「敵に『本気か!?』と思わせた航空作戦」3選 戦艦撃沈 片道切符で爆撃 山上へ空挺降下

「敵に『本気か!?』と思わせた航空作戦」3選 戦艦撃沈 片道切符で爆撃 山上へ空挺降下

イギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」(画像:アメリカ海軍)。

後の世の人ならば結果を知っているのでなんとでも言えますが、当時は狂気の沙汰と思われても仕方ない作戦というのは古今東西、沢山あることでしょう。20世紀になるとその「本気か!?」と思わせる作戦に航空機も加わります。

「兵は詭道なり」と孫子も言ってますが…

 戦争ではまれに、思いもつかなかったような、それこそ相手に本気なのかと思わせるような作戦が実行され、成功した例が見られます。今回はそういった、相手に「本気か!?」と思わせた航空作戦を紹介します。

「航空機のみで戦艦を沈めようなんて本気か!?」日本軍マレー沖海戦

 1941年(昭和16)年12月10日に、マレー半島東方沖で発生したいわゆる「マレー沖海戦」で、日本海軍の攻撃を受けたイギリス東洋艦隊は当時、同国最新鋭戦艦だった「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を失います。この戦いが歴史上、“航行中”の戦艦が航空機に沈められた初めての戦いでした。

 この「航行中である」という点が重要で、停泊中の戦艦であれば、それ以前にも撃沈例はありました。1940(昭和15)年11月11日にイギリス海軍がイタリア海軍に対し行ったタラント空襲と、1941(昭和16)年12月8日に日本海軍がアメリカ海軍に対し行った真珠湾攻撃です。タラントでは戦艦1隻、真珠湾でも4隻、戦艦が航空機の攻撃で沈んでいますが、いずれも無防備な状態だったということで、マレー沖海戦までは「動いてさえいれば戦艦は沈むはずがない」という、一種の信仰のようなものがまだありました。

「戦艦」を過去の遺物へ押しやった歴史的瞬間

 特に「プリンス・オブ・ウェールズ」は、キング・ジョージ5世級戦艦の2番艦としてこの年の1月に就役したばかりの最新鋭艦で、装甲などの防御力の面では他国の戦艦から頭ひとつ抜けているといわれていました。そのため、航空戦力の護衛がなくともマレー方面で上陸支援などを行っている日本船団の攻撃は可能と判断し出撃します。

 戦艦2隻を中核とするイギリス艦隊に日本海軍は、急きょかき集めた九六式陸上攻撃機、一式陸上攻撃機からなる航空戦力のみで攻撃し、これを壊滅させることに成功します。戦艦2隻撃沈に対して日本側の3機が未帰還という、完勝といっていい戦いでした。

 当初は山本五十六連合艦隊司令長官ですら、運よく「レパルス」は沈められたとしても、「プリンス・オブ・ウェールズ」は大破が精一杯だろうと予想していたそうです。それもそのはず、開戦前での研究では、航空機は戦艦の防空砲火を受けながら戦った場合、参加兵力の6割の損耗は覚悟しなければ戦果が出ないという報告もあったそうで、当時の日本海軍陸攻隊の人たちはもちろんその報告も知っている状態で、それでも決死の覚悟で戦いを挑みました。

 この戦いを指揮し、終戦間際に最後の連合艦隊司令長官となった小沢治三郎中将(当時)は、「プリンス・オブ・ウェールズ」と運命を共にしたトーマス・フィリップス東洋艦隊司令官の死を悼み「いずれ我々にも同じ運命がくる」と発言したそうです。小沢中将自身はそうなりませんでしたが、航行中を航空機に撃沈された戦艦のリストには、日本海軍の最新鋭艦だった「大和」と「武蔵」が加わることになります。

「空母から片道切符で爆撃するなんて本気か!?」アメリカ軍ドーリットル空襲

 日本軍相手に太平洋の各地で劣勢が続くさなかの1942(昭和17)年4月18日に、アメリカ軍は日本本土に初めての空襲を行います。その方法は、空母を使用したものでしたが、積んでいる航空機が異例中の異例でした、なんと双発の爆撃機、B-25が計16機積まれていたのです。

 実は日本側は空襲前に警戒船の報告により、東京から700海里(約1300km)の地点で空母「ホーネット」と「エンタープライズ」が活動していることを知っていました。しかし、当時のアメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、本来ならば爆撃のためには空母を日本近海に寄せる必要がありました。まさかそれより航続距離の長い、陸上で運用する爆撃機を空母から飛ばしてくるとは思わず、攻撃があったとしても翌日だろうと楽観していました。被害に関しては、のちの本土空襲に比べれば軽微なものでしたが、それまで戦勝気分だった日本に大きな衝撃を与えます。

 なお、アメリカ軍はこのために、B-25を改造して燃料タンクの増設をすると同時に、2月下旬頃から搭乗員を選抜し、フロリダ州のエグリン飛行場で秘密裏に猛訓練を行っていました。また、日本ほどではないですが、決して仲がいいともいえない当時のアメリカ陸海軍が戦意高揚のためと、珍しく共同で行った作戦でもあります。なにがなんでも日本に精神的ダメージを与えようという、本気度が伝わる作戦といえますね。

「山岳地帯に降下作戦なんて本気か!?」ドイツ軍ムッソリーニ奪還作戦

 1943(昭和18)年7月25日にイタリア王国(当時)首相の座から失脚し逮捕、拘束されたベニート・ムッソリーニは、同国と連合軍の交渉がまとまるまでのあいだ、幽閉されイタリア各地を転々としていました。交渉がまとまり、連合軍がムッソリーニの身柄引き渡しを要求すると、イタリア側も従う姿勢を見せ、その間いかなる敵の侵入も許さないようにと、身柄はイタリア中部の山岳地グラン・サッソの標高2112メートルにあるホテルに移されます。

 ドイツ側にとってイタリア北部の実効支配を続けるためにも、担ぐ人物としてムッソリーニの存在は必要不可欠で、奪還を画策し、事前の諜報活動により同地のホテルにムッソリーニが幽閉されていることまでは突き止めていました。しかし、ホテルは稜線上の狭い場所に建っており、航空機での侵入は不可能でした。そこで、ドイツ空軍で空挺作戦を担当する降下猟兵を投入することを考えますが、パラシュート降下では、山の風と地形の影響で安全に降りることが困難と判断されます。

 最終的に武装親衛隊で救出作戦を任されたオットー・スコルツェニーと降下猟兵は、8機の軍用グライダーを使い、9月12日にホテルの目の前へ降下しました。ドイツ側が本気で空からの侵入で奪還を考えていると思わなかった守備部隊は全く抵抗できずに、ムッソリーニを奪われてしまいます。

 奪還後はホテルすぐそばに待機させていた、短距離でも離陸できる偵察機、Fi156を使って、ドイツまで逃げ切りました。なお、飛行機が使えない場合に備えて、付近のロープウェイも降下猟兵が占拠しており2段構えの作戦になっていました。

 世にいう「グラン・サッソ襲撃」のあらましです。

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