「ネットがあればなぁ…」信玄死亡の情報が届かなかった足利義昭の誤算

■影武者を立てた信玄「死んだことは3年隠せ」

「巨星落つ。武田信玄、天下取りを目前にしていた甲斐の虎は、2月に三河野田城を落としたあと、一旦、信濃に退いていました。春になったら上洛して瀬田の唐橋に風林火山の旗指物を掛けると豪語していました。けれども、4月になっても動きがなく、不審がられていましたが、消息筋によると4月23日に伊那谷の駒場で死去したもようです。正式の発表が待たれるところです」とかいうニュースが、現代なら流れるところでございましょう。

▲「今も昔も正しい情報を集めることが大切ですよね」 イラスト:ウッケツハルコ

しかし、私たちの戦国時代には、ニュースはなかなか到達しませんし、メディアもありませんから、噂がじわっと広まっていきました。ですから、もうとっくに状況が変わっているのに、間違った動きをする人もございました。

遠江の三方原の戦いで、徳川・織田連合軍を蹴散らした信玄さまは、浜松城に逃げ込んだ家康さまなど眼中にないと言わんばかりに、浜名湖の北岸に進み三河を窺われました。しかし、ここで、朝倉軍が冬を迎えて雪が降る前にと、近江から撤退して越前に帰ったことを知ります。

これでは、信長さまを挟み撃ちどころではありません。とりあえず、正月早々に三河の野田城を囲んで2月15日には落城させて、朝倉が近江に戻ったら上洛作戦実行のつもりだったのでございますが、ここで体調を崩してしまい、長篠城で休養するものの回復しません。

▲長篠城 本丸・野牛曲輪跡 出典:PIXTA

そこで、いったん甲斐に引き揚げることにしたのですが、4月12日に亡くなってしまったのでございます。しかも、信玄さまは、影武者をたてて3年間は自分の死を隠せと仰ったのですから、なおさらです。

ところが、4月のうちから、信玄さまは亡くなったという噂が流れ始め、家康さまは試しに武田との最前線に出て挑発して、噂が本当か確かめようとしたりされています。そして、皮肉なことに信長さまなど敵には死んでいることが知られているのに、足利義昭さまや浅井・朝倉など味方の方が瞞されてしまうことになりました。

とくに、義昭さまは、それまではあからさまに信長さまへ反旗を翻すことはされてなかったのですが、2月になると浅井・朝倉に公然と内書を出されるなど対決に踏み切られたのでございます。

しかし、信玄さまが動かないので、信長さまは機敏に動かれ、4月4日には現在の二条通より北側の「上京」に火をかけて焼き払い、義昭さまを震え上がらせ、正親町天皇の仲介で和解するなど、慌ただしい動きがございました。

義昭さまは、信玄さまの死をご存じない、あるいは、情報があって武田側に確かめても否定されたでしょうから、いずれ上洛してくるという望みを持たれて、その場しのぎを繰り返しておられました。

松永久秀さまや三好義継さま、三好三人衆や六角義治さまたちも、あっちについたりこっちについたり、情報に振り回されていたのです。

■室町幕府に近づく終焉のとき

一方、6月になると、西三河奥地の豪族で武田方についていた奥平貞能さまが、信玄さまが亡くなったのでということで、家康さまに寝返ったのです。これで、織田・徳川方では、信玄さまの死を確信することになりました。

貞能さまは、一族の信友さまの娘で息子の貞昌(のちの信昌)の妻であるおふうと次男の千丸を武田に人質に出しておりましたが、信長さまは、家康さまの長女で信康さまの妹である亀姫さまを、貞昌さまの妻として差し上げるという条件を出すように指示され、家康さまはそれに従われていたのです。

6月22日になって、信玄さまが死んだという確実な情報とともに、貞能さまは、家康さまの申し出を受諾されたのです。このために、9月になってからですが、武田勝頼さまは、おふうと千丸などを国境の鳳来寺口で磔にして殺しました。

