池上彰が自身の“働き方改革”を初解説!NHK時代と社会貢献【全文公開】

池上彰

 安倍内閣が経済対策として「働き方改革」を打ち出し、東京五輪に向けてリモートワークやキャッシュレスを推進。その矢先、コロナ禍が世界を襲ったのだ。誰も予想できなかった社会不安が渦巻く中で、未来の働き方はどう変わりゆくのか。池上彰氏にわかりやすく解説していただこう。

 池上彰氏(70)の新刊「私たちはどう働くべきか」(徳間書店刊)は、ポストコロナの働き方をはじめ、従来の日本人の働き方の問題点、働き方改革の論点、AIに取って代わられる職業などについて、池上流のわかりやすい語り口で解説している。これから就職を考える若い人や、働き盛りの人、老後の生き方を模索するシニアまで、日本人にとって新しい時代を生き抜くヒントが詰まった1冊である。

 これから自分の仕事はどうなっていくのか、不安を抱える向きが大勢いる中、

「そもそも『働く』とは何だろう、と考えた人も多いのでは」と池上氏は言う。

「新型コロナウイルスの感染拡大で失業者が激増し、学生の就職が難しくなるなど、多くの悲劇を生んだ一方で、在宅勤務が広まり、日本社会の働き方は激変しました。自分の生き方について考えるチャンスが与えられた、とも言えるのではないでしょうか」

「働き方はその人の生き方そのものを現す」というのが池上氏の考え方だ。本書では、自身のこれまでの働き方についても順を追って綴っている。

 小学生の時に出会った本を読んで地方の新聞記者にあこがれ、中学生時代は気象庁の予報官を夢見たという。慶應義塾大学経済学部に進み、NHKを就職先に選んだ理由は……。

「予報官になるためには、当時は気象大学校に入らなければなりませんでした。その入試問題は数学と物理の比率が高かった。私の成績ではとても無理だとわかって、夢を断念せざるを得なかったのです。高校の政治経済の授業がおもしろかったので、大学では経済学を専攻しました。NHKの就職試験を受けたのは、あさま山荘事件がきっかけでした」

 1972年、連合赤軍のメンバー5人が、軽井沢のあさま山荘に管理人の妻を人質にして籠城する事件が起こった。彼らの発砲により警察官2人を含む3人の命が奪われ、最終的には警察が突入して事件は解決する。犯人が逮捕され、人質が解放されるまでの218時間、連日テレビ中継され、NHKと民放を合わせた視聴率は90%を超えた。

「大学に入ってから、新聞記者になりたいという小学生の頃の夢を再び持ったのですが、この中継を見て、これからはテレビの時代になるかもしれないと思いました。またNHKでは新人が入社すると必ず地方勤務になるので、地方記者になりたいという夢が叶えられると思ったんです」

 記者として採用となったNHKでの初任地は、島根県の松江放送局だった。そして3年後、広島県の呉通信部へ異動になる。当時は暴力団の抗争事件など、体を張った取材の日々を過ごしたという。

「まさに小学生の時にあこがれた、地方記者になりたいという夢が叶ったのです」

 東京に戻ってからは、報道局の社会部で警視庁捜査一課の担当になり、殺人、強盗、放火、誘拐の専門記者という過酷な仕事を任せられた。

「冬の深夜、捜査員が自宅に帰ってくるのを家の前で待って情報を聞き出そうとする、いわゆる夜回りは辛かったですね。その後、気象庁の担当になります。予報官ではありませんが、台風情報など、気象情報を伝えるという夢が、ここでも思いがけず叶いました」

 94年から05年まで「週刊こどもニュース」のお父さんとしてNHKの顔となった池上氏は、番組終了と同時にNHKを辞め、フリーになった。

「54歳の時、早期退職制度を利用してNHKを辞めました。私はずっと現場に出て、人と会って取材する仕事をしたかった。NHKで唯一それができるのが解説委員なのですが、ある時、解説委員長から『お前には専門分野がないから、なれない』と言われてしまった。ショックでした」

「生涯一記者」を貫くことができる解説委員になる希望が絶たれたことが、NHKを去る大きな理由だったという。

「フリーになってすぐ、イラン行きを決めました。その頃、核開発疑惑が騒がれ始めていたので、いずれ大きなニュースになると思ったんです」

 イスラエルやパレスチナ、バルカン半島にも自費で取材に出かけたという。

 池上氏はフリーランスという個人事業主になって、「自分」というブランドを意識するようになった。

「自分のブランドとは何かと考えた時、『信頼されるジャーナリスト』ではないかと思った。では、そうなるためにはどうすればいいかを考えました」

 NHKを辞めたことが知られると、CM出演の依頼が殺到したそうだが、全て断った。もしその企業に不祥事があったら、コメントができなくなるからである。企業側からは魅力的な金額を提示されたが、出てはいけないと判断したのだ。また、株や金融取引も一切やめている。

「円安が進みますよ、などと発言して、裏でドルを買っていたら、誰も私を信じてくれなくなる。だから普通預金しかできませんが、それがジャーナリストとしての自分を維持するためのモラルなのだと思っています」

 個人が仕事で生き残るために必要なことについて池上氏は、自分のブランドを大切にすることだと主張するのである。会社を辞めて起業したり、定年退職後に個人事業主として何かを始めたり、ボランティアとして貢献したりなど、いろいろな道がある。しかし、たとえ実入りや条件がよくても、時には手を出さず我慢することも、自分が本当にやりたいことをするためには必要なのだ。

「自分の価値を高める努力は、何歳になっても絶やしたくないですね」

 そう語る池上氏は、還暦を迎えた頃から自分の経験を生かし、社会に何か貢献できないかと考えたそうだ。

 ちょうどその頃、東京工業大学から、理系の学生に世の中のことを教えてほしい、という話があった。自分の知識や経験を若い人たちに伝えることは、社会への恩返しになると引き受け、今ではなんと9つの大学で教えている。

「私の仕事の優先順位は、まず大学教授として学生に教えること。それから執筆、取材、テレビ出演の順。1日の平均睡眠時間は5時間くらいですが、とても充実した日々です」

 しかし、20年の春から大きく世の中が変わってしまった。4月から7月までに教えることになっていた大学は4つで、このうち2つの大学ではZoom(ビデオ会議システム)を使っての講義となった。

「受講する学生たちの顔は、私のパソコン上に小さく映っています。熱心に聴いている学生もいれば、時々あくびをする学生、マクドナルドの店内で講義を受けている様子なども一目瞭然。画像の下には氏名が表示されていますから、名前と顔が一致します。チャット機能で直接質問ができ、私はリアルタイムで寄せられる質問に答えながら講義を進めます」

 教室では質問しづらかった生徒も、チャットでは気軽に質問でき、池上氏も質問によって大事な要素を落としていることに気づいたり、補足説明をしたりと、双方向での講義がうまくいっているという。

「ただひとつ、学生の顔を直接見ることができないままなのが心残りです」

 また、池上氏はこのコロナ禍の中、YouTubeを始めた。

「『池上彰と増田ユリヤのYouTube学園』というんですが、始めてみるとテレビ番組の作りとまったく異なることがわかりました。制作費はほとんどないので、そこはなんとか創意工夫で乗り切っています。放送時間や収録時間に縛られることもなく、とても自由。見る側もいつでもどこでも視聴できるので、YouTubeが人気なのは納得ですね」

 本書の中でも、かつて栄華を誇った企業や職業が、時代の変化とともに衰退し、あるいは時代の流れに合わせて柔軟性を持ったものが大きく成功した例などを挙げているが、それはまさに池上氏の生き方とも重なる。池上氏はそうした柔軟性とともに、変わらぬ信念を持っているのだ。

「大変な時代ですが、これから就職する人には、やっぱり夢を持ってほしいと思います。私のように思いがけず叶うこともありますから。働き方は、個人の信念の問題にもなると私は考えています。どんな働き方をしても、自分は人間としてどう生きるのか、ということを問いかけてみる。いずれ会社人生を終えた時に、『あぁ、いい職業人生だった』と振り返れるかどうかが大事だと思います。読者の方にも誇りを失わない生き方を、ぜひともしていただきたいですね」

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