これは惚れる! 信長が寧々に送った手紙のスパダリっぷり

■さしもの秀吉も母の言うことには逆らえず

私の一生でいちばん楽しかった時代は? と聞かれたら、それは近江長浜城での日々でございます。

▲近江長浜城 出典:PIXTA

だいたい30代の10年足らずでしたが、それまで浅井攻めのために横山城にいた秀吉からの便りを待ち、何ヶ月に一度だけ短い期間、信長さまに呼び出されて岐阜に戻ったときに顔を会わせるだけだったのが、この頃は1年のうち何ヶ月かは一緒でございました。

しかも、湖北三郡の大名としての仕事については、秀吉のいないときは、私が代理のような立場でもありました。 もちろん、代理を務める奉行はおりましたが、彼らも私にお伺いを立ててきたのです。

それに、私の親戚も秀吉の縁者も、武家奉公したいものは、皆やってまいりました。私の母の朝日も、兄の木下家定の家で、不平は言いつつも、贅沢な暮らしを楽しんでおりました。

長浜時代のことは、大河ドラマなどでもよく扱われます。江戸時代になると、孔子さまの教えとやらが盛んになって、奥方たちは大奥のようなところに引っ込んでしまいます。

私たちの時代は、そのようなことはなかったのですが、信長さまのような名の通ったお武家さまのおうちでは、家族といっても、普通の親子、兄弟、夫婦の関係と違って、よそよそしいものでございました。

しかし、秀吉は庶民の出ですから、令和の家族と同じような、血の通ったものだったと思います。だから、ドラマにしても、リアリティをなくさずにホームドラマ仕立てにできるというわけです。

私だけでなく、義母のなかも秀吉の母ということで、地元の有力者が近づいてくることがありました。長浜の町に人を集めねばということで、朱印地にして税を免除したのでございますが、そうしたところ、近在の農村から引っ越す人が急増しまして、田畑を耕す百姓が足らなくなるという村も出てまいりました。

そこで、奉行たちが秀吉に相談して、この措置を停止すると言い出したものの、町人たちは猛反対! なんと、義母のところに陳情にでかけたのでございます。義母も、それは困っているだろうと同情して、秀吉に意見したものですから「おっかあには敵わん」とか言って、元通りにしたということもございました。

このとき、秀吉がもらっていたのは北近江三郡と申しますが、坂田郡の南部の佐和山城などは、別の方々の支配下でございましたし、伊香郡の山本山城には、浅井から織田に寝返って小谷城陥落のきっかけを作った阿閉貞征さまが、そのまま留まっておりました。

阿閉貞征さまは秀吉とは分担をどうするかで揉め事が絶えなかった一方で、信長さまには、力自慢で相撲を披露などして気に入られ、直参扱いされて、甲州遠征にも一緒に参加しています。しかし、本能寺の変ではいち早く明智光秀さまに味方し、長浜城の私たちを攻めて来られ、山崎の戦いでは、明智方の先鋒の部隊に入っておられましたが、秀吉に捕まえられてあえなく処刑されてしまいました。

■長浜城主となった秀吉の家臣たち

長浜城主ともなると、これまでのように、信長さまの家来たちをそのたびに預けられて使う、というわけにもいかなくなりました。そこで、一族の皆をはじめ、これまで与力だった直参衆、さらには浅井の家臣たちで降ってきたものも徐々に家臣の列に加わりました。

秀吉の親戚では、弟の秀長(この頃は長秀といってましたが、あまり難しくは考えずに皆さんのよくご存じの名前で呼んでおります)、姉ともの夫である三好吉房(これも三好と名乗ったのは後のことです)、私の伯父の杉原秀次、兄の木下家定、義兄の浅野長政などです。義母の親戚の子どもたちである加藤清正、福島正則などもやってまいりました。

このうち、杉原家次についてはあまり知られておりませんが、大事な人なので少し紹介しておきます。私の母の兄で、長浜時代には家老格となって秀吉の留守中の差配は、この伯父と私が相談しながらしておりました。

福知山城や坂本城の城主で3万石ほど領していましたが、賤ヶ岳の戦いのあたりから心身の調子が悪くなり、小牧長久手の戦いの年になくなりました。子の長房は、父親が死んだときには11歳でしたので、坂本城主には浅野長政がなって養育し、13歳からは秀吉に仕え、23歳のとき豊後杵築城主、その3年後には、但馬豊岡城主になり浅野長政の娘と結婚いたしました。

▲賤ヶ岳古戦場(滋賀県長浜市) 出典:PIXTA

のちに大名としては跡継ぎがなく廃絶いたしましたが、家次の弟の子孫が旗本として幕末まで名跡を維持しております。

この杉原家がひとつの例でございますが、江戸時代の大名と違って、親が死んだときに子が幼少ならば、領地は召し上げで、養育料程度のものだけが与えられ、成人したら、徐々に出世させていくというのが普通だったのです。

