終わらない原発問題。元作業員の目を通して福島の今を描く『BOLT』 林海象監督インタビュー

終わらない原発問題。元作業員の目を通して福島の今を描く『BOLT』 林海象監督インタビュー

Photo by JUMPEI TAINAKA

 福島第一原子力発電所の事故をモチーフにした、永瀬正敏さん演ずる一人の男が主人公の三部作、林海象監督作品『BOLT』が全国で公開中です。

 

 大地震の発生によって漏れ始めた冷却水を止めるために、上長(声・佐藤浩市)の命令に従って、圧力制御タンクの配管のボルトを締めに向かう6人の男たち(永瀬正敏、佐野史郎、金山一彦、後藤ひろひと、吉村界人、佐々木詩音)を描いた『BOLT』。

 事故後、避難指定地区に住み続けた老人の遺品回収に向かった男たち(永瀬正敏、大西信満)の物語『LIFE』、そして、クリスマスの夜に忽然と現れた女性(月船さらら)との一夜を綴った『GOOD YEAR』。地震によって人生の変節を経験した男の3つの物語。

 今回は新作映画の公開が7年振りになる林海象監督に、物語の着想や映画製作の経緯、そして同時に公開されているデビュー作のデジタルリマスター版『夢みるように眠りたい』などについてお話を聞きました。

◆周囲の助言で3部作に

――『BOLT』は3部構成になっています。

林:3部作にしたかったというよりはなってしまったんですね。というのも、当時映画学科の教授として赴任している東北芸術工科大学から「いいカメラを買ったので何か撮って欲しい」という要望があったんです。それで、せっかくだから一夜限りの大人のファンタジーを撮ろうと思って作ったのが『GOOD YEAR』でした。

 震災が起きた日は結婚記念日でお腹に子どもがいた妻は家にいたという設定です。津波が来てそのまま流されて妻は亡くなってしまいましたが、クリスマスの日に違う人になって一度だけ残された夫の元に会いに来たんですね。

 『GOOD YEAR』を作ったのは2015年のことでしたが、その頃は3部作にしようとは思っていませんでした。『BOLT』は構想だけはありましたが、原子力発電所のセットを再現するのは大変なので、その時は映画を作るのは無理だと思っていたんです。この作品は海外のいろんな映画祭に出品して、スウェーデンのベステルオース映画祭では最優秀撮影賞ももらいました。

――3部作になったのはどのような経緯があったのでしょうか。

林:『GOOD YEAR』を撮っている時に永瀬正敏さんから「もう一本撮ったら」とアドバイスがあったんです。永瀬さんとは私立探偵濱マイクシリーズ以降、いろんな現場をご一緒していつも「こんな映画、あんな映画を撮りたい」という話をしていますが、今回もその延長のような感じでした。

 『GOOD YEAR』は車の修理工場で暮らす男の話ですが元は原発作業員という設定です。それならばその前に彼が経験した世界を描こうと。それで撮ったのが原子力発電所から20km圏内に暮らしていた元原発作業員の独居老人宅の遺品回収を描いた『LIFE』です。

 そして、その時にたまたま『BOLT』の構想を話していた現代美術家のヤノベケンジさんが高松市美術館の作品展で福島第一原子力発電所を模した巨大セットや防護服も作るので「撮りに来たら」と言ってくれたんです。それで『BOLT』の製作も動き出しました。

――東日本大震災、特に福島の原子力発電所の事故に焦点を当てて個人の物語を描いていると受け取りました。

林:三部作の男は、一人の男にも見えるし、それぞれの物語の男にも見えるということを最初は想定していました。ところが、作ってみると、同じ一人の男に見えたんですね。作品の並びについては何回も並べ替えてみたのですが、不思議と撮った順番とは逆になりましたね。そうして三部作『BOLT』『LIFE』『GOOD YEAR』が出来上がりました。

――来年の3月で東日本大震災から10年が経ちますね。

林:今のタイミングで公開するのは震災から10年を意識したのではなく、単純に時間が掛かったからなんです。市民有志のサポートによって始まって、クラウドファンディングもしたのですが、途中で資金が尽きてしまいました。そこから仕上げ作業を手掛けるレスパスビジョンの協力は借りましたが、自主映画になったこともあって、時間をかけて納得いく作品を作り上げたのが昨年でしたね。

