『日本国紀』だけじゃない! 書店にはびこる「エセ歴史本」に惑わされないために

『日本国紀』だけじゃない! 書店にはびこる「エセ歴史本」に惑わされないために

hiro-ks / PIXTA(ピクスタ)

◆書店に山積みされる「エセ歴史本」

 皆さんは、「エセ歴史本」と言われてすぐにその実態を思い浮かべることができるだろうか。歴史を専門に研究されている方なら造作もないだろうが、ある程度専門的に歴史学を学んだ人でなければ、それは難しいかもしれない。

 なぜなら、皆さんは知らず知らずのうちに「エセ歴史本」を読んでいるからだ。実際、昨今「歴史本」と呼ばれるジャンルでベストセラーになっている書籍を見てみると、驚くほどいい加減な内容であることは珍しくない。長年の歴史研究によって解き明かされてきた学問的成果を一切踏まえず、独りよがりな「真実」や「新解釈」をアピールする。こうした書籍は、もはや歴史学という学問に対する冒とく以外の何物でもない。

 そして、言うまでもなく、こうした書籍が世に送り出され、あまつさえベストセラーになっている現状は看過できるものではない。とはいえ、恐らく今後も「エセ歴史本」の出版が絶たれることはないだろう。理由はシンプルで「売れるから」だ。

 出版社にもこうした書籍を出さない矜持を持ってほしいものだが、出版不況の昨今に売り上げの見込めるテーマを手放すとは考えづらい。となれば、出版社側に働きかけるよりもそうした本を手に取ってしまう「読者」に警鐘を鳴らすべきだと考えた。

 以下では、一見すると斬新で面白い「エセ歴史本」の特徴や、これらのデタラメな歴史本と誠実で学術的プロセスを経た歴史本を見分ける方法などを解説していきたい。

◆「斬新で面白いデタラメ」というやっかいさ

 さて、「エセ歴史本」の問題点が「内容がデタラメであること」なのは分かりやすいだろう。しかし、「エセ歴史本」がもつ非常にやっかいな部分は「一見すると内容が斬新で、かつ本として面白い」という点だと考える。

 具体例を挙げよう。昭和の時代に歴史小説家として活躍した八切止夫という人物がいる。彼は小説家でありながら一方で歴史家としても活動しており、「八切史観」と呼ばれる独自の歴史観を展開していた。

 その中で、まさに本記事で取り上げているような「エセ歴史本」の分かりやすい著作として、彼の書く『八切意外史』というシリーズものがある。彼はその中で「上杉謙信は女性だった」、「織田信長を殺したのは明智光秀ではない」など、これまでの通説を大きく覆すような主張を繰り返している。まさに「意外史」というべき内容だ。

 加えて、八切は内容がさも歴史研究の成果であるかのように論拠を提示している。例えば、「上杉謙信女性説」に関して、彼は「スペインで発見された文書に『上杉景勝の叔母(謙信のこと)』という文字を見つけた」「謙信の死因は大虫であり、これは月経の隠語だった」「当時民衆の間で流行していた詩に、謙信が女性であったことを裏付ける歌詞がある」などの点を論拠とした。

 しかしながら、これらの論拠は「本物」の歴史家によってすべて否定されている。そもそも、上杉謙信を女性だと主張するなら、それを証明する有力かつ客観的な証拠がなければならない。が、八切の主張を支える論拠は客観的に証明することが困難なものばかりであり、当然ながら昨今の歴史学会では相手にされていない。

 ところが、「あの上杉謙信が女性」というセンセーショナルな響きと、小説家らしい説得力と起伏のある文章で彼の説は広まっていったという歴史がある。もし、彼の発想に意外性がなく、かつ文章が全く面白くなければ、これほど有名になることはなかっただろう。

 また、『八切意外史』ほどの“トンデモ”ではないが、小説家の百田尚樹氏が描き、ベストセラーにもなった『日本国紀』もエセ歴史本と呼べるかもしれない。すでに各種報道でも「Wikipedia」などで得たネット上の不正確な情報を転用・参照していた可能性が指摘されているほか、ベストセラー『応仁の乱』の著者であり、日本中世史を専門とする歴史家・呉座勇一氏もたびたび同書の内容を批判している。記事の構成上簡単に批判の論点を要約すると、「他人の説を参照している部分を明示しない上、歴史観が古い」というのが主張であり、指摘の内容は全面的に同意できるものだ。

 それでも、最新の学説を反映した歴史本より『日本国紀』が売れてしまうのが今の歴史本業界であり、学術的営みを経て解明された研究成果が一般人のもとへ届いていないというのが実情である。

