勝って当然だった「長篠の戦い」で秀吉が信長に褒められたワケ

■三段構えの鉄砲隊で有名な「長篠の戦い」の実際は?

武田信玄さまが亡くなられたらしい、そのことを隠密の働きで察知したのち、浅井・朝倉を滅ぼし、足利義昭さまを京から追い出したのが天正元年(元亀4年、1573年)でございます。

これは、元亀年間に続いた危機から、織田家中がなんとか脱して、天下統一へ向かっての歩みを再開する年でございました。

それからも戦いは続きましたが、敵の倍以上の兵力で横綱相撲ができるようになりましたので、長浜城で待つ私たちも、秀吉たちが命を落とすのではないか、というような神経をすり減らすことは少なくなってまいりました。

そののち、天正6年(1578年)くらいからは、中国攻めの司令官に専念することになり、姫路城という現地の拠点もできますが、それまでは信長さまの命令で忙しく各地を転戦しておりました。

ただ、その間にも、しばしば長浜に戻って参りましたし、湖北三郡の経営や長浜の町造りにもこまごまと指示を与えていました。

その間の戦いのことは、私は現場近くにいたわけでなく、あまり詳しくは聞いておりませんでしたし、殿方たちのお話ですので細かくは書きませんが、ざっとご紹介したいと思います。

武田勝頼さまは、信玄さまの死を隠しておられましたが、 天正2年(1573年)には、東遠江の天神城(掛川市南部)を攻略するのに成功されていました。この城は、信玄さまが攻めても落ちなかった難攻不落の名城でございまして、これを手に入れたことは大きな自信になりました。このとき、信長さまも救援のために出陣されたのですが、間に合いませんでした。

そして、天正3年(1579年)になると、勝頼さまは、信玄さまの三回忌を4月に執り行って、その死を公表されたのち、奥三河に出陣され、奥方を人質にされているのに武田を裏切って徳川についた奥平信昌さまが籠もる長篠城を、1万5千もの大軍で囲まれたのです。これを受けて、信長さまは徳川方と合わせて3万8千にもなる大軍を率いて、自ら出陣されました。

この戦いは、武田騎馬軍団を織田方が馬柵で防いで動きを封じ、三段構えの鉄砲隊で射撃して殲滅した戦いだと言われてるそうでございます。しかし、私が聞いているのは、確かにこれまででは考えらられないほどの鉄砲隊が活躍したのは事実でございますが、織田・徳川連合軍の兵力が倍以上だったのに、勝頼さまが老臣たちの諫言を無視して決戦に臨まれたことが無茶だったということです。

▲「長篠の戦い」の決戦地にある馬防柵 出典:PIXTA

三方ヶ原の戦いも長篠の戦いも、騎馬隊や鉄砲隊の大活躍で勝負が決まったのでなく、数が勝る方が負けない横綱相撲をして勝っただけ、というあまり面白くないお話しでございます。

秀吉もこの戦いに参加いたしましたが、それほど活躍の機会はなかったそうでした。しかし、長浜に近い国友村で生産した鉄砲が大活躍したことで、信長さまからはお褒めに預かったと聞いておりきます。

■信長への当てつけで茶釜と一緒に自爆

長篠の戦いで勝った信長さまは、越前でも攻勢に出られました。越前は桂田長俊さまが守護代ということで、朝倉旧臣をまとめて治められていたのですが、これに不満だったのが府中(越前市)の冨田長繁さまでした。

冨田さまは、加賀の一向一揆衆と手を結んで、桂田さまを攻め殺してしまわれます。しかも、冨田さまと一向一揆衆は、このあと仲違いして冨田さまも殺され、越前も加賀に続いて一揆衆の国持になってしまいました。もはや石山本願寺の統制もきかなくなっていたそうでございます。

そこで、信長さまは柴田勝家さまや秀吉らに命じて、一気に越前に大軍を送り込み、反抗するものは皆殺しにするように命じられ、2千人ほどが殺されたと聞きます。この頃から、信長さまはしばしばこういうやり方をされるようになりました。最初に抵抗勢力を地元勢に整理させ、最後には一網打尽でございました。

北国では、もともと一向一揆を共通の敵にして、信長さまは上杉謙信さまと良い関係でございました。天正2年には、信長さまは狩野永徳さまの国宝『洛中洛外図屏風』を、謙信さまにプレゼントして喜ばれたりしています。

