信長が本気の「愛羅武勇」を伝えた美女・吉乃

■信長は今でいうと「暴走族」のリーダー

尾張に帰って、信長さまに有利な条件で仕官しようとした藤吉郎は、信長さまが川並衆(木曽川流域の地侍。当時、こうした呼び方をされていたかは不明です)のところに出没し、身分を問わずに気の合う仲間と遊んでおられると聞きました。

信長さまが羽目を外して遊ぶことが好きなことは、よく知られた通りでございます。鷹狩りはもちろんですが、乗馬や水練、そして相撲などが大好きでございました。

少年時代のころは「大うつけ」と呼ばれ、派手な色の変わった服装で、栗や柿、瓜を食べながら、仲間と肩を組んだりして歩いておられたと聞いております。

近江八幡の日牟禮(ひむれ)八幡宮では、正月に新藁で編んだ3メートルほどの松明の上に、数メートルの青竹を立て、細長い赤紙や薬玉、巾着、扇などで美しく飾られた左義長(さぎちょう)を、化粧し女装した男たちが担いで繰り出す火祭りが行われておりますが、これは、安土城下で信長さまが参加して行われた催しを引き継いでいるのだそうでございます。

▲日牟禮八幡宮(滋賀) 出典:PIXTA

残念ながら、私たちが新婚生活を送った清洲の城下町は、名古屋に商家も寺社もすべて引越しさせられたので、遺跡もないのでございます。安土の町でも同じで、豊臣秀次が近江八幡に丸ごと移したので、安土のお祭りも一緒に引っ越して今に伝えられております。

信長さまは、今でいえば、暴走族のような感覚の遊びがお好きだったのでございます。そして、それは使い物になる家来を集める場でもございました。信長さまは、伝統的な家臣団に飽き足らず、前田利家さまのような土豪の次男以下のもの、滝川一益さまのような流れ者、そして、有能なら藤吉郎のような百姓上がりでも、自分の言う通りに動く若者を集めたのでございます。

▲自分の手足となって動く若者を集めていた信長さま イラスト:ウッケツハルコ

■信長が特別扱いした6歳年上の美人「吉乃」

信長さまの母親である土田御前のご実家も、やはり木曽川沿いに地盤をもつ一族で、その縁者に徳島藩主になった蜂須賀家、豊臣秀次の家老で但馬出石城主だった前野家、讃岐で高松城や丸亀城を築いた生駒家などがございました。

このうち江南市の小折というところにあった生駒家の娘で、土田家に嫁入りしたものの、夫が戦死してしまった女性がおります。現代の人たちには吉乃という名前で知られております。本当の名前は私も存知ませんが、吉乃の名を使わせていただきます。

6歳年上の美しきこの女性に、信長さまが好意をもたれ、3年連続で3人のお子をつくられました。信長さまの後ろ盾だった斎藤道三さまの娘である、ご正室の帰蝶さまとの間にお子はおられず、道三さまが亡くなるとその翌年から、信忠さま、信雄さま、そして徳川家康さまの長男で非業の死をされた信康さまの奥方になられた徳姫さまと続いて生まれました。信長さまの多くのお子たちのうち、この3人だけが特別扱いされていますから、吉乃さまは特別な存在だったとお見受けしております。

▲織田信長(狩野元秀筆) 出典:ウィキメディア・コモンズ

このあたりを面白おかしく書いた軍記物というのが、昭和34年の伊勢湾台風で土蔵が崩れて発見されたという『武功夜話』という資料でございます。とても面白くて遠藤周作さん、津本陽一さん、堺屋太一さんなどの小説のネタ本になっております。

ところが、いろいろ怪しげなところも多く、偽書だとか、少なくともかなりの改ざんがあるとかいう人が多く、その信頼性については決着がついておりません。

とはいっても、そこに書かれている信長さまの母親が土田政久の娘という人だとか、信忠の母親が吉乃さまであるということは、『武功夜話』にだけ出てくる話ではございません。

江戸幕府が各大名、織田家の場合ですと、信雄さまの子孫が藩主である丹波柏原藩や出羽天童藩から書類を提出させて、正式にまとめた『寛政重修諸家譜』という史書に載っているとのことでございます。

現在のように古文書の調査方法が充実してなかったので、誤りも多いのは確かでございますが、公式の記録ですから、とくに誤りが明らかでない限りは、尊重して良いと思います。また、蜂須賀正勝(小六)の嫡男で徳島藩祖の家政の正室は、吉乃の兄である生駒家長さまの娘です。吉乃さまの江戸中期に建てられた墓にも、信忠さまの母親と彫られております。

但馬出石の城主だった前野家が、関白秀次失脚事件に巻き込まれて取り潰されたときに、遺族の1人は高松藩生駒家の家老になっていますから、『武功夜話』に書かれている細かい事実が真実かどうかはともかく、こうした木曽川沿いの地方の武士たちが、互いに近しい関係にあったことも間違いございません。

藤吉郎は、人の伝(つて)を頼って、川並衆といわれる彼らと付き合いを始め、まず、蜂須賀小六と親しくなって居候になり、連れられて生駒家などにも出入りするようになって、信長さまに近づいたようでございます。

信長さまには、フットワークがよく機敏で、算術にも長け、情報集めの才もあるなどという触れ込みで推薦され、最初は使い走りなどをしてから、やがて家臣となったというようなことでございます。

▲木曽川 出典:PIXTA

問題の『武功夜話』には、吉乃さまに艶っぽい話、つまり猥談など聞かせて面白がられて、信長さまに紹介されたとかいう話も載っています。私はそんな話は藤吉郎から聞いたことありませんし、よくできすぎていますが、あってもおかしくない話でございますね。

それでは本日はこの辺で失礼いたします。ごめんくださいませ。

※ 岐阜の臨済宗崇福寺には信忠実母の位牌が収められているが、これが吉乃と別人である可能性はそれほど大きくない。1556年に義父の斎藤道三が死んだころから、信長は帰蝶以外との子どもをつくり始めている。故郷の菩提寺に寄進したのが信忠でなく信雄であることを不自然という人もいるが、信忠は嫡男なので帰蝶の子として位置づけられていたのでないか。

※ 川並衆という言葉は『武功夜話』の用語なので、当時そう言う呼び方があったかは不明だが便利だから使っておく。いずれにせよ『武功夜話』は信頼できない軍記物だが、それなりに今は失われた文書を見たり、伝承を聞き回りはしたのだろうから、そこに書いてあるから事実でないというわけではない。

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