「この上司の元では心休まらぬ…(秀吉談)」信長の恐怖政治が炸裂!

■播磨制圧中に“人垂らし”秀吉には珍しい失言

出雲大社は、伊勢神宮に似た白木造りの大きな社殿でございます。ところが、これは江戸時代になって神仏混合が嫌われるようになってから建て直されたもので、名前も出雲大社でなく「杵築大社」と呼ばれておりましたし、同じ豊臣秀頼が寄進した、現在の北野天満宮に似た朱塗りの社殿でございました。

▲北野天満宮 出典:PIXTA

兵庫県の但馬名草神社に美しい五重塔がございますが、これは尼子経久さまが出雲大社に寄進した塔を移築したものなのです。つまり、神々しいというよりは、もっと人間くさい場所だったわけでございまして、だからこそ、出雲の阿国さんもここから出たというのも納得できる少し猥雑な雰囲気だったのです。

戦国時代の出雲の守護は、近江源氏の京極氏でございますが、この人たちは、京や近江に住んでおり、守護代として一族の尼子氏が派遣されておりました。滋賀県の犬上郡甲良町に近江鉄道の尼子駅がございますが、そこが出身地です。

この尼子氏の経久さまは、一時は防長を除く中国地方を支配するほどでしたが、大内氏、毛利氏とのいわば三強対決に勝利したのは、安芸の毛利元就さまでございました。

しかしながら、尼子家の家臣で山中鹿之助という剛の者が、一族で京の禅寺にいた勝久さま(経久の次男国久の孫)を擁して、織田方に属して戦功をあげ、備前との国境に近い播磨上月城を攻め落としたあと、信長さまと秀吉からこの城を預けられました。天正5年(1577年)暮れのことでした。

この頃は、但馬でも織田方の勢力は拡大して、秀吉の弟の秀長さまが活躍していましたが、秀吉から竹田城を預けられておりました。最近、天空の城とかいって雲海に浮かぶ廃墟が人気の竹田城でございます(現在の城跡の見事な石垣は、秀吉が天下をとってから修築されたものでございまして、この頃は粗末な砦でした)。

こうして、秀吉の播磨制圧は万事順調かと思ったのですが、突然、播磨東部の三木城にいた別所の者たちが、毛利について反旗を翻したのでございます。別所家の当主は長治さまという20歳代の若者で、重棟と吉親という2人の叔父の補佐を受けておりました。

黒田官兵衛さまが窓口にしていたのは、重棟さまで、官兵衛さまの子の長政と、重棟さまの娘さんが婚約していました。しかし、これに吉親さまが嫉妬したようです。

おまけに、織田方についた武将たちとの軍議で、重臣の長井四郎左右衛門という者が、長口舌を振るったのに苛立った秀吉が「戦の指図は我らがするので、播磨衆は槍働きをお願いしたい」と高飛車に言って、国人たちの気分を害するという事件も伏線にございました。

秀吉は、信長さまから司令官に任命されて気分が高ぶっていたのでしょう。あの人垂らしにしては、珍しい失言でした。

■非情な信長を見て「明日は我が身」

この三木城での異変を見て、毛利の大軍が上月城に攻めてまいりました。秀吉は慌てて救援に向かいましたが、三木城と上月城という播磨の東と西の端での二正面作戦は、苦しいところでございました。

急ぎ、安土城の信長さまに応援を頼んだのですが、信長さまは非情にも、上月城は尼子勢の頑張りに任せて、三木城を先に片付けよと仰り、三木城を支える神吉城と淡河城を落とせと指示されました。

つまり、尼子勝久さまや山中鹿之助さまを見捨てろということです。たしかに戦術としては合理的なのですが、情においては忍びがたい話でございます。さすがの秀吉も大いに悩んだようでした。

こうした信長さまの非情さが、いつか自分たちもという心配になり、摂津の荒木村重さまの裏切りを誘いました。

もともと摂津の有力国人だった荒木さまは、幕府からも重んじられていた池田さまの家臣でした。ところが、三好さまと信長さまとの争いのなかで、信長さまに気性を気に入られ、その後押しで池田家を乗っ取った方です。

信長さまから摂津の旗頭とされ、播磨攻めでも活躍されたのですが、中国攻めの司令官に秀吉がなったのも気に入らなかったようでございます。信長さまは、松永久秀さまが反乱を起こしたときと同じように、しつこいほどに翻意を求め、村重さまも一度は明智光秀さまたちの説得を受け入れられ、信長さまに詫びをいれることになりました。

