「城」の次に欲しいモノ。秀吉とナポレオンの共通点は?

■寧々のホステスぶりが高評価

秀吉が関白になって「殿下」などと呼ばれるようになったのは、天正13年(1585年)の7月のことでございました。私も従三位にしていただき、北政所という肩書きを戴きました。

少しあとのことでございますが、その3年後、後陽成帝の聚楽第行幸ののちには、私のホステスぶりが良かったとお褒めを戴き、従一位にしていただきました。また、義母のなかも従一位大政所という肩書きをいただいて大喜びでした。秀吉の母ですから派手なことは大好きで、遠慮なんかしません。

どちらも、関白の妻とか母の称号なので私たちだけのものではございませんが、中納言の中国風の呼び名である黄門さまも、もっぱら水戸中納言光圀さまのことに使われているのと同じで、北政所と大政所は私と義母のことだと世間では思っていただいているので鼻高々なのでございます。

秀吉が正式に官位をいただいたのは、小牧・長久手の戦いがあった天正12年(1584年)の10月に従五位下・左近衛権少将としてのものが最初でございまして、翌月には従三位・権大納言になりました。

そして、ここが大事なのですが、天正13年(1585年)の2月になると、織田信雄さまが大坂城にお見えになり、これは天下の采配は秀吉に任せるが、官位官職はとりあえず秀吉と同じ従三位・権大納言にするということで納得いただいたわけでございます。

そして、この年の7月には、秀吉は従一位・関白となったのです。関白だった二条昭実さまと近衛前久さまの子の信尹さまの争いがあって、二条さまから譲られることになりました。

秀吉は征夷大将軍になりたかったのに、清和源氏でなければならず、備後鞆(びんご とも)におられた足利義昭さまに猶子にしてもらおうとしたものの断られて、仕方なく関白になったというエピソードも大河ドラマなどでお決まりになっている場面でございます。

「いくら落ちぶれても私にも誇りだけは残っている」というやせ我慢のセリフと、貴人としての誇りを感じさせる表情をどうするかは、俳優さんの演技力の見せどころでございますね。

こういう説明を思いついたのは、林羅山といういけ好かない徳川の御用学者ですが、そんな話は聞いたことありません。もしかすると、そういう噂があったのかもしれませんが、徳川将軍の権威を高めるためのプロパガンダに決まっております。

なにしろ、征夷大将軍は清和源氏しかなれないものではございません。源頼朝さまより前では、中国からの帰化人である坂上田村麻呂など、いろんな氏族の方が征夷大将軍になっておられますし、鎌倉幕府でも四代以降は九条家や宮様が将軍になっておられます。建武の中興の頃は、護良親王などが将軍になっておられました。

▲鎌倉宮の護良親王 出典:木村優光 / PIXTA

足利義昭さまが存命で将軍を辞めたわけでもないというのも、解任すればよいだけのことでございます。足利幕府でも10代将軍義稙さまがまだ生きているのに、11代の義澄さまが将軍になったりまた交代したりされています。せいぜい円満に譲られたほうが楽だというくらいの話です。

■ナポレオンは秀吉をマネして皇帝になった?

なにしろ、本能寺の変の前には、朝廷から関白か太政大臣か征夷大将軍のどれでもいいからならないかなどと、信長さまに御下問があったくらいなのですから、清和源氏でないことも義昭さまが将軍のままであることも、秀吉が将軍になるのに不都合な話ではなかったのです。

むしろ、織田家中を会社に例えたら、秀吉はオーナー一族でなくサラリーマンなのですから、地位は不安定でした。そこで朝廷から官職をもらって、その権威で織田家の人々や大名たちを押さえ込もうと考えたのです。

信長さまにも関白はどうか、というお誘いがあったというのを聞いておりましたから、秀吉が近衛前久さまの猶子となって関白になるということになったのです。

将軍は源氏でなくてもいいということは、すでにお話ししましたが、藤原一族でないのに関白になるというのは、本当にありえないことだったのだそうです。

▲秀吉が関白になったことは多くの人が驚いたようです イラスト:ウッケツハルコ

というのは、関白というのは、宇多天皇の仁和3年(887年)に藤原基経さまがなられたのが最初で、藤原一族でも藤原道長さまの子孫、それも五摂家と言われる家柄の方だけがなれる仕事だったのでございます。

西園寺さまのような藤原一族でも道長さまの子孫でない方とか、久我さまのような村上源氏の方は、太政大臣にはなれても関白にはなれなかったのです。

よく似たお話としては、私たちより200年ほど後のことでございますが、ナポレオン・ボナパルトというコルシカの貧乏貴族出身の軍人が皇帝になられました。これは、成り上がり者と馬鹿にされないために、国王より上の肩書きを欲しがったからだと聞きましたが、秀吉が関白になったのに倣われたのではないかと勝手に想像しております。

