デヴィ夫人、幼き頃の苦労時代を語る 「定時制の学校へ通いながら生命保険会社と喫茶店で働いていた」

11月11日(木)、Click Holdings株式会社・代表取締役社? 半沢龍之介が編集長、ニッポン放送・前島花音アナウンサーが副編集長を務めるラジオ番組「ラジオマガジン・登龍門」(ニッポン放送制作)が放送。デヴィ夫人が出演し、バラエティ番組で活躍する夫人が若かりし頃にしていた努力について語った。なお、この日の放送はニッポン放送ではプロ野球中継のため休止、ネット局のみの放送となった。

デヴィ・スカルノ

毎週様々な分野で活躍するゲストを迎えて、ここでしか聴けない人生の登龍門について訊く「ラジオマガジン・登龍門」。今回はデヴィ夫人がゲストとして出演し、幼き頃の苦労時代からスカルノ元大統領との出会いについて語った。

ニッポン放送・前島花音アナウンサー/Click Holdings株式会社・代表取締役社? 半沢龍之介

クラスメイトの母親に学費を借りていた小学生時代

夫人:中学生の頃、就職か進学を決めなければいけなかったのですが、ある日私が帰宅するとクラスの女子生徒のお母さんがいました。 障子を挟んで聞き耳を立てていると母が私の学費を払えなくてお母さんからお金を借りていたことがわかったんです。 しかも借金が返せなくて催促されていました。

私はそれを聞いて「母親をそんな目に合わせてまで進学しなくてもいいわ」と思ったんです。 私は働きながら学校へ行って自分のしたいことをすると決意して、定時制の学校へ通いながら昼間は生命保険会社で働いていました。

半沢:苦労されたんですね。

夫人:大学生のお給料が1万円の時代、給料が6000円でした。 1時間のお昼休みも近くの喫茶店で働いて、土日も銀座の喫茶店でアルバイト。 それだけでは日舞や草月流のお花を習うことができなかったんです。

英語も勉強していました。 なぜなら当時、私の自宅の裏が近衛歩兵第三連隊の兵舎だったんです。私が疎開から帰ってくると門の両側にMPがたくさん立っていて。 外国人をたくさん見て育つ中で彼らが話す英語に憧れて独学で学びました。

半沢:そろばんもお上手でしたし。

夫人:そうそう(笑)そろばんは2級、暗算は3級でした。就職するのにそろばんは必須条件でしたから。

赤坂のクラブ コパカバーナで働きながら英語を学ぶ

夫人:私の自宅の近くに国際人クラブというものがありました。当時はホテルオークラなどはありませんでしたから、日本に長期滞在する方は国際人クラブに滞在していたんですね。 私はそこで外国人と積極的に知り合っていたところフィリピンの女性歌手チキータと知り合いになり、彼女の紹介で赤坂のクラブでアルバイトをするようになりました。

半沢:コパカバーナですね。

夫人:収入がどっと増えて、母と弟を養うことができましたし、習い事もできました。

半沢:コパカバーナのプリンセスだったんですよね。

夫人:テレビの再現ドラマで、今の銀座のクラブのような雰囲気の場所が出てきますけど、実際は全員イス。ソファのようなものはないです。 外国人のお客様が98%で残りが日本人のお客様。 私はそこに週2〜3働くことで英語もマナーも学べるし、国際的な方にもお会いすることができました。

半沢:大変ですよね。

夫人:銀座のクラブだと男性がタバコを手に持つと女性がライターで火を付ける感じですけど、そこは逆で。女性がタバコを手に持つとお客様が火を付けてくれました。

半沢:ジェントルマンだったんですね。

文通で育んだスカルノ元大統領の恋

半沢:スカルノ元大統領とお会いした時は映画を見に行く時だったとか。

夫人:お友達と映画館へ行くため帝国ホテルで待ち合わせをしていました。 そこに大統領御一行が現れたんです。

半沢:そこで初めて出会ったんですね。

夫人:大統領にお会いしてから6ヶ月文通が続いて。運がよかったのは、英語が話せたこと。 当時英会話ができたのは外交官か商社マンくらいで。 コミュニケーションは非常に大切で英語が話せたことが役に立ったのかなと思いますね。

半沢:文通というのはロマンチックですよね。

夫人:500通くらい今でも持っています。

前島:すてきだな〜

夫人:9月に2週間の予定で招かれてフィリピンに行ったところ、それが永久になってしまったわけですけど。 「私のインスピレーションとなって私の力の源泉となり、私の人生の喜びとなってください」とプロポーズされました。

前島:人生に一度くらいは言われたいです!

スカルノ元大統領からのプロポーズの言葉に、デヴィ夫人は「これは神様の天啓だと思い、お尽くししようと心に誓った」と当時を振り返って語った。

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