◆ガイガーカウンターで感じた恐怖

――作品の随所でガイガーカウンターが鳴っていますね。

林:あのガイガーカウンターは僕の私物なんです。2014年から赴任している東北芸術工科大学のある山形に行く時に買ったのですが、その時の数値は震災前と比べて高いものの、アラートが動くことはありませんでした。ところが、原発から20km圏内に入って『LIFE』の屋外の風景を撮影した時に動き出したんです。

 その時にものすごい恐怖を感じました。全く動かないと思っていたのに、メーターをほとんど振り切る勢いでガイガーカウンターが反応して、真っ赤になって「危険」と表示が出た。『LIFE』の撮影では、南相馬市、双葉町、浪江町と行きましたが、ガイガーカウンターが鳴りっぱなしで車の中から怖くて出れませんでした。それぐらいに凄い量の放射能が出ていたんです。福島では今でもガイガーカウンターがあるので、劇中にも登場させました。

――『BOLT』では、事故当時の原子力発電所内部の様子が描かれています。元作業員の方が内部の現状を撮影した写真展を見たことに物語の着想を得たとのことでした。

林:京都で写真展を見たのは原発から1年ぐらい経った時のことでした。宣伝もしておらず、ギャラリーの一角で2日ぐらいしかしていない小さなものでしたが、撮影された方がいたので話を聞きました。

 そのことがきっかけで、事故当時の内部の様子を描きたいと思ったのですが、原発の内部構造を知るために物凄い量の資料を読みました。2014年ぐらいから脚本を書き始めましたが、市販の本やネット上の記事や原発関係者の人たち、運動家の人たちに聞いた話を参考にしました。

◆とにかく今止めてほしい

――作業時の緊迫した様子が伝わってきました。

林:設計図を読んでいたので、大体の構造はわかっていました。タービン建屋の中に300メートルの松の廊下と呼ばれる長い廊下があるんです。そこを歩いて緩んだ配管のボルトを締めに行ったのは実話です。そのイメージで永瀬(正敏)さんと佐野(史郎)さんのやり取りを書きました。

 ボルトを締めに行った男たちの話なのでタイトルは『BOLT』です。この映画を作ったおかげで原子力発電所には詳しくなりました。それをふまえて思うことは、事故の責任の所在も大切なことかもしれませんが、何よりも問題なのが、今、原子力発電所が止まっていないことだと思います。もちろん、事故のあった福島第一原子力発電所の放射能の流出も止まっていません。

 小さな子どもたちがたくさんいるのに、未だに福島第一原子力発電所からは放射性物質が出続け、多くの放射性物質を含んだ処理水が敷地内に蓄積されています。しかも、スペースがないことから海洋放出も検討されている。

 先日は宮城県沖で9本足のタコが出て来たというニュースが流れましたが、これから先どんな被害が出て来るかはわかりません。しかも、また地震が来て事故が起こる可能性がゼロではない。そうなったらどうなるのか。

 とにかく「今、稼働している原子力発電所と既に漏れている放射能を止めろ」ということです。それを脱原発エンターテイメントとして描いたのがこの作品です。

 問題の風化は避けなければなりません。音楽を担当したのは福島在住の友人ですが「福島にとっては原発が題材になり続けることに意味がある」とも言われました。

◆学生をスタッフに

――スタッフは東北芸術工科大学の学生さんたちとのことでした。

林:京都造形芸術大学(現京都芸術大学)にいた頃、学生と一緒に『弥勒 MIROKU』(‘13)という作品を撮ったのですが、その時と同じやり方で東北芸術工科大学で撮りました。各パートを細かく分けて、学生を助手ではなく、全員メインスタッフにしたんです。学生たちもとても活き活きと映画を撮りましたね。

――EPISPDE2『LIFE』の中で「どうやって生きていきます?」と問いかけられて「生きていくしかない」と答えた主人公の姿が印象的でした。

林:2012年のことでしたが、当時の教え子の実家が三陸にあって、帰省した時に現地の映像を撮ってきました。地震で行方不明になってしまった自分のおばあちゃんを探しながらカメラを回していたんですね。