尾張・美濃出身者は、おもに信長さまに使えていたのが与力になったり、転籍してきた方がほとんどでございますが、蜂須賀小六、竹中半兵衛のほか、山内一豊(土佐藩祖)、前野長康(但馬出石城主)、尾藤知宣(讃岐宇多津城主)、神子田正治(小牧長久手の戦いで改易)、戸田勝隆(大洲城主)、桑山直晴(和歌山城代)、堀尾吉晴(松江藩祖)、加藤光泰(大洲藩祖)、仙谷秀久(小諸藩祖)、一柳直末・直盛(播磨小野・伊予小松藩祖)、石川光政(旗本)、佐藤方政(儒学者・佐藤一斎の先祖)などがおりました。

また、近江衆では宮部継純(鳥取城主)、新庄直頼(常陸麻生藩祖)、石田正継・三成、田中吉政(柳川城主)、脇坂安治(竜野藩祖)、小堀正次(小堀遠州の父)、片桐且元、増田長盛などがおりました。

■信長からの手紙に寧々感激

長浜時代には、秀吉の姉である、ともの子を養子としたことがございます。私たちには子どもが授からず諦めかけている頃に、義姉に3人目の子が生まれました。そこで、私に子が生まれたらそちらを跡継ぎにするという条件で、とりあえず養子にすることを承知いたしました。

しかし、この子は、天正4年(1576年)10月14日に亡くなってしまいました。そこで、秀吉はきちんとした形で側室を置きたいと言い出しました。そこで、私は秀吉が播磨に出かけているうちに、安土の信長さまのところにご挨拶に行って、世間話をしているときに愚痴などもらしたところ、信長さまからお手紙をいただいたのでございます。

「このほど、安土に初めて尋ねてくれて嬉しく思う。その上に、土産の数々も美しく見事でとても言葉では表せないほどである。お返しに、私の方からも「何を差し上げたい」と思ったが、そなたの土産があまりにも見事なので、何を返したら良いのか思いつかない。この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。そなたの美しさも、いつぞや会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。藤吉郎が何か不足を申しているとのことだが、言語同断でけしからんことだ。どこを探しても、そなたほどの女を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。これより先は、身の持ち方を陽快にして、女将さんらしく重々しくし、やきもちなどは妬かないように。ただし、女房の役目として、言いたいことがある時は、言いたいことをぜんぶ言うのではなく、ほどほどに止めておくとよい。この手紙は、羽柴にも見せるように」

誠に温かいお心遣いでございました。そして間もなく、秀吉に信長さまから話があったらしく、信長さまの4番目のお子である於次丸さまを養子にせよということになりました。

秀吉が申すに、信長さまは「この子は寧々にやるのだ。だから、お前の妾にこれから子ができても、寧々の子である於次丸が跡を継ぐのは当然ということだ」と仰ったようでございます。

▲まさに信長さまはスパダリ(スーパーダーリン)です イラスト:ウッケツハルコ

そんなわけで、秀吉が側室を置くことは、信長さまも公認のようにはなりましたが、私の立場も、秀吉の妻であり、嫡子である於次丸の母ということになり、気持ちの切り替えをすることにしたわけです。

■秀吉の中国征伐で初陣を飾った於次丸だったが・・・

さて、於次丸(のちの秀勝)が長浜にやってまいりましたのは、天正5年(1577年)のことで、数えで10歳でございました。秀勝の傅役としては、お市の方に従って織田家から浅井家に入り、お市の方と三姉妹を連れて小谷城を脱出した藤掛永勝がやってきました。

やがて元服して秀勝と名乗り、天正9年(1582年)頃からは、秀吉の代理で領内に公文書を出すことも多くなりました。

本能寺の変があった天正10年(1582年)には、秀吉の中国征伐について備中へ向かい、3月17日、備前児島の常山城攻めで初陣を果たし、高松城攻めに参加しているときに、信長さまの凶事を知ることになります。

山崎の戦いに参加したのち、大徳寺で行われた信長さまの葬儀で棺を担いだりし、清洲会議では明智光秀さまの遺領である丹波亀山城の城主となり、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦いでも活躍いたしました。

▲亀山城跡 出典:PIXTA

従五位下・丹波守から始まり、天正13年(1585年)には、正三位・権中納言になりましたが、体調を崩し12月10日に丹波亀山城で死んでしまいました。18歳でございました。最後は信長さまが亡くなってからのことなので、実の母が看取ることになりました。

※ 長浜時代の家来については、『近世への扉を開いた羽柴秀吉』 (太田浩司著・淡海文庫)に基本的には従った。また、同氏は森岡榮一「長浜在城時代の家臣団」(『豊臣秀吉事典』新人物往来社)から多くを引用されている。また、太田氏の同著については、長浜時代の問題全般にわたって参考にしている。

※ 石松丸秀勝については、実子説もあるが母親は見当がつかないし、養子説も確度の高い情報はない。そのなかで秀次の兄弟というのは、菩提寺が秀吉の姉ともが帰依していた日蓮宗系であることや、秀次、秀勝と三男の秀保まで年の差が大きいことなどもあって、相対的に説明しやすいので仮に採用した。

※ 竹生島奉加帳という文書に「南殿」という側室とも見える女性の名があるが、これが石松丸の母だとしたら、何か伝承があってもよさそうなものだ。長浜の曳山祭が石松丸の誕生を祝って始められたというのは、間違いとも正しいともなんともいえない。

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