「天文学者が欲しい」オスマン帝国が戦争に勝つために必要だった占星術

人気漫画『呪術廻戦』に登場し、幅広い層に知られるようになった呪術。この文化は日本に限ったことではなく、諸外国にも古くから存在します。中東イスラム世界にも呪術に近い信仰や文化があり、占星術に戦争の行方を任せたこともあったそう。歴史作家の島崎晋氏が解説します。

※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

■星の巡りに左右されたオスマン帝国の行方

中東イスラム世界にも呪術に類した信仰や文化が存在します。サウジアラビアなど一部の国や地域を除いて魔除けが流()布()し、占星術にも長い伝統のあるのがなによりの証拠です。

▲第二次ウィーン包囲 出典:ウィキメディア・コモンズ

占星術について語るには、1683年の第二次ウィーン包囲から始めるのがよいでしょう。オスマン軍は、1529年にも大軍をもってウィーンを包囲したことがありますが、そのときは冬の訪れが近いというので、わずか半月ほどで撤退しました。

2度目の包囲は満を持しての挙と思いきや、山脈を越えて大砲を運搬することができず、大軍ではありながらも決め手となるはずの重火器を欠いた包囲となりました。案の定、2か月経過しても城門は破れず、厭戦(えんせん)気分が漂い始めたところへ、ポーランド王をはじめとするカトリック側の援軍が到着。オスマン軍はたちまち総崩れとなります。

オスマン軍は何度か態勢を立て直そうとしますが、いずれも叶わず、2か月にわたる和平交渉の末、1699年1月26日午前10時、ドナウ川の中流に位置するセルビアの小村カルロヴィッツで条約調印式が開始されます。

ところが、1時間半を過ぎても式典は終わりませんでした。オスマン帝国代表が署名を引き延ばしていたからです。遅延の理由は、

「星の巡りが、この日の11時45分に、オスマン帝国にまたとない幸運がもたらされると示した」

という、宮廷お抱えの天文学者からの助言によるとのこと。各国代表は辛抱強く待ち続け、オスマン側の求める時間になってようやく調印がなされました。

▲星の巡りに左右されたオスマン帝国の行方 イメージ:PIXTA

■プロイセン王国台頭の理由は天文学者?

ここでいう天文学者は、いまだ占星術師と不可分の存在で、オスマン帝国では宣戦布告から軍の移動、艦船の進水式に至るまで、天文学者の助言に従うのが倣いでしたので、このような遅延はカルロヴィッツ条約の調印式に限ったことではありませんでした。

希望の時間に調印式を行った効果なのか、オスマン帝国は1711年のプルート条約で、ロシアから黒海北岸のアゾフを奪還するとともに、アゾフ周辺の要塞を破却させることにも成功。1739年のベオグラード条約では、1718年のパッサロヴィッツ条約で失ったバルカン半島のアドリア海沿岸部から、ワラキア(現在のルーマニア西部)一帯を取り戻すことにも成功しています。

けれども、旧態依然とした装備や経済システムでは、産業革命や財政革命の渦中にあるヨーロッパ列強を相手に上から目線で居続けることはできず、オスマン帝国と対等な相手は存在しないとする姿勢も放棄を迫られ、1763年には新興著しいプロイセンに使節を派遣しがてら、ある要求をもちかけます。それは「王家お抱えの天文学者を譲ってくれないか」というものでした。

オスマン帝国では、プロイセン台頭の原動力は優秀な天文学者がいるからだ、と判断したのでしょう。オスマン側は見返りとして、西欧ではまだ珍しい軍楽隊を贈るつもりでいたようです。

学術愛好家として知られる神聖ローマ皇帝ルドルフ二世(在位1576〜1612年)は、化学や天文学にも興味を抱き、デンマーク出身のブラーエやケプラーをお抱え天文学者として雇っていましたから、同じドイツ語圏のプロイセンにもお抱え天文学者がいて不思議はありません。

時のプロイセン王フリードリヒ二世(在位1740〜1786年)は、啓蒙専制君主の1人に数えられる人で、小さいながらロココ様式の傑作と称えられるサンスーシ宮殿を築き、話し相手としてフランスから啓蒙思想家のボルテールを招くなど、学術を愛したことで知られています。

一方では軍事費を捻出するため、ひそかに錬金術の実験をさせていたというのですから、お抱え天文学者がいて、占星術をやらせていたとしてもおかしくないのですが、その有無はともかく、フリードリヒがオスマン帝国の申し出を謝絶したことは事実でした。

▲フリードリヒ二世 出典:ウィキメディア・コモンズ

■星の名前にアラビア語起源が多い理由

中東イスラム世界の占星術は、古代インドと古代ギリシア両方の影響を受けていますが、どちらかといえば、古代バビロニアの占星術を継承する古代ギリシアの影響のほうが大でした。

11世紀頃までは、現在のイラクを中心にサービア教徒という星辰崇拝者も多くいたようで、それらの影響もあってか、9世紀にはアブー・マアシャル(ラテン名アブルマサル)という中世最大の天文学者が現れます。

彼は『大序説』や『小序説』といった占星術の入門書、アッバース朝の正統性を論じた『宗教と王朝の書』、個人を占うための『誕生年回帰の書』など多くの著作を残し、そのすべてがラテン語に訳され、西欧に伝えられたため、彼の考案した占星術は、中世カトリック世界にも大きな影響を与えることになりました。

▲占星術の写本の挿絵 出典:ウィキメディア・コモンズ

アルカリやアルコールなど、アラビア語起源の化学用語が多いことからも明らかなように、11〜13世紀のカトリック世界はイスラム世界の学術に敬意を払い、翻訳活動を通じた摂取に貪欲なまでに励みました。

アルコル(死兆星)やヴェガ、アルタイルなど、星の名にアラビア語起源が多いのもそのためです。

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