 その映像に衝撃を受けて、盛岡市で行われたもりおか映画祭に車で行きました。石巻にも向かいましたが、2メートルぐらいの防波堤がガチャガチャに割れていた。大槌町にも行きましたが、ほとんど何もありませんでした。

 脚本作りにあたって特別な取材はしていません。というのもあまりに悲しい光景を目の当たりにして、酷い状況であればあるほど「生きていくしかない」のではないかと感じたんです。

――スタッフとして参加した東北芸術工科大学の学生さんにとっては震災の記憶が生々しいものではなかったのでしょうか。

林:撮影時の2014年に22歳とすると震災の時には18、19歳ですので、震災が人生を直撃したという実感があったようです。ただ、感傷はあるけれども、映画は映画なんです。特に今回はフィクションということもあって、撮影時は作ることに夢中で楽しく映画作りをしていました。

 一方で、スタッフ以外の学生からも津波に家を直撃された話はずいぶん聞きました。現在の大学1年生でも当時は小学生です。今では平気な顔してますけど、聞けばやはり色々と思い出はあるんです。何も知らずにこの映画を見て吐きそうになってしまった学生がいました。今、2年生で19歳ですが、フィクションであるものの、映画に描かれている心の動きを感じて当時のことがリアルに蘇ったようです。

◆必死で作った『夢みるように眠りたい』

――大学を中退されてからすぐに東京に来ていますね。

林:19歳から東京に出て来てお金もないしバイトばかりして、どうやったら映画監督になれるのかもわからなくて絶望していました。でも、一生に1本だけでも何とか撮ろうと思って作ったのが、デジタルリマスター版として『BOLT』と同時に公開されている『夢みるように眠りたい』でした。

 お金はありませんでしたが時間がたくさんあったので、図書館で本を読んでいました。また、よく浅草に行っていたんですね。浅草に行くと何故か孤独は感じませんでした。『夢みるように眠りたい』は浅草が舞台ですが、「この路地いいな」みたいな感じであらかじめ風景のことはよくわかっていたんです。1本目ですが映画を撮るのはこれで最後かもしれないと思って、好きな風景を全部入れました。

――『夢みるように眠りたい』は、モノクロ、無声映画ですが、このような作りにした理由は「他の映画とは全く違うことをやっていると印象付けたかったから」とのことでした。

林:すべてを否定しているわけではありませんが、人が作っているような映画は自分が作っても仕方がないと思うんですよね。娯楽映画ですが、他の人たちとはアプローチ、作り方が全然違うんだと思うんです。

 自分は完全な素人なのですがスタッフは全員プロでした。とにかく必死で、撮影監督の長田(勇市)さんにほとんどのスタッフを紹介してもらいました。

 映画はいつも「イチかバチか」ですが、この時も全く成功する気配はなかったですね。この作品が評価されて映画監督としての道を歩み始めましたが、スタッフの方々のおかげです。

――映画のみならず、テレビドラマ、そして演劇の演出まで幅広く活躍されて来ました。

林:いつでも撮る、どこでも撮る、どんな条件でも撮る。これが常に考えてきたことです。テレビだからと言って「テレビドラマ」と思って撮らない。芝居の演出もそうです。お声が掛かったらとにかく「面白い」と思って挑戦する。それを繰り返してきました。

――今では大学教授として後進を育成されてますね。

林:最初に映画作りの面白さを教えるんですね。いきなり技術面などの映画の撮り方は教えません。確かに、それを教えたら映画を撮れるようにはなります。でも、それだけでは「本物の映画」は撮れません。

 まず、映画をたくさん見て入学してきた子には、「映画はこうあるべき」という固定概念を取ることを伝えます。それがあると自由に考えられなくなってかえって伸び悩んでしまうんですね。

 そして、イマジネーションが大切だということも伝えます。映画は物語の可視化なんです。言い換えれば、文字を映像に置き換えるのが映画を作る作業です。それには設計図が必要なので、プロットを書いたり、起承転結などを展開する訓練をします。「どう撮るか」ということより、物語を作る面白さを一緒に作業して伝えるんです。

