあって、最終的には攻略しています。

 なお、ハワイに関してはワシントン条約で要塞化の禁止条項に含まれていなかったことから、戦前の旧日本海軍の見積もりにおいても「連合艦隊の全てを投じても攻略不能」と見なされるほど強固な防御力を有していました。

 ハワイは、攻撃側となる旧日本海軍から見て、陸上からの補給や、味方の基地航空隊による支援が見込めない立地です。日本列島から距離が離れすぎているために、日本の空母機動部隊は数日もハワイに止まれないのに対して、アメリカ側はアメリカ本土から大型爆撃機を増援できます。

 かつ、ハワイのオアフ島は、戦艦と比べて射撃精度では大きく上回る要塞砲を備えていました。そう考えると、旧日本海軍の「ハワイは攻略不能」という見積もりは正確であったと言えるでしょう。

 ただ、ワシントン海軍軍縮条約は、戦艦と空母にこそ制限を設けていたものの、巡洋艦には1隻辺りの排水量は1万トン以下、搭載砲の口径は127mm以上、203mm以下といった内容以外に制限がありませんでした。こうしたことから、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアは、建造制限がない巡洋艦や駆逐艦などの戦力充実を図るようになります。

 結果、この「条約型巡洋艦」の建艦競争が激しさを増したことで、巡洋艦以下を制限する新たな軍縮条約として「ロンドン海軍軍縮条約」が作られることになったのです。

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