【戦国TOPICS】比叡山焼き討ちは当時もドン引き? 信玄最強は家臣が話を盛った?

■人々が怯えるのを楽しんでいた悪趣味な信長

比叡山の山々が、いちばん神々しく見えるのは、滋賀県の守山付近からだと思うのでございます。琵琶湖の対岸に霊山らしくすっきりとした姿なのです。守山という地名も、比叡山を守るという意味でございまして、市内の中山道沿いにある、東門院という古いお寺は、延暦寺の東の門にあたるのだそうです。

▲比叡山琵琶湖岸遠景 出典:PIXTA

また、市内の金ヶ森は、門徒が集まって近江でもいちばん栄えた寺内町(寺院とその周辺を堀などで囲んだ中世の都市)でございました。のちに小京都として人気の飛騨高山の町を創り、茶人としても知られる金森長近さまは、土岐一族ですが、この町に住んでいたことから、それを名乗りにされたそうです。

そして、信長さまは9月に大津の園城寺に入り、ここで比叡山への攻撃命令を出しました。家老の佐久間信盛さまは、比叡山のもつ霊山としての権威を説き、思いとどまらそうとされましたが、無駄でございました。このとき、明智光秀さまや藤吉郎が諫めたとかいう人もおりますが、特別な意見を言ったというような確かな記録はございません。

延暦寺は、伝法大師最澄さまが王城鎮護のために創られた由来もあり、皇室にとってはとても大事なお寺でございますし、天台宗の有力寺院は、皇室や摂関家の子どもたちの門跡としての天下り先でもありました。

各寺院は荘園をたくさん持っていましたからとても豊かで、しかも、朝廷自身がたいした軍隊をもっていなかったので、比叡山の僧兵たちが京都周辺では最大の武装勢力だという時代もございました。

ただ、戦国時代になると、近江の土豪たちは延暦寺のもつ荘園を横領いたしました。そういう意味では、六角氏や浅井氏との関係は良くなかったのですが、対信長さまでは手を組んだのでございます。

元亀2年(1571年)9月になると、信長さまは本陣を園城寺に置かれて叡山への攻撃にかかられました。信長さまは延暦寺に対して、自分に協力するなら奪い取った荘園も返してよい、とまで仰ったのでございますが、延暦寺は断ってしまいました。

山内に浅井・朝倉軍の兵士が逃げ込んでいたので、彼らの監視もあって動けなかったということも聞きました。

そこで、信長さまは、まず僧侶たちの日常の生活の場であり、商業都市でもある麓の坂本を焼き払い、日吉大社の裏山である八王子山に逃げ込んだ僧侶や市民たちもなで切りにされたのでございます。

そして、比叡山にも登って、山上の修業の場であった堂塔に火をかけ、根本中堂で伝教大師のときから受け継がれてきた、不滅の法灯をも持ちだすことも許されず、途絶えてしまいました。?

もっとも、叡山の堂舎を焼き払うことくらいは、将軍義教さま方もされており、前代未聞でもなかったのですが、僧や女性や子どもまで殺戮したというのは初めてのことでございました。都でも驚かれましたが、それより、全国の人々が信長さまの恐ろしさに震えあがったのでした。しかし、信長さまは人々が驚き呆れるのを楽しんでおられる様子でございました。

私は特別に信心深いというわけではございませんが、岐阜の町でも比叡山を焼くことがいかに罪深いことかと、あちこちの僧侶たちが話しているというのが聞こえてくるので、心穏やかでない奥方もおられました。

■義姉の子どもを人質に出したことで木下家に亀裂

この年の10月に、木下家にとっては大事件が起きました。藤吉郎は姉川の北側にある宮部という村にいた宮部継潤さまを調略いたしました。鉄砲の産地である国友村の北側にあるという意味でも、小谷城を封鎖するという意味でも大事な場所だったのでございます。

そのときに藤吉郎は人質を求められて、なんと、義姉のともの4歳になる子どもの治兵衛を養子という名目で出すことになったのです。当たり前のことでございますが、ともは泣きわめいて怒るし、私にもお前が子どもを生まないからだと嫌味は言うし、たいへんでした。

結局は、義母のなかが仕方ないということで、義姉のともを説得してくれたのでございますが、これが、ともと私のあいだに隙間風が吹いた最初の出来事だったかもしれません。もっとも、義姉の夫婦には年子で、のちの秀勝が生まれており、ともが納得したのはそれもあったかと思います。

藤吉郎は横山城にいて、信長さまの出陣のときには、その準備を整え一緒に戦い、普段は小競り合いや調略を繰り返しておりました。また、京の奉行としての仕事がなくなっただけでなく、上賀茂神社に対して「徳政」の催促をした手紙も残っておりますし、ほかの方々と連名で伏見の水運業者に、船を信長軍のために用意しておくようにと命じた手紙もございます。 

元亀3年(1972年)の正月には、浅井方が藤吉郎の留守に横山城を攻めましたが、竹中半兵衛さまに撃退されておりました。7月には、この年の始めに元服していた信長さま嫡男の信忠さまの初陣と言うことで近江へ出陣され、浅井に対して大攻勢に出られました。

信長さまは竹生島も攻めました。そして、8月には小谷城のすぐ西の虎御前山に砦を築きました。しかし、朝倉から1万5,000の援兵が来ましたので、にらみ合いが続き、清水谷にあった武家屋敷や浅井館が焼き尽くされたのは、このときでございます。そして、浅井一族もこれを機に麓の館から山上の城へ移り住みました。

ですから、浅井三姉妹のうち、茶々と初は清水館の生まれですが、末娘でのちに徳川秀忠さまの御台所になる江は、山の上にある小谷城の生まれだそうでございます。

▲浅井三姉妹 出典:PIXTA

■信玄は信長のライバル…ではなかった!?