 シナリオが書けるようになったら次は映画として立ち上げるプロセスを教えます。カメラの使い方、録音の仕方などです。絵コンテも描かせますが、経験もないのに絵コンテのままを撮るとおかしくなるので、絵コンテは座標軸、ガイドに過ぎないものだということも言います。

 4年間のカリキュラムの中でじっくり取り組んでもらいますが、最低限の技術を教えて後は自由にやってもらう。そうすると物語を作ることが面白くなってどんどんやるようになるんです。

 職業にする前に「面白い」と思わないと才能が出て来ません。面白いと思うようになって制作する中で、台本制作が面白い、撮影が面白い、と自分の特性が見えて来て、進む道が見えて来るんです。

 京都芸術大学では監督も女優も俳優も輩出しています。今の東北芸術工科大学もそろそろ7年になるのでやはり新しい才能が出て来ていますね。

◆若手に伝えたいこと

――卒業した学生さんにはどのようなアドバイスをしているのでしょうか。

林:社会に出て映画を作るというのは生半可なことではできません。だから、まず自分の生活を守れと言っています。普通の仕事をやりなさいと。クリエイターになりたいと言って例えばCM制作などの仕事に就いてもずっと使われたままで、全く自分の作りたいものは作れません。教わるのは「プロはこうあるべき」という固定概念ばかりで。

 だったら、普通の仕事をやりながら土日に自分の仲間と協力して映画を撮ったり、脚本を書いたらいいとアドバイスしています。

 いわゆる下請けの制作の現場は人間関係も含めて過酷な労働を強いられます。それで壊れてしまった教え子たちをたくさん見て来ました。そうであればまずは普通の仕事をして「作りたい」という自分を守らないといけないと思っています。

――留学のご経験もありますね。

林:アメリカに行ってテレビシリーズを撮っていました。土日完全休みで最低月給が200万でしたが、現地の製作会社にはアメリカのディレクターズギルドには入らないでくれと言われました。ギルドに入ると最低でも週給200万が保証されるので……。映画に関わる人たちの生活が守られるシステムができているんですね。

 それから、映画を撮って当たると豊かになるシステムがありますよね。アメリカの監督はみんな豪邸に住んでいます。国の成り立ちも事情も違うということもありますが、日本みたいに作っている人はずっと儲からないシステムだと産業自体が続かないですよね。目指す人もいなくなる。そういう状況を打破しようと30年間努力しましたがやはり日本ではなかなか難しい。

 韓国はその点、国を挙げてやっています。昔よく一緒にご飯を食べたポン・ジュノもかつては苦労していましたが、今は豊かになっています。監督に分配するシステムがあるんです。

 また、一つの作品が大きく当たらないということもあると思います。今までのスタイルに捉われず、最初から世界展開を視野に入れて作品をリリースするなど、フラットな形を打ち出していかないといけないのではないでしょうか。

――確かに、日本映画の文化政策や新しい形のビジネススタイルは充実しているとは言い難いですね。

林:映画を4本以上取る人がどれほどいるかということです。1本撮ります。そこで少し成功して2本撮る。そして3本目を撮る人はほとんどいません。テレビなどの他の世界に行ってしまうんですね。インディペンデントで映画を撮り続けていくということはそれほど厳しいことなんです。

 もっと若手の監督が世に出られるチャンスをたくさん作るべきです。そして、当たった時にはたくさん褒めて評価して活躍できるチャンスを広げた方がいい。例えば、上田慎一郎監督の『カメラを止めるな!』は大成功でしたが、インディーズ映画が見られる機会がたくさん出て来るといいですよね。あの映画も途中から大手の配給会社や映画館が協力しました。そういう連携がどんどんできるといいと思っています。

――今後の活動についてお聞かせください。

林:撮っている時は「いつもこれが最後だ」と思っていますが、撮り終えるとなぜかまた撮りたくなるんです。今、また撮りたくなってきたところで、次回作については考えている最中ですね。

<取材・文/熊野雅恵>

【熊野雅恵】

くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。

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