上野の“西郷隆盛像”が建てられた理由は? 激動の49年の人生を辿る

東京の魅力を再発見するTOKYO MX(地上波9ch)の情報生番組「週末ハッピーライフ!お江戸に恋して」(毎週土曜11:00〜)。12月15日(土)放送の「朝比奈彩の進め!江戸小町」のコーナーでは、“幕末スペシャル”と題し、都内に残る西郷隆盛ゆかりの地を巡りました。

1828(文政11)年に薩摩藩(鹿児島県)の下級武士の家に生まれた西郷隆盛。同郷の大久保利通らとともに薩長同盟を成立させたり、戊辰戦争を主導したりするなど、幕末の混乱のなかで活躍した歴史的人物です。

2018年は、西郷隆盛と勝海舟の会談で実現した「江戸無血開城」からちょうど150年。改めて、西郷隆盛の激動の人生を振り返ってみましょう。


◆西郷隆盛が滝行をした寺院

下級武士の家に生まれ、身分が低かった西郷隆盛。しかし、薩摩藩11代藩主・島津斉彬によって異例の抜擢を受け、江戸へ出府しました。

当時、島津斉彬には不幸が続いていました。西郷隆盛は、恩人である斉彬の無事を祈願するために「瀧泉寺(目黒不動尊)」を訪れ、この寺院の境内にある「独鈷(とっこ)の瀧」で滝行を行いました。ここは当時、祈願成就のための滝行で知られていたのです。


島津斉彬の死後、西郷隆盛は薩摩藩の権力者となった彼の弟・久光と対立します。久光の怒りを買い、島流しにあうなど不遇の時期を過ごしましたが、大久保利通らの助けで表舞台に戻り、西郷隆盛はリーダーとしての才能を開花させていきました。

◆「日本を守った」2年間

続いて向かったのは、人形町駅近くにある「西郷隆盛屋敷跡」です。西郷隆盛は、明治新政府の要請で上京し、ここに屋敷を構えていました。現在は、中央区立日本橋小学校・幼稚園が建っています。


1871(明治4)年10月、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら岩倉使節団は米欧へ視察に出向きました。その留守を守るための“留守政府”にて、西郷隆盛は参議に就任。数々の重要政策を実現していきました。

西郷隆盛がここに住んでいたのはわずか2年ほど。その後は、鎖国をしていた朝鮮に「開国を働きかけるべき」と征韓論を主張する西郷隆盛と、「今は国内のことを優先にすべき」と断固拒否する大久保利通らで、意見が真っ二つに分かれてしまいます。その結果、西郷隆盛を含め、官僚などおよそ600人が明治政府を辞職。この出来事は「明治六年政変」と呼ばれています。

◆西郷隆盛の汚名を解いた盟友

最後は、古くから景勝地として知られる「洗足池」へ。ここには、大田区指定文化財となっている勝海舟夫妻の墓があります。そして、その隣には「西郷隆盛留魂詩碑」が。これは、勝海舟が、盟友・西郷隆盛の死を悼み自費で建てたものです。


「明治六年政変」後の日本は、大久保利通を中心とした政権が確立し、近代化が加速していきました。そして、軍人や警察官以外の帯刀を禁止する「廃刀令」、封建的秩禄制度を廃止する「秩禄処分」などの政策が敷かれたことで、当時武士だった者たちは時代から取り残されていきます。

一方、鹿児島に戻った西郷隆盛は武士たちを教育するための私学校を設立。反政府的な動きは自重していたものの、政府と士族の緊張関係のなかで、反政府運動の先頭に推し挙げられました。


こうして1877(明治10)年、西郷隆盛は反政府士族らを率いて東京へ向かうことを決意。大久保利通が主導する政府軍と激突し、国内最後の内乱「西南戦争」が勃発しました。

激闘の末、1877(明治10)年9月、鹿児島・城山にて薩摩軍は政府軍に包囲されます。最後の抵抗を見せた薩摩軍でしたが、西郷隆盛は被弾。「もう、ここらでよか」と呟き、仲間の介錯により亡くなったと言われています。49年の激動の人生は、こうして幕を閉じたのです。


その後、西南戦争の指揮官だった西郷隆盛は、政府に弓をひいた存在として逆賊扱いをされていました。しかし、勝海舟などの尽力により名誉を挽回。これをきっかけに上野公園にある西郷隆盛像の建設計画が始まりました。そして1989(明治31)年、全国2万5,000人以上の寄付金などにより、像の建立が実現したのです。


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<番組概要>
番組名:週末ハッピーライフ!お江戸に恋して
放送日時:毎週土曜 11:00〜11:55
レギュラー:朝比奈彩、松尾雄治、堀口茉純、田中雅美
番組Webサイト:http://s.mxtv.jp/variety/edokoi/
番組Twitter:@edokoi9ch