この年になって、甲斐の武田信玄さまと信長さまの間の同盟関係にひびが入ってまいりました。その理由のひとつは、比叡山の焼き討ちでございます。

この焼き討ちのときに、天台座主で正親町帝の兄弟でおられる覚恕さまは、京におられたので無事でございましたが、これが甲斐国の武田信玄さまを頼って逃げていかれ、信玄さまに大僧正の肩書きを差し上げられて、打倒信長を訴えられたのでややこしいことになりました。

武田信玄率いる甲州武士たちは、信長さまの天下統一に立ちはだかった最強軍団であるといわれますが、信玄さまは失礼ながら信長さまのライバルといえるほどの方ではございません。

もっともらしい伝説が生まれたのは、武田旧臣の多くが徳川家に仕官したからでございましょう。江戸時代には軍学の先生も武田旧臣が多かったので、『甲陽軍鑑』のような怪しげな軍記物語が世の中に普及してしまったのでございます。

信玄さまは、父親の信繁さまから甲斐一国を引き継がれて、その半生を今川氏の支援を受けて信濃攻略に費やすのに使われました。ところが、信長さまの勢力が強くなったので、今川義元の娘婿だった長男の義信を廃嫡し、信長さまの養女(姪)を妻とする勝頼さまを跡継ぎにして、死ぬ5年前の信長上洛の年には、徳川家康さまと謀って今川氏真さまから駿河を獲得したのでございます。

これで、のちの太閤検地のときの石高を当てはめると、だいたい70万石の領主になられたのですが、そのころの信長さまの支配されていたのは350万石ほどですから桁が違います。

また、関東の北条氏康さまは、親戚の今川氏を滅ばした武田を良く思わず、越後の上杉謙信さまと手を組んでおられたのでございますが、元亀2年の10月に亡くなられるときには、武田との同盟に戻るように跡継ぎの氏政さまに遺言されていたのです。

▲今の時代であれば速報になるような出来事がいくつも起こりました イラスト:ウッケツハルコ

■三方原で苦戦している家康に援軍をおくる

これで、信玄さまは東からは北条、北からは上杉という敵に挟まれておりましたのが、上杉だけが相手となり、信濃の支配も安定していたので、徳川との係争地である遠江や三河の山間部に支配地域を広げようとしたのでございます。

信玄さまとしては、家康さまとの小競り合いですから、信長さまには、せめて中立でいて欲しかったのでございますが、信長さまは畿内での戦いにも援軍を出して戦ってくれていた家康さまの方に傾斜せざるを得ませんでした。

そして、足利義昭さまとの関係では、義昭さまは、信長さまと手を切るつもりはないのですが、ほかの大名にも上洛などしてもらって、信長さまのいわば傀儡から脱出したいわけでございます。

そこで、信玄さまに上洛を勧められたり、本願寺と信長さまの和平を信玄さまと組んではかり、本願寺から天目茶碗を信長さまに献上させたり、複雑な動きをしておられました。

▲複雑な関係を結ぶのはやはり“名物” イメージ:PIXTA

一方、美濃東部の岩村城には、遠山景任さまが亡くなって未亡人となった信長さまの叔母のとても美しいおつやさまと、信長さまの五男で遠山家の養子になっていたのちの勝長さまがおられました。信玄さまは、これに圧力をかけさせ、結果、このおつやさまは、武田の武将である秋山虎繁さまを夫に迎えて、武田方に付いてしまわれたのでございます。

そして、信玄さまは10月3日に甲府を出発されて、徳川領の遠江に侵入し、二股城を落としたのち、12月22日には徳川軍と三方原で遭遇いたします。武田軍は浜松城を無視して三河へ向かおうとしたところ、家康さまが正面対決に出られました。

信長さまからは、城に籠もってじっとしているように言われていたのですが、南にある浜松城を無視して三河方面に向かう武田軍に我慢できなくなった家康さまは、武田軍に挑みかかられたのです。しかし、撃破され、家康さまは命からがら浜松城に逃げ帰られました。

このときに、信長さまが3,000人のみですが援軍を家康さまに送られたので、ついに、信長さまと信玄さまは手切れということになったのでございました。

※ 宇野宗佑元首相の実家は、守山宿の造酒家だったが、現在は「町家“うの家(け)”」という形で公開されている。

※ 信長の焼き討ちがあったころは、比叡山上には根本中堂などのほかは、それほど多くの堂塔はなかったようで、火事の痕跡はそれほど残っていない。

※ すでに健康を害していた武田信玄が、なぜ突然、織田に対して戦いを挑んだか不明である。もし、三方ヶ原の戦いに信長が援軍を送らなかったら、家康の領土のそれなりの部分を奪ったら、そこで満足していた可能性も高い。

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