家康さまも、さすがに気の毒に思われたのか、のちのことでございますが、おふうの妹であるたつさまを異父兄弟である定勝の妻とし、奥平貞友の子孫は伊予松山藩の筆頭家老として栄えることになります。

また、亀姫さまを人質同然に格下の奥平家の嫁にしたことに、家康さまの妻の築山殿と亀姫さまの兄である信康さまは怒り、のちの悲しい事件の原因ともなるのでございます。                       

ここに至っても、信玄さまが生きていると勘違いを続けていた足利義昭さまは、7月2日には、二条城を細川藤孝さまの兄である三淵藤英さまらに託して、巨椋池の畔にあった宇治槇島城に籠城されました。

信長さまは、近江佐和山に近い浜で建造させたばかりの、長さ50メートル以上もある大型軍艦に乗って大津に乗り込み、藤吉郎たちも参加した大軍とともに京に入って二条城を降伏させます。

信長さまは毛利輝元さまに書状を送り、信玄さまが死んだこと、義昭さまが京から逃亡したことなどを報せたうえで、槇島城に攻撃を加えたので、義昭さまは城から逃げ出し、嫡男を信長さまへ人質として差し出されました。

7月18日のことでございまして、これをもって後世の方は「室町幕府の滅亡」とか申しておられます。

信長さまは、河内の若江城の三好義継さまのもとに義昭さまを送り届けるよう、藤吉郎に命じました。

▲旧若江城跡 出典:PIXTA

■ひとりの僧が秀吉の才覚を見抜いていた

一方、浅井攻めも最後の場面を迎えておりました。7月28日になって元亀から天正への改元がございました。湖北では藤吉郎の工作によって、湖岸にある山本山城の阿閉貞征(あつじさだゆき)が寝返り、信長さまから「よくやった」とおおいに誉められました。

こうなると、いよいよ危なくなった朝倉義景さまも、自ら大軍とともに浅井救援に来ましたが、小谷城は包囲されて身動きができません。織田軍は一気に、朝倉軍がいた小谷城の背後の山の頂上にある大嶽砦などを陥落させたので、朝倉軍は退却して越前に引き上げようとしたものの、内応する者が続出し、国境にある刀根坂の戦いでも織田軍は大勝利いたしました。

義景さまも一乗谷を棄てて大野に逃げられ、そこで自刃されました。8月20日のことです。信長さまは、越前の支配を帰順した前波長俊ら朝倉旧臣に任せ、すぐに近江に戻られました。そして、ついに小谷城への最終攻撃が始まったのでございます。

▲小谷城跡 出典:papa88 / PIXTA

小谷城が落城したあとのことになりますが、義昭さまのその後のお話をしておきます。

義昭さまは京から自分で出て、さらに、信長さまに河内に移されましたが、将軍をやめられたわけではありません。将軍が近江に逃げ出して、何年も帰ってこないといったことは、戦国時代に頻繁にあったことでございます。

信長さまも、義昭さまに京に帰ってくるように交渉されています。少なくともそういうポーズをしないと、朝廷も全国の大名たちも承知しなかったのでございます。この交渉の仲介に当たったのは、毛利氏であり本願寺でした。

堺で行われた交渉に、織田方代表で当たったのは、藤吉郎と朝日日乗という法華宗の僧侶でございました。

この交渉では義昭さまが、信長さまに対して人質を出せとか仰ったので決裂したのですが、このときに、恵瓊が毛利方へ報告した天正元年(1573年)12月12日の書状で「信長の代は、五年、三年は持つだろう。来年は公卿に昇格するかもしれないが、そのうちに、高ころびしてあおむけに転んで倒れるのでないか。しかし、藤吉郎というのはなかなかの男だ」と書いたのはよく知られております。

▲石山本願寺推定地 出典:PIXTA

■信長を頼りにしていた義昭の蜜月が崩れた理由

ここまで書いてきたように、義昭さまと信長さまの決定的な対立は、義昭さまが秋に京を出ることになった、元亀4年の初めの頃からのことでございます。当初、義昭さまは、すっかり信長さまを頼りにされていて。一緒に戦場に出たりされていました。

