“江戸時代の思想家”安藤昌益が「日本のマルクス」と呼ばれた理由
2023年01月05日 17時30分日刊大衆

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のちに「日本のマルクス」と呼ばれる思想家が江戸時代にいた。
マルクスはドイツの社会主義思想家。彼の思想はマルクス主義と呼ばれ、一九世紀から二〇世紀の社会主義運動の基本理念となった。
彼が生まれたのは一八一八年。「日本のマルクス」はその本家本元より一〇〇年以上早い元禄一六年(1703)に生まれている。安藤昌益だ。
その著『自然真営道』には「上(支配階級)なければ下(被支配階級)を取る奢欲もなく、下なければ上に諂巧むことなし」とあり、高校の教科書には「すべての人が平等に農業(労働)に従事する社会を理想とした」などと解説されている。
当時の支配者である将軍や大名を否定する思想だった。
こんな逸話もある。明治の歴史家・狩野亨吉氏(詳細は後述)が全一〇〇巻に及ぶ『自然真営道』の稿本(草稿)を読んでいると、今でいう付箋紙のようなものが文字の上に貼りつけてあった。
そこに「聖人」と書いてあったので徳川家康のことだと分かったが、紙を剥がすと「奴輩」(人を卑しめる言葉)とあった。つまり昌益は、家康を奴輩並みだと批判していたのだ。
ところが、『自然真営道』の出版(三巻)に当たり、一大消費地である江戸の版元(出版社)が降りて部数が限定され、稿本に比べてまだまだおとなしい内容だったため、思想弾圧にまでは至らなかったようだ。
結果、医師でもあった彼の弟子たちがひっそりとその思想を受け継いだだけで、宝暦一二年(1762)に昌益が亡くなると、明治の半ばに「発見」されるまで、その名は歴史の表舞台に出ることなく、忘れ去られていた。
どの高校教科書にも登場する歴史上の人物が死後一〇〇年以上のちに、その名が「発見」される例は珍しい。
「発見」の過程や謎の生涯を追ってみよう――。
昌益という人物そのものの発見者となったのが狩野亨吉氏(前述)。『自然真営道』の稿本は日光街道千住宿(東京都足立区)の旧家に所蔵され、それが明治三二年(1899)、巡り巡って本郷(文京区)の古本屋から彼の元に持ち込まれたのだ。
しかし、当時はまだ封建制度が色濃く残る明治半ばのこと。当初、狩野氏はその過激な内容に驚き、当時の著名な学者に研究の資料として貸与したほどだったと、現在の昌益研究の第一人者、石渡博明氏の著書(『安藤昌益の世界』)に記されている。
しかし、日露戦争の渦中の明治三八年(1905)一月、ロシアで「血の日曜日事件」(首都サンクトペテルブルクで起きた労働者虐殺事件)が契機となって第一次ロシア革命が勃発すると、見方が変わったようだ。
社会主義運動が日本でも注目されたことで狩野氏が『自然真営道』に書かれた内容を思い出し、その著者にようやく興味を持って調べ始めたのだ。
狩野氏はやがて著者の「確龍堂良中」が安藤昌益という人物のペンネームだと突き止め、文章に東北地方の方言が色濃いこと、さらには八戸(青森県)に弟子が多いことなども分かってきた。
しかし、関東大震災(1923年)で『自然真営道』の多くが焼失。その後、写本された稿本(一部)の他、江戸時代に出版された刊本(前出)が見つかったものの、生没年も不明のまま戦後を迎えた。
かくして、安藤昌益という人物について一時、「狩野が軍国主義化の道を進む天皇制ファシズムに対する批判を江戸時代の人物に仮託して説いたもので、実在しない架空の人物ではないかという見方さえあった」(石渡著『安藤昌益-人と思想と千住宿』)とまで言われてしまう。
ところが、昭和二五年(1950)頃から基本史料が相次いで発見され、ようやく人物の概要が掴めてきた。
ここからは、以上の成果を基に、「発見」された安藤昌益という謎の人物の生涯を辿ってみよう。
昌益は出羽国秋田比内二井田村(秋田県大お お館だ て市)の百姓・安藤孫左衛門家(村役人を務める家柄)の次男に生まれた。
彼は次男という気安さから地元の温泉寺で学問を習い、京へ出て医師の味岡三伯について医学を学んだ。そして、経緯は不明ながら八戸で医師として開業する。
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