戦艦「金剛」進水 in イギリス-1912.5.18 老艦ながら俊足活かし奮戦

戦艦「金剛」進水 in イギリス-1912.5.18 老艦ながら俊足活かし奮戦

1934年に撮影された「金剛」。第1次改修で戦艦になった(画像:アメリカ海軍)。

旧日本海軍の戦艦「金剛」が1912年の今日、イギリスで進水しました。竣工時は巡洋戦艦でしたが、2度の大規模改修を受け戦艦に生まれ変わると、数々の作戦に参加。主砲の射撃は一定の戦果を挙げました。

戦艦なのに旧国名でないワケ

 1912(明治45)年の5月18日は、旧日本海軍の戦艦「金剛」が進水した日です。進水式はイギリスで行われました。それもそのはず、「金剛」はイギリスで建造されたからです。日本は海軍を創設した明治以降、諸外国で建造された軍艦を輸入してきました。「金剛」はその最後の艦でもあります。

 翌1913(大正2)年8月、当時の世界トップレベルの造船技術を詰め込んで竣工した「金剛」は、巡洋戦艦の位置づけでした。旧海軍は「戦艦には旧国名を付ける」としてきましたが、戦艦のはずなのに旧国名でないのはこのため。大阪府と奈良県にまたがる金剛山にちなみます。「金剛」は南アフリカの喜望峰を回り、約3か月かけて横須賀へ到着しました。

「金剛」は基準排水量2万6000トンあまり、速力27.5ノット(約49km/h)、そして世界で初めて35.6cm砲を8門搭載していました。竣工の翌年に第1次世界大戦が勃発しますが、主戦場がヨーロッパだったため「金剛」は大きな戦闘には参加せず、本領を発揮するのは第2次世界大戦からになります。

 なお、戦間期に「金剛」は2度にわたる大規模改修を受けます。最大速力は30ノット(約55km/h)へ、航続距離も9800海里(約1万8000km)に引き上げられたほか、水中防御力の強化や対空火力の増設なども実施され、近代的な高速戦艦に生まれ変わりました。

レイテの本戦は耐えたものの…

 開戦直後1941(昭和16)年12月、「金剛」は南方へ進出。マレー沖海戦でイギリス艦隊と対峙した後、クリスマス島(イギリス領)への艦砲射撃などを行いました。その後、1942(昭和17)年4月のセイロン沖海戦、6月のミッドウェー海戦に参加し、さらに北方作戦の支援へと向かいます。

 10月にはガダルカナル島を巡る一連の戦いで、軽巡洋艦や駆逐艦を率いて同島にあるアメリカ軍のヘンダーソン飛行場を攻撃します。ただ、上述のミッドウェー海戦で旧日本海軍の空母機動部隊が大敗した影響などから、制海権は徐々にアメリカが握るようになっていきます。「金剛」はその後、南太平洋海戦などに参加したものの、大きな戦果を挙げることはありませんでした。

 1944(昭和19)年に入ると、6月のマリアナ沖海戦、10月にはレイテ沖海戦に参加します。ただ、幾多の戦闘に参加してきた「金剛」にとって、これが最後の海戦でした。

 25日朝、「金剛」は戦艦「大和」などと作戦行動中、フィリピン東部のサマール島沖でアメリカの護衛空母群と会敵、砲撃を加えます。特に「金剛」は俊足を生かし、アメリカ軍の駆逐艦が放った魚雷を回避しつつ空母群を追尾、集中砲火を浴びせました。この海戦で日本は、アメリカ軍の護衛空母1隻、駆逐艦2隻を撃沈しています。

 とはいえレイテ沖海戦を通して見た場合、日本は戦艦「武蔵」や空母「瑞鶴」など主力艦艇を多数失い、大敗を喫しました。そのようななか、損傷が比較的軽微だった「金剛」は日本本土への帰投が決定、11月にブルネイを出港します。しかしその途上で、アメリカ軍の潜水艦に発見されてしまいました。潜水艦は魚雷を発射、うち2本が「金剛」に命中します。

 艦齢30年あまり、そして歴戦を重ねた老体に、魚雷は致命傷となりました。しばらく航行は可能でしたが、艦内の浸水は徐々にひどくなっていきます。被雷から約2時間後、「金剛」はとうとう転覆、大爆発を起こし沈没しました。場所は台湾北西部の沖合でした。

 明治期に進水した老齢艦ながら、「金剛」は実に多くの海戦に参加しました。なお日本の戦艦では唯一、潜水艦の攻撃で沈んだ艦でもあります。

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