陰陽道のある日常を知れば『鎌倉殿の13人』がもっと面白くなる

現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。脚本を三谷幸喜氏が務め、平安末から鎌倉前期を舞台に、源平合戦と鎌倉幕府が誕生する際に繰り広げられた駆け引きを描き、近年の大河作品では1番と言っていいほどの話題を集めています。

しかし、ドラマで描かれる鎌倉時代とは異なった「陰陽師」から見た鎌倉時代があると聞くと、にわかには信じ難いですが知りたくなるのではないでしょうか。日本