しかし、こうして越前を平定したあと、織田軍は加賀へ進出していくと、一向一揆は上杉さまと和睦し、信長さまと上杉勢との対決が不可避になりました。

そして、柴田勝家さまに越前を任せられ、北国探題のような形で、秀吉にも手伝いを命じられました。ところが、この陣中の軍議で柴田さまと衝突して、秀吉は長浜に引き揚げてしまいました。

信長さまはおおいに怒られましたが、秀吉は勝家さまにも落ち度がある話なので、処分されたりしないだろうと高を括っておりました。ただ、刃向かう気がないのを示すために、毎夜、酒宴など開いてどんちゃん騒ぎをして様子を見ていました。

▲秀吉はどんちゃん騒ぎをしておりましたが、私はハラハラ… イラスト:ウッケツハルコ

そうしたところ、大和の信貴山城の松永久秀さまが、兵を挙げて信長さまから叛いたという報せがまいりました。信長さまは、松永さまをたいへん高く買っておられたのですが、松永さまの過去の悪行について、ときどき度が過ぎたからかいを人前でされたり、あるいは、大和国は難しい土地柄なので、松永さまだけには任せておけず、ライバルで地元勢力から出た筒井順慶さまも重用されていました。

これは松永さまにとって面白くありません。そこで足利義昭さまや上杉謙信さまと連動して反旗をひるがえされたのです。加賀では、秀吉が去ったあとの柴田軍が、味方の畠山氏の七尾城の陥落を知らないまま手取川を渡って能登へ向かったものの、上杉軍が大軍で押し寄せたので、撤退中に大敗して多くの兵が死んでしまいました。天正5年(1577年)9月のことです。

しかし、謙信さまは冬が近づいたのでいったん越後に引き揚げてしまったのです。そこで信長さまは、嫡男信忠さまを信貴山城攻撃に派遣し、秀吉に援軍を申しつけられました。

謙信さまの上洛もなく、松永さまは追い詰められて、この翌月の10月に自害されました。そのときに、平蜘蛛という茶釜の名器を献上するなら許してやろう、と信長さまが仰ったことへの当てつけで、一緒に自爆されたという話もございます。

そして翌年の天正6年(1578年)3月には、上杉謙信さまが越後の春日山城で亡くなられました。なんでも寒い夜に厠で倒れられたのだそうです。この頃、謙信さまは諸国に兵を募っておられましたが、はたしてこれが関東攻めのためなのか、それとも信長さまを撃破して上洛するつもりだったのかは、わからず仕舞いでございます。

■似た者同士だった織田と毛利が決裂した真相

長浜城に落ち着いた秀吉は、信長さまの本願寺攻めや紀州攻略にも参加しておりましたが、中国地方平定という大仕事がまいりました。

もともと、毛利氏の勢力圏は備中や伯耆まででしたし、信長さまは摂津まででしたから、織田と毛利は中間地帯で紛争が起きると協力して押さえ込んだりしておりました。また、三好三人衆などに対抗して、足利義昭さまを支える立場も共通していました。皇室を大事にするということでも、織田と毛利はよく似た考えだったのでございます。

石山本願寺と信長さまも好んで敵対したわけではありません。そして、毛利は信長さまにとって本願寺との対話の仲介者でもありました。 

毛利との対話の窓口を務めていたのが秀吉で、そのなかで毛利方の外交僧だった安国寺恵瓊さまが「信長はそのうちに高転びするだろうが、藤吉郎はさりとての人物」などと書状に書かれたという有名な話もあったわけです。

そして、織田と毛利にとって共通の敵ともいえるのが、備前の浦上宗景さまだったのです。浦上氏というのは、播磨と備前の守護だった赤松氏の守護代でしたが、この頃は赤松氏をしのぐ勢いでした。その浦上氏の麾下の有力者に、宇喜多直家さまというくせ者がおりました(奥方のおふくは、のちに私たち夫婦の良き友達になります)

ところが、浦上宗景さまが天正元年の終わりごろ、信長さまの保護を受けたいと言いだして、播磨・備前・美作三国支配についての朱印状を信長さまは与えたのです。そして、播磨の別所長治、小寺政職、赤松氏などと信長さまは謁見されました。