この手配は、右大臣だった菊亭晴季(きくていはるすえ)さまがしてくださいました。さらに菊亭さまは、秀吉に豊臣姓を下賜し、太政大臣にするように手配してくださいました。

ちょうど、秀吉の援助で上皇が引っ越す仙洞御所を建築することができて、このことで、正親町帝がかねてより希望されていた後陽成天皇への譲位が実現したので、功績抜群と言っていただきました。そして中臣鎌足さまに藤原姓が与えられたのにならって、豊臣姓の誕生となったのでございます。

さらに、これにはもうひとつの裏がございました。この御譲位とともに、近衛前久さまのご息女でおられる前子さまが、私どもの猶子ということになって、新しい後陽成帝の女御(にょうご)になられたのです。

実は、摂関家から後宮に入るというのは、鎌倉時代の後二条天皇の典侍に一条頁子(万秋門院)さまがなられたのが最後でございましたし、女御という肩書きも南北朝時代を最後に使われていませんでした。

このあたりは、摂関家の不満を高めないために、秀吉がいろいろ工夫をして、格下げのイメージがないように手当したというわけです。

こののちは、江戸時代になっても、摂関家か宮家から帝の正妻というべき女性が入内することになりました。その意味でも、秀吉の尽力によって、朝廷が昔の流儀をかなり復活させることができたということなのです。明治時代になって、秀吉が尊王家として評価されるようになったのには理由があるのです。

また、秀吉が将軍でなく、関白としてまつりごとをしたのは、慶応3年の王政復古の先取りとしての意味を持つものです。それまで正式の政府として朝廷がありながら、事実上には政務を丸投げされた幕府があったのを、朝廷一本にしたのです。

聚楽第で関白が謁見をするときには、上座に秀吉のほか、摂関家の人々、法親王さま、もう少し後の時期になりますが足利義昭さまなどが並び、下座に大名と公家衆が左右に並ばれておりました。

明治の王政復古では、幕府も摂関も廃止するという形を取ったので少し違いますが、大名も公家も維新功労者も、公侯伯子男という爵位で評価し、同じ土俵に乗せたわけで、それに似た性格のものでした。

明治元年には、徳川家がこわした豊国神社が復活しましたが、その理由は幕府をつくらずに関白太政大臣として政務をとった勤皇の功績でした。そのときに力を尽くしたのは、私の兄である木下家定の子孫である備中足守と豊後日出の藩主だったのです。

■息子からの人質要求を突っぱねる家康母

さて、万事がいい加減な織田信雄さまが、勝手に秀吉と仲直りをしてはしごを外されて家康さまは困りましたが、なにしろ粘り腰が持ち味です。秀吉のもとに石川数正さまを送り「信雄、秀吉の両所の和睦は天下万民のためにめでたい」と言わせたので、秀吉は「家康殿の縁者のどなたかを養子に迎えたい」としたのです。

家康さまに限らず、全国の大名の多くは、毛利輝元さまも、上杉景勝さまも、秀吉にいちおう敬意は払いましたし、場合によっては人質も出したのですが、上洛して臣従するというところまでには、皆さん時間がかかりました。

先に順番だけお伝えしておきますと、上杉景勝さまが天正14年(1586年)6月、家康さまが天正14年10月、毛利輝元さまが天正16年(1588年)7月19日です。

そして、その輝元さまより前に、あの公方さま、足利義昭さまが天正15年(1587年)に備後から大坂に移られました。

そのあたりの詳しい話はまたにして、ここでは家康さまが上洛されるまでのことをご紹介いたします。

家康さまは、秀吉の提案からとりあえず養子は出すことにして、久松俊勝さまと家康さまの母である於大さまの三男で、伊予松山藩祖となった定勝さまに白羽の矢を立てました。ところが困ったことに、於大さまがどうしても承知しません。

▲於大の方(「愛知県史 別編 絵画」楞厳寺所蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ

「信康と交換だといって、次男の康俊を今川に人質に出したら武田に連れ去られ、逃げだしてきたが、可愛そうに凍傷で両足の指を失ったではないか。兄の水野信元も、信長の指示だと言って切腹させた。これまで我慢してきたが、可愛い末っ子の定勝は手元に置いて大事にしてるのに、それを人質に出すとは、どこまで母を苦しめる気か!」と烈火のごとく怒り大変な剣幕だったそうです。戦国の母は強いのでございます。