その後、信玄さまなどに上洛を促したりはされましたが、信長さまを追い払うという趣旨でなかったのです。しかし、政治家同士でも企業の幹部同士でも協力関係があっても思惑の違いは出ます。

それでは、何が問題なのかということは、私も藤吉郎に聞いたことがございます。そのときに、藤吉郎が半兵衛さまなどから解説されたことだが、などと言って説明していたところですが、こういうことなのだそうです。

義昭さまは、信長さまのご恩にどうやって報えるかを、室町幕府が全盛だったころの秩序のなかで知恵をだされたのです。つまり、信長さまをそのもともとの主君だった尾張守護武衛さま(斯波家)の跡を継ぐ者と位置づけようとされました。

つまり、管領として、さらに、おまけで副将軍もつけていい、ということでございます。言ってみれば、取締役副社長ということです。

ところが、信長さまとしては、例えば、源実朝さまが亡くなったあとの将軍と執権だった北条氏の関係のようにしたかったのでございます。それは、この時代にあちこちであった関係なのです。浅井家と京極家、長宗我部家と一条家、鍋島家と竜造寺家などいろいろありましたが、おそらく信長さまが意識されたのは、小田原の北条家と古河公方さまの関係でございます。

もともと伊勢氏だったのに、北条氏と改称されたのは、同じ平氏である鎌倉時代の執権家を意識されたからでしょう。北条氏は、河越夜合戦で古河公方・山内上杉・扇谷上杉の連合軍を破ったわけですが、かつて太田道灌さまも仕えられた扇谷上杉家はこれで滅び、関東管領だった山内上杉家は、越後に逃げて長尾景虎さまを跡継ぎにされました。上杉謙信さまです。

一方、古河公方さまは北条氏と手を組むことになって、婚姻関係を結び、名目的ですが関東の主となりましたが、実権はすべて北条氏に委ねられておりました。言ってみれば、オーナー家が代表権のない会長になり、その下に代表取締役会長がいるようなものでございます。

この思惑が一致しなかったから、信長さまと義昭さまは決裂したのでございます。こうして、北条氏を目指すことを諦めた信長さまが採ったのが、ご先祖である平清盛さまのやり方で、このあと大納言から始め、さらには右大臣までになられたわけです。

そういう姓(源平藤橘など)を名乗るかということは、とても大事なことなのでございます。そのことはまた説明いたしますが、この頃、私の夫も羽柴筑前守秀吉とかいう滑稽な名乗りをすることになり、家族はありがたいというよりは、大笑いでございました。

次回からは、藤吉郎でなく秀吉と呼んであげることにします。

※ それまで非常に慎重に徹してきた武田信玄が、建康も衰えていたはずの最後の半年になって、突然、信長と対決する気になったのかは謎である。また、本当に大軍を率いて上洛しようとしていたのかもわからない。少なくとも長く京に留まる力はなかったと思われる。ここでは、信長が3000もの援軍を出し、三方ヶ原の戦いに参加したことで絶縁が決定的になったと解釈している。

※ 信長は家康に浜松城から出ないように勧めていた。その場合は、信玄は東三河に向かい、そこで、小さな城を攻略し岡崎に迫っただろう。兵農分離ができてない武田軍は、長期の遠征は難しかったので、守備に徹するという信長の提案は、賢明だったと考えられるが、それではプライドが許さない家康は、城を出て決戦を挑み大失敗した。

※ 古河公方家では、足利晴氏が北条氏綱の娘(芳春院)を正室に迎え、叔父である義明(小弓公方、後の喜連川氏)の排除に国府台合戦で成功。しかし、晴氏は河越夜戦に反北条で、山内・扇谷両上杉氏の再三に渡る要請で出陣、敗れて北条早雲の孫娘を母とする義氏に家督を譲った。義氏は小田原に移されたが、1583年没し、娘である氏姫が9歳で家督を継いだ。いずれにせよ、関東公方家は最後まで形式的には北条家の上位にあった。小田原落城後、豊臣秀吉は、小弓御所系の国朝と結婚させた。これが、江戸時代を通じて下野喜連川藩として残った。

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