◆どうしたらエセ歴史本を読まずに済むのか

 八切の例は「エセ歴史本」の問題を指摘するために取り上げたものだが、昨今発売される書籍にこのレベルでデタラメなものは流石に少ない。『日本国紀』も八切史観に比べれば随分と穏当な内容になっていると感じられる。しかし、実態としては八切が世に送り出した「エセ歴史本」と現代のそれは構図が似通っており、この本を反面教師として回避することはできるだろう。

 八切と現代の「エセ歴史本」に共通するのは、歴史の専門家ではない一般の人たちが惹かれるような「強いメッセージ」が込められていることだ。例えば、八切は「意外」という言葉を使い、「あなたたちが知っていることは間違っているんですよ」と暗に揺さぶりをかけている。すると、私たちはどうしても「えっ、一体どういうことなんだろう」と気になり、本を手に取ってしまう。そうなれば最後、彼の文才に魅了されてすっかり信じ込んでしまうという構図だ。

 この手法は、現代でも非常によく用いられている。例えば「教科書は教えてくれない〇〇」や「誰も知らない〇〇」、「ウソだらけの〇〇」といったタイトルをつけ、読者を引き込むのは常套手段だ。

 つまり、私たちが歴史本を手に取る際には「不必要に強いことばを使っていないか」ということを一種の判断基準にしてもいいかもしれない。また、誠実な歴史研究の成果として出てくる説というのは得てして地味なものなので、上記の「上杉謙信女性説」のように「内容があまりに斬新すぎやしないか」という視点を持つのも有効だ。もちろん、これらの条件に当てはまっても信頼できる歴史本があってもおかしくはない。

 他にも、「先行研究などをしっかり踏まえているか」「参考資料のリストや註などは充実しているか」「信頼できる版元か(大手だから良いというわけではない)」といったあたりに気を配っていくと、エセ歴史本を手に取ることはなくなるかもしれない。

 しかし、一方で一般読者がよく勘違いするのは「大学教授や偉人の子孫、あるいは当事者の書く本だから信頼できる」というように、著者の「肩書」で本を選べばいいのだ、ということだ。結論から言えば、この方法は必ずしも推奨できない。

 なぜなら、上記の肩書を悪用して「エセ歴史本」を仕上げる著者もいるからだ。大学教授の書く本とあれば、一定の権威性を帯びる。それを悪用するのは非常に簡単だ。また、偉人の子孫や事件の当事者は、自分の書く本によってセルフプロデュースを図る例が少なくない。つまり、意図的に歴史の事実を自分に都合よく発信することで、何らかの利益を得ようとするのだ。彼らはある意味で一番の当事者であり、客観性をもつことが困難なのである。

◆面白おかしい発想は「歴史創作」で表現してくれ

 ここまでの書きぶりから、筆者が「エセ歴史本」に対して強い敵意を燃やしていることは推察できるだろう。しかし、筆者はなにも「歴史を面白おかしく語ること」を否定しているわけではないことを伝えておきたい。

 「エセ歴史本」最大の問題点は、さも学術的プロセスを経て導き出された歴史の真実が書かれているかのように擬態することだ。また、これは考えすぎかもしれないが、個人的には著者の「読者はこうやって書いておけば喜ぶんだろ」という見下した考えが見え隠れするように思えてならない。歴史の学説を歪め、読者を馬鹿にしたような執筆態度が鼻につくのだ。

 では、もし仮に「斬新で面白いがデタラメな歴史の解釈を思いついた」という場合、どのような形で世に発信するべきなのか。その答えは単純で、先ほど触れた八切の本職である歴史小説のように、フィクションの世界に落とし込めばよいのだ。作品自体がフィクションであることを表明していれば、織田信長を討ったのが徳川家康でも、上杉謙信が女性でも全く問題はない。なぜならそれは「歴史創作」であり、「歴史研究」ではないからだ。

 もっとも、「エセ歴史本」の著者たちは、歴史創作では満たされなくなり歴史研究に手を出す例も少なくない。その営み自体に全く問題はないのだが、歴史研究の世界に足を踏み入れた以上、ぜひとも研究者としてふさわしい学問的な誠実さをもって著作に励んでほしいものだ。

<文/齊藤颯人>

【齊藤颯人】

上智大学出身の新卒フリーライター・サイト運営者。専攻の歴史系記事を中心に、スポーツ・旅・若手フリーランス論などの分野で執筆中。Twitter:@tojin_0115

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