そこで家康さまは、しぶしぶ次男の於義丸(秀康)さまを出すことにいたしました。このとき、於義丸さまは11歳、三男で6歳の長丸(のちの秀忠)さまと、どちらが世継ぎか確定していませんでした。ですが、たまたま手を付けた侍女が生んだ於義丸さまは、はっきりいって自分の子かどうかすら確信がなく、しかも気性も気に入らなかったのです。そこへ来ると、愛妾の西郷局の子で、本人も従順そうな長丸(のちの秀忠)さまのほうが世継ぎにいいかと漠然と考えていたので、思い切ったのでございます。

家康さまは養子として於義丸さまを差し出したあとも、上洛の気配がありません。これには秀吉も焦りましたが、家康さまも本当は追い詰められていたのでございます。

なにしろ、秀吉は関白となって朝廷をバックにした権威も得られましたし、小牧長久手の戦いのときに、(家康さまと)呼応した勢力のうち、根来・雑賀の衆は殲滅され、四国の長曽我部氏も下ってしまいました。本願寺も天満に広大な土地を得て大坂復帰を認められました。しかも、越後の上杉景勝さまと秀吉の関係も改善していたので、家康さまにとっては八方ふさがりだったのでございます。

「いい加減にしないと、滅亡の危機だ」という岡崎城代・石川数正さまら家臣の意見も出てまいりましたが、家康さまは知らぬ顔です。せっかく獲得した領地の寸分でも取られるのが嫌なのです。家康さまはともかくケチなのです。そこで孤立した数正さまは、秀吉のもとに逐電したのです。

■滅亡の危機だった徳川を救った島津

同じ時期に、信濃の小笠原貞慶さまや真田昌幸さまも家康さまから離反いたしました。とくに、真田昌幸さまの場合には、家康さまが派兵した大久保忠世らの大軍を散々に打ち負かしてしまいました。

小笠原貞慶さまは、本能寺の変のあとに家康さまに従われ、子の秀政さまを人質に出されました。秀政さまは石川数正さまに預けられたのですが、逐電するときに一緒に連れて来ました。そこで私が預かることになりました。

こうして、家康さまは絶体絶命だったのですが、なんとも運のある方で、九州での島津氏の躍進が家康さまを救ったのでございます。

九州では、豊後のキリシタン大名大友宗麟さま、肥前の竜造寺隆信さま、それに島津義久さまの三大勢力が争っておりましたが、天正12年(1584年)に隆信さまが敗死、宗麟さまも病気がちで往年の面影はなく、島津軍は筑前にまで迫り、九州統一王国が生まれようとしておりました。

▲島津義久が建築した国分城(舞鶴城)跡 出典:だいきち / PIXTA

九州に独立王国が成立して海外と勝手に付き合いだしたら、日本という国は瓦解してしまうことを秀吉はよく理解していました。天正13年(1585年)に「惣無事令」を出して、島津氏に領土拡大をやめるように勧告いたしました。

けれども、源頼朝さまの子孫と称する島津氏はこれを無視して、大友氏の息の根を止めんばかりでしたので、早く家康さまと和睦して、九州制圧に全力を注ぎたかったのでございます。

そこで秀吉は、なんと妹の旭姫を夫の佐治さまと離縁させ、そのうえで家康の継室(築山殿のあと妻はいませんでした)とし、実質上の人質として送り込みました。これには、さすがの家康さまも安心して、天正14年(1586年)の11月に大坂に赴き、秀吉の家来になられたのでございました。

そののち、駿府に家康さまが移られて後顧の憂いがなくなられた秀吉は、天正15年(1587年)、20万の兵で九州へ出陣し、島津義久さまを降伏させました。

そして、秀吉はキリスト教の禁止、朝鮮や琉球王への服属要求、生糸の貿易独占、長崎の教会領回収、博多の大都市改造(いまの博多の町は秀吉のつくった町なのです)など、矢継ぎ早に外交に取り組んだのです。

※近衛前子(1575〜1630年、中和門院)は、後水尾天皇・近衛信尋・高松宮好仁親王・一条昭良・貞子内親王(二条康道室、康道の母は豊臣秀勝と江の娘である豊臣完子)の母。近衛信尋と一条昭良はそれぞれ五摂家の養子になったのだが、かなりの人数の男系子孫は後陽成天皇の男系男子子孫であり、皇位継承問題でも話題になることがあり、その意味でも皇室の歴史のなかでキーパーソンになる女性である。

※小笠原秀政は、のちに徳川信康と徳姫の子である登久姫と結婚し、その子は小倉藩や唐津藩の祖となったり、蜂須賀至鎮や細川忠利の正室となり多くの子孫を残し、今上陛下にもつながる。大坂夏の陣で戦死。

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