男色家だった足利将軍の“お相手”に選ばれ続けた美形なる赤松家の悲劇

かの有名な足利将軍家は初代から15代まで、ほぼほぼ男色家である! と自身を「オカマ」だと公言する山口志穂氏は語ります。父である足利義満のやったことを何から何まで否定した義持が、ただひとつ受け継いだのは「男色」。しかも、当代きっての少年好きだったという。オカマの目線で見ると、歴史の新しい側面が見えてくる!

■「三尺入道」赤松満祐の受難

断言しますが、足利将軍家は、初代尊氏から15代義昭まで幼少で亡くなった将軍を除いて、ほぼほぼ男色家です。

足利義持という人は、義満が亡くなると、義満の北山第を金閣以外は破壊するなど、義満の政策を次々と否定していきます。そして、義持は猿楽よりも田楽贔屓でもありましたから、徹底して義満路線を否定したわけです。

しかし、そんな義持が義満から受け継いだのが、男色でした。

▲足利義持像 出典:ウィキメディア・コモンズ

▲父で大御所の足利義満 出典:ウィキメディア・コモンズ

1420年に来日した李氏朝鮮の使節・宋希m(そうきけい)の『老松堂日本行録』には「日本の奇事」として、こうあります。

其(そ)の王〔義持〕尤(もっと)も少年を好み、択(えら)びて宮中に入らしめ、宮妾(きゅうしょう)多しと雖(いえど)も尤も少年を酷愛するなり。国人これに効(なら)うこと、皆王の少年を好むが如し
[村井章介:校注『老松堂日本行録ー朝鮮使節の見た中世日本ー』岩波書店、1987年]

訳せば「義持は最も少年を好み、選んで御所に入れている。正室や側室は多いのに、それ以上に少年を酷愛している。そして、義持の家来たちも義持と同じように男色をしている」となりますから、当時の幕府は、義持以下、守護大名たちも含めて多くが男色をしていたわけです。

こうした外国の人物が見た史料というのは、日本人への偏見が入り込んでいる場合もあるので、差し引いて考えることも必要なのですが、逆に日本人が「当たり前だから書かない」と思うことを書いているものもありますので、よく吟味しながら読めば、かなり価値がある場合もあると思います。

そして、これまでを振り返ってみれば、この内容は間違ってはいないと言えるでしょう。

この義持の時代に播磨・備前・美作(みまさか)〔兵庫県南部、岡山県東部と北部〕の守護大名だったのが「三尺入道」という異名を持つ赤松満祐でしたが、三尺は90〜105センチですので、たとえ誇張であったとしても、かなり身長は低かったと思われます。

この赤松家の傍流に赤松持貞という男がいました。『嘉吉記』には 「男色ノ寵ニヨツテ」とありますから、義持が持貞を寵愛したわけです。

この辺りは院政のときと同じで、持貞は赤松家の傍流ですから、そもそもは出世の見込みなどないのですが、寵愛によって「備前、播磨、美作、三ケ国ヲ賜リケリ」、要するに「満祐の所領の播磨・備前・美作を取り上げて持貞にやる!」と義持は決めてしまいます。

この決定に、満祐は当然ながら激怒し、京都の自宅を焼いて播磨に帰ってしまいます。この満祐の行動に、今度は義持が怒るのですが、満祐は諸大名と共に「持貞が将軍の側室と密通しているぞ!」と訴えます。

この訴えに対して義持は、なぜか持貞を許そうとするのですが、表沙汰にされた以上、重臣たちや亡き義満の側室までが持貞を批判し始め、結果的には持貞は切腹を命じられました。

この結末に、義持は「存念不当也トニクミ玉フ」と、ここに至ってもなお「満祐の訴えは不当だ!」と憎んだそうです。

こうして見ると、院政期のデジャブを感じますが、しかし、なぜ義持は、ここまで持貞の肩を持ち続けたのでしょうか?

それは、鎌倉幕府の将軍と室町幕府の将軍の違いにあります。

鎌倉将軍は、たとえ北条氏の傀儡(かいらい)となろうが、将軍と御家人との間には越えられない貴種としての身分差がありました。しかし、室町将軍と守護大名たちには、それほどの身分差がなかったのです。

たとえば、室町将軍を支える「三管四職(さんかんししき)」は教科書でも習われたと思いますが、斯波、細川、畠山の管領(かんれい)と山名、一色、赤松、京極の侍所所司(さむらいどころしょし)は、足利家の一門であったり、すべて足利家と同じ源氏です。

そして、源氏であるということは、系図を辿れば嵯峨天皇や清和天皇などの皇室に行き着きますから、要するに、足利将軍家は「特別な貴種であるとは言えない」ということなのです。

ですから、院政期に上皇(法皇)が藤原摂関家に対抗して、藤原氏の傍流を院の近臣に重用したように、義持も赤松家の傍流を男色で寵愛して、自分の味方になる人物を守護大名にしようとしている、つまり、ここにも男色ネットワーク作りがあったわけです。

しかし、守護大名たちにとっては、それをやられれば次は我が身ですから、全力で潰しました。

その証拠に、義持の子の五代将軍足利義量(よしかず)が亡くなり、義持も1428年に重体に陥ると「オレが誰と決めても大名たちが納得しない!」と後継者を指名せずに亡くなりました。

こうして、くじ引きによって選ばれたのが、6代将軍足利義教(よしのり)です。

■足利将軍からの男色にキレた結果・・・

くじ引きによって6代将軍に選ばれた足利義教は、将軍就任前、まだ義円と名乗っていた1419年に、宗教界のトップである天台座主(てんだいざす)となっています。

しかし、親の七光ではなく「天台開闢(かいびゃく)以来の逸材」と呼ばれるくらいの実力も才能も持った人でした。そして、義教もまた、僧籍にあるときにもエピソードが残るくらいの男色将軍でした。

▲足利義教 出典:ウィキメディア・コモンズ

そんな義教のお相手が、またもや赤松家の傍流の赤松貞村です。

『嘉吉記』には「赤松伊豆守貞村、男色ノ寵比類ナシ」とあります。そして、1441年に「赤松家家督ヲ継グベキ者ハ此人(このひと)ナルベシト仰セテ、三ケ国ヲ賜ハン御教書ヲ……」、要するに、またまた、播磨・備前・美作の3ヶ国を義教は貞村に与えようとします。そして、このときの赤松家の惣領(そうりょう)も、やはり満祐です。

ここまでくれば「なんかオレ、受難の相でもあるのか?」と疑うレベルです……。

ここにきて、満祐はキレました。1442年、関東で反乱があり、それを義教が破ります(結城合戦)。その戦勝祝いに赤松家に招待された義教は、赤松邸で、満祐の刺客によって討たれました、49歳でした。

このとき、多くの義教に同行した人たちが奮戦しましたが、斬り殺されたり重傷を負いました。そして、その1ヶ月後には、満祐も山名持豊(もちとよ、後の宗全)の幕府軍によって討たれます、これを嘉吉の変と言います。

この状況を見て、伏見宮貞成親王後崇光院(ごすこういん)は『看聞日記』で「自業自得果、力無キ事カ。将軍、此ノ如キ犬死」(高坂好『人物叢書 赤松円心・満祐』吉川弘文館、1970年)と冷徹に言い放っています。

※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。

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