1971年夏の甲子園決勝で惜敗した磐城高校がモデル。野球マンガ『ドカベン』に見る炭鉱町の野球熱。
2020年11月24日 18時32分 ハーバー・ビジネス・オンライン

戦後の野球マンガの代表作『ドカベン』
◆単行本の累計発行部数4800万部。戦後の野球マンガの代表作
戦後の野球マンガの代表作として『ドカベン』(秋田書店)を挙げる人は多いに違いありません。水島新司が描いたこの作品は、1972年から1981年まで『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に連載されました。
単行本の累計発行部数は4800万部を記録しています。またその後『大甲子園』『ドカベンプロ野球編』『ドカベンスーパースターズ編』『ドカベンドリームトーナメント編』と続き、2018年6月をもってシリーズは完結。延べ46年に及ぶ連載が終了しました。
『ドカベン』は神奈川県の明訓高校野球部に所属する主人公の「ドカベン」山田太郎と、同級生でチームメイトの里中智、岩鬼正美、殿間一人、微笑三太郎など、そしてライバル校の選手たちの高校野球での活躍を描いています。
山田のいた時代の明訓高校は5季連続で甲子園出場。うち4度の全国制覇を成し遂げます。ただ連載初期は、中学時代の山田、岩鬼、そして山田の妹のサチ子が軸になった柔道マンガでした。途中で山田は柔道部から野球部に移籍しています。
◆『ドカベン』神奈川県大会での聖地「ドカベンスタジアム」
明訓高校の校名の由来は、水島新司の故郷・新潟にある新潟明訓高校であることはよく知られています。作中では、新潟明訓とは姉妹校という設定がなされています。しかし作中の明訓高校は神奈川にある架空の私立高校です。
神奈川県では、現在は県大会の主会場は通称「ハマスタ」と呼ばれる横浜スタジアムですが、それができるまでは保土ヶ谷球場が主会場でした。『ドカベン』では明訓高校はライバルたち、不知火や雲竜、土門らとこの保土ヶ谷球場を舞台に競い合います。明訓高校は1、2年時、3年春の決勝を保土ヶ谷球場で、3年最後の夏の決勝は「ハマスタ」で行いました。
同じ県大会予選で使用される球場のひとつに、大和スタジアムがあります。ここは「ドカベンスタジアム」の愛称がついていて、球場改修時に大和市が水島新司に打診して球場入り口に山田太郎と里中智のブロンズ像が建てられたことに由来します。明訓高校が神奈川県にあるという設定なので、大和スタジアムの聖地化には必然性があります。
そのほかの『ドカベン』の聖地としては、水島新司の生まれ故郷である新潟市の古町地区のアーケード街。ここに設置されているブロンズ像は一時期、撤去の話も浮上していましたが、存続されているようです。アーケードは正式には「水島新司まんがストリート」といい、全7体のブロンズ像のうち4体が『ドカベン』の登場人物になります。
◆いわき東高校のモデルは、1971年夏の甲子園決勝で惜敗した磐城高校
そして初期の『ドカベン』でもっとも印象深かったのは、山田太郎が高校1年時に全国高校野球選手権の決勝で戦った「いわき東高校」です。超高校級のフォークボールを投げる緒方勉を擁し、明訓高校を苦しめます。彼は病気で倒れた出稼ぎの父親の代わりに福島県いわきから出向き、働きながら神奈川県大会予選を観戦するキャラクター「出かせぎくん」として登場します。
地元の炭鉱の閉山が決まり、卒業後はチームメイトと離れ離れになる定めを背負い、彼はいわきに戻って県大会を完全試合で制し、甲子園出場を決めます。甲子園では決勝までの全4試合を完封、決勝の明訓戦でも8回まで得点を許さず44イニング連続無失点を記録。しかし、9回表に岩鬼に逆転2ランとなるスコアボード越えの場外ホームランを浴びてしまいます。
このいわき東高校のモデルは磐城高校だといわれています。進学校としても知られるこの県立高校は、1971年夏の全国高校野球選手権でやはり「小さな大投手」といわれた165pの田村隆寿を擁して決勝まで勝ち上がり、神奈川の桐蔭学園高校に0対1で惜敗します。
田村は全試合を1人で投げ抜き、初戦から連続完封。決勝戦の桐蔭学園高校との試合で0-0から7回裏に34イニング目での初失点を喫しました。1失点だけの準優勝投手は、未だに長い歴史を誇る全国高校野球選手権の歴史のなかでも彼しかいません。
◆産炭地の野球熱が、当時の高校野球を盛り上げていた
ちょうど、いわき地域の炭鉱の核になっていた常磐炭鉱が閉山を決めたのが、くしくも同じ年の1971年でした。準優勝に終わったチームのパレードを、地元の人たちは大きな歓声で迎えたといいます。すべての炭鉱が集結するのが1984年でしたが、中核になっていた常磐炭鉱の閉山は、街全体に将来への不安を掻き立てていました。
振り返るに、炭鉱全盛期には炭鉱企業が福利厚生としてスポーツに力を入れたことから、産炭地は野球熱を帯びていきました。炭鉱企業の社会人野球チームがいくつもでき、都市対抗野球でも存在感を放っていました。そして、そこからプロ野球の世界に羽ばたいていった選手も数多くいました。
1965年夏の大会で優勝した三池工業(福岡県)もその流れの一つでした。当時の高校野球は、その炭鉱の熱気に支えられていたとみることができます。
「炭鉱企業と地域の高校野球との紐帯は太かった」というと、現在からは想像することが難しいかもしれません。炭都において炭鉱企業は地域でいちばんの企業であり、社員の子息たちも近隣の学校に通うことになり、野球が好きであれば地元高校に進学して野球部に入るというのが一般的でした。現代とは違って、そこには明確に生活共同体としてのコミュニティがあったに違いありません。いわきの炭鉱も同様でした。
磐城高校はかつての男子校から今は共学校になりました。2020年の選抜高校野球大会に21世紀枠で出場予定でしたが、新型コロナの影響で同大会が中止になってしまいました。代替大会として8月に開催された高校野球交流試合では、国士館高校と対戦して3対4で惜敗しました。
高校野球があって『ドカベン』があり、『ドカベン』があって高校野球があった、それが昭和から平成の時代だったのです。
<文・写真/増淵敏之>
【増淵敏之】
法政大学大学院政策創造研究科教授。専門は文化地理学、経済地理学。著書に『ローカルコンテンツと地域再生』(水曜社)、『湘南の誕生』(リットーミュージック)、『伝説の「サロン」はいかにして生まれたのか』(イースト・プレス)など多数。