ところが、安土へ行くために茨木城に立ち寄ったところ、中川清秀さまが「信長さまは部下にいったん疑いを持てば、いつか必ず滅ぼそうとする」と心配を口にしたので、気が変わって伊丹市の有岡城に戻ってしまったのです。

秀吉も、村重さまと仲が良かった官兵衛さまを有岡城に派遣したのですが、村重さまが官兵衛さまをそのまま土牢に監禁して、消息しれずになってしまったことはご存じの通りです。

村重さまは有岡城に篭城し、1年も刃向かいましたが、一緒に行動していた茨木の中川清秀さまと高槻の高山右近さまが織田方に戻ってしまいました。信長さまが宣教師たちにキリスト教布教の許可を取り消すと脅して、高山右近さまを説得されたことがものを言いました。

▲高山右近像 出典:PIXTA

■美人でも関係なし! 凄惨な信長の仕打ち

毛利軍も積極的には救援に乗り出してくれないので、長男・村次さまのいた尼崎城に移りました。このとき、有岡城にほかの妻子などを残していたのですが「尼崎城と神戸の花隈城を明け渡せば妻子を助ける」と信長さまが言ったのに、村重さまは抵抗を続けられました。天正7年9月のことです。

▲有岡城跡 出典:PIXTA

そこで、信長さまは主だった36人を京の市中を引き回し、そして六条河原で斬られたのです。このなかに、荒木さまの奥方で「だし」という変わった名前の方もおられ、たいへんな美人だったので京の人々の哀れを誘ったそうでございます。大河ドラマ『軍師官兵衛』では、桐谷美玲さんが演じていました。

しかも、家来たちの家族は何百人も小屋に閉じ込めて焼き殺してしまわれました。こういうやり方は珍しかったので、人々は震え上がりましたし、私たちも聞いてショックでございました。

ひとつの理由は、石山本願寺がしぶとく抵抗し、信長さまも人生50年の時代では老境に入ってこられたなかで、元気なうちに信忠さまにしっかりした形で天下を引き渡したい、そのためには、以前のように時間稼ぎして抵抗する敵に長く構いたくない、という気分になっておられたのかもしれません。

そして、村重さまは、待っていても毛利の援軍は来そうにもないので、毛利氏の備後に逃げ出されました。しかし、のちの秀吉の時代になって、堺、ついで京に出てきて、茶人として名声を築かれました。千利休とも親交があったといいます。また、秀吉のお伽衆にも加えられました。

話は戻り、ちょうど、荒木村重さまが最後の抵抗をしておられた天正7年の8月には、備前の宇喜多直家さまが、ついに織田方に付きたいという申し出をされてこられました。

もともとは、主君の浦上家と対立して毛利方について備前を統一されたわけですが、2年ほど前から、秀吉ともやりとりをしていました。このときに活躍したのは、堺出身の商人である小西隆佐さま、その子で後に肥後宇土城主でキリシタンとしても知られる行長さまです。

ただ、寝返るとなれば毛利方からの復讐も受けますから、毛利にその力はないというタイミングを計っておられたのでしょう。秀吉はこの報告を持って、勇んで安土の信長さまのもとに報告に行ったのですが、信長さまは「勝手にそんな大事な和議をまとめるな」とご機嫌ななめで、秀吉を追い返してしまいました。

しかし、このあたりは秀吉にとって、まったく計算外でもなかったわけで、しばらくすると、信長さまからお許しが出ました。信長さまは、「和議をまとめたこと」は認めるが、秀吉の勝手にした約束を追認しただけだ、と言えるようにしておきたかったのかもしれません。

■右腕だった佐久間信盛も追放してしまう信長

信長さまは、秀吉を毛利攻めの司令官にしましたが、それとは別に、いろいろな交渉もされていました。九州の大友宗麟さまには、もともと母上が大内義隆さまの姉なので、大友氏の家督を自分が継いでいると主張されていたおり、防長二国を攻め取ったら差し上げると言った約束もされていました。

また、毛利さまや足利義昭さまとも独自のルートで交渉されて、義昭さまを西国の公方さまということでどうだ、といったことも話にでていたようでございます。そうなると、宇喜多直家さまを犠牲にせざるをえないこともあるわけです。その意味でも秀吉の独断ということにしておきたかったのかもしれません。