しかし、逆に宇喜多直家さまは、備前の支配者となるために毛利さまと同盟されたのです。とはいえ、織田も毛利も前面衝突は避けたいので交渉が重ねられたのですが、天正4年(1576年)の2月に、足利義昭さまが毛利領の備後鞆の浦に強引に引っ越しされたのです。

▲石山本願寺推定地 出典:PIXTA

そこから反信長の号令を各地に発せられたことで、織田と毛利は決裂したようになり、7月に毛利水軍が、兵糧攻めにされていた石山本願寺に水軍を使って食料を運び込んだので決裂したわけです。

■秀吉の片腕、黒田官兵衛の登場

さらに、天正4年5月には、毛利軍は播磨に水陸から攻勢をかけて、いよいよ本格的な対決が始まりました。この頃、小寺政職の家老で小寺孝高という武士が秀吉のところに挨拶にやってまいりました。

2人には通じるものがあったようで、こののち秀吉の片腕となっていきます。大河ドラマの主人公にもなった黒田官兵衛でございます。

▲黒田官兵衛の甲冑 出典:PIXTA

黒田家は備前長船を本拠にしていました。この頃は、戦乱のなかで播磨の小寺氏の元にあって主君の名字を名乗っていたのですが、もともとは近江源氏の一党で、秀吉の領内である伊香郡黒田庄(長浜市木之本町)がルーツですから、長浜城主である秀吉に親近感があったのかも知れません。

天正5年になると、秀吉は信長さまから中国方面の司令官のような立場につけられて播磨に出陣するのですが、官兵衛は自分の居城だった姫路城こそ秀吉の播磨統治の本拠にふさわしいと言って、この城を明け渡しました。

そして官兵衛の力添えで、三木城の別所長治、竜野城の赤松広英から人質を差し出させ、播磨一帯を抑えることに成功いたしました。官兵衛自身も息子を人質に出し、これは長浜城で預かることにいたしました。のちの福岡城主・黒田長政です。

このあと、天正7年に官兵衛さまは、信長さまに謀反をした荒木村重さまを説得に有岡城へ向かったとき、城内に幽閉されたことがございます。官兵衛さまの消息がわからなくなったものですから、荒木方に寝返ったのに違いないと信長さまが怒られ、人質の長政を斬れと命令されました。

秀吉は、官兵衛を信じてなんとか助けたいとその場をごまかし、私に匿うように手配させたのでございます。

さらに、秀吉は国境にあった毛利方の上月城を攻撃し、ここでは見せしめのために降伏を許さず、200人ほどは皆殺しにしたと聞きました。これには、たいそう心が痛みました。

どうも、この頃から信長さまは、恨みを買うような命令をいろいろ出されるようになり、これがのちの本能寺の変にもつながっていくのでございます。

※ 越中では一向宗に対抗するためにも織田・上杉は一致していたが、上杉が本願寺と和睦し、能登に食指を伸ばし、織田軍が到着する前に七尾城は陥落し(「霜は軍営に満ちて秋気清し」に始まる『日本外史』所収の漢詩は有名だが謙信の作ではなさそうだ)、加賀の手取川では柴田勝家の軍勢を蹴散らすのに成功したが、翌年に大規模な出陣の準備中に急死した(1576年)。上洛を企図していたともいわれるが、北条攻めだったと見るほうが一般的である。この直前に死んだ北条氏康は、一時、謙信と組んだが、遺言で武田との同盟に戻るように指示していた。なお、賤ヶ岳の戦いの経緯で、秀吉は敵の敵である上杉景勝と手を組み、上杉氏は豊臣政権の傘下に入る。

※ 福岡市の地名の由来は岡山県邑久郡長船町にある。黒田如水の先祖は近江源氏京極氏の一党で、賤ヶ岳に近い湖北の伊香郡木之本町黒田というところから出ている。如水の曾祖父にあたる高政が事情があって備前に移り、その子の重隆が播磨に転じて、その子の職隆が赤松一族の小寺氏に属し姫路城を得た。

※ 天神城は掛川市内で、掛川城と遠州灘とを隔てる山地にある。小さい城だが、難攻不落で、徳川と武田の攻防戦の舞台となった。

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