《戦争体験》35キロの道のりを訪ねて来た父「あの日のおにぎりの味は忘れません」

三角巾を帽子のように巻いた和田さん。横浜大空襲時は看護帽を脱いだこのスタイルで負傷者を手当てしていた

 元看護師で助産師。65歳で引退するまでの約40年間、1000人以上の子どもたちを取り上げてきた神奈川県海老名市の和田節子さん(91)。

 看護師になったきっかけは、「子どもが女ばかりで肩身が狭かった父から“看護婦として従軍して国に尽くすように”とすすめられたからです」

■自転車に乗って会いに来た父

 '43(昭和18)年、横浜市の横浜十全病院(現・横浜市立大学付属市民総合医療センター)が運営する横浜市立十全看護婦養成所に入学し、3年間学んだ。

 授業も規則も厳しく、生活は病院に隣接する寄宿舎という環境。■それでも特に厳しかったのは食糧不足だった。

 ■和田さんを心配した父親は月2回ほど、母が作った日持ちする食料を持って実家のある海老名市から35キロの道のりを自転車で会いに来た。

「■父は子どもを外に出すのも初めてのことだったので心配だったのでしょうね」

 '45(昭和20)年5月29日、午前9時。死傷者・行方不明者、合わせて1万4千人を超えた『横浜大空襲』が始まった。

 ■1時間半ほどの攻撃で、現在、横浜市の観光スポットとして有名な「みなとみらい地区」や「山下公園」など中心部は猛火に包まれた。

 3年生に進級した和田さんは白衣の上にモンペをはき、入院患者と地下室に避難した。

「■花火を打ち上げるようなヒュルルという焼夷弾の降ってくる音、爆発する音が聞こえ、防空頭巾の上から耳をふさいでました。死ぬかもしれないという恐怖、今も夢で見ます」

 と表情をこわばらせる。

 幸い、病院に被害はなかった。■屋上から外を見ると、そこは一面の焼け野原だった。

「■そのとき私は“日本は神の国、きっと今に神風が吹く”って信じていました。なぜ、吹かないのって……」

■■弱音を吐かなかった少女たち

■ 病院には各地からトラックで負傷者が運ばれてきてすし詰め状態に。和田さんたちは手当てに追われた。

 ■うめき声、体液や焦げたにおいが充満する病院内。皮膚が焼けこげ性別もわからない人、ヤケドで顔がパンパンに腫れた人。腕を負傷して皮一枚でつながっている人……。

 中でも全身大ヤケドを負った10歳くらいの男の子のことは今でも忘れられない。

「■“痛いよ、お水が飲みたいよ”“お母さん”とずっと泣いていました」

 院内は断水。せめて水を飲ませたいと思った和田さんは焼け跡に水を汲みに行った。

「■その子が喜んで飲んだことは覚えていますが、気がついたらもういませんでした。死んでしまったかもしれない。でも、もしかしたらどこかで生きているんじゃないかって、今でも考えます」

 負傷者も死者も増えていく一方で、和田さんらは飲まず食わず、不眠不休で働いた。

 その過酷な状況にもかかわらず10代後半の少女たちは弱音のひとつも吐かなかった。

自宅の薬箱の中から見つかった当時の三角巾

「■それが私たち看護婦の任務であり、お国のために働くものと思っていたからです」

 空襲から一夜明けた和田さんのもとに突然、父親が現れた。娘の無事を案じ、自転車でやってきたのだ。

「■父は重箱に母が握ったおにぎりを詰めてきました。“会えてよかった、無駄にならなくてよかった”と言って……」

 父親のくれたおにぎりはひとつをピンポン球くらいの大きさに分け、仲間に配った。

「本当においしかった。あの味は今でも忘れません」

 和田さんは23歳で退職し、海老名市に戻って結婚、子育てをしながら働いた。

「■私たちが10代のころなんて青春なんて全くなかった。恋愛もおしゃれも、食べるものだってなかった」

 多くの死を目の当たりにした和田さんは戦後、多くの新しい命を取り上げてきた。令和の世の中に望むことは、

「■とにかく平和な世の中。ほかの国とも仲よくして、平和に過ごしてほしい。戦争はもう嫌ですね……」

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