尼子さまのときも、秀吉は助けたかったのに、信長さまの命令で見捨てさせられたわけで、秀吉もつらい思いを何度もしています。

しかし、ともかくも荒木さまは片付けられ、宇喜多さまも信長さまの側につき、さらには、あの頑強に抵抗していた石山本願寺も、帝の斡旋をお願いして退去することになりました。しかし、三木城の抵抗はその間も続いておりました。

丹波では天正7年(1579年)の6月、八上城の波多野秀治さまが、明智光秀さまに降参し安土に送られました。光秀さまが助命を約束していたのに、信長さまはこれを磔にされました。

こうして、ようやく畿内とその周辺からは信長さまに刃向かう者はいなくなった一方、信長さまが、家来たちや同盟者に対しても横着になってくる、ということも目立つようになりました。

さらに、石山本願寺が退去したあとの、翌天正8年(1580年)8月には、本願寺攻めの司令官だった佐久間信盛さまが追放される事件が起きました。織田家家臣でも筆頭格で、秀吉の大先輩に当たる方ですから、私もびっくりいたしました。

?8月2日に信盛さまは、 顕如さまの子で最後まで抵抗していた教如さまの本願寺退去を検視する勅使として、松井友閑と共に再び同行されました。ところが、25日、信長さまから19ヶ条の折檻状をもらったのでございます。内容を簡単にまとめると、こういうことです。

石山本願寺が手強いので、戦も調略も積極的にせず、天王寺城に籠もっていたら、相手は坊主だからそのうちに出て行くだろうと怠けていた。

光秀や秀吉は良くやっている。勝家もそれを聞いて奮起し、加賀へ侵攻し平定した。戦いで成果がないならせめて、謀略などをこらし、信長に意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらない。

信盛には各地の武将を与力につけたが活かしていない。家康の伯父の水野信元が武田に通じているというので成敗したのち、刈谷城をやったのに、水野の旧臣を使わずに追放し、新規に召し抱えもせずに知行を直轄とし、金銀を貯めているなどもってのほか。山城の山崎でも、信長が調略しておいた者を追放して使わず同じことだ。家来を増やさず、けちくさく溜め込むことばかり考えるから戦功を上げられなかった。

朝倉攻めの刀根坂の戦いの跡の軍議で、怠惰をしかったところ、弁解だけして席を蹴って立ったので、自分は面目を失った。

三方ヶ原へ援軍で行ったときには、敗戦は仕方ないとしても、兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていればともかく、一人も死者をだしていないうえに、一緒に行った平手汎秀を見殺しにした。

どこかの敵をたいらげ、帰参するか、どこかで討死するしかない。高野山にでもしばらく籠もっておれ。

内容はもっともと言えば、そうなのですが、引退させるくらいならともかくも、追放までするのは酷すぎる、秀吉も今はいいが将来は大丈夫かと心配になりました。

のちに、明智光秀さまが謀反をされたのも同じ気持ちからだろうと思うのです。信盛さまは、結局、翌年に熊野のほうの温泉で療養しているうちに亡くなりました。嫡子の信栄さまは、本能寺の変の年に岐阜の信忠さまの家臣として取り立てられ、信雄さまにお仕えされたり、秀吉のお伽衆とし、子孫は旗本となられました。

▲「秀吉が悩まれた信長さまの指示ってどんなでしょう?」 イラスト:ウッケツハルコ

※島根県立古代出雲歴史博物館には、古代、慶長期、寛文期(現状)の三大の神殿の模型がある。

※追放されたあとの佐久間信盛がどうなったのか、確実なところは不明である。熊野方面で死んだらしいが、子の信栄が2年後に赦免されているところを見ても、それほど厳しく糾弾されたのではなく、古参役員が退職金なしにクビになったといったところだろうか。江戸時代の旗本には、佐久間姓の者が多くおり、ほとんどが彼らの一族のようだ。軍学者である松代藩の佐久間象山も一族だ。

※佐久間信盛と一緒に追放されたなかには、林貞秀(佐渡守。信長が子どものときから仕え、筆頭格の家臣だった。昔、弟の信行を跡継ぎにしようという陰謀に加担したのが理由だった)、安藤守就(西美濃三人衆の一人)、丹羽氏勝(丹羽長秀さまとは関係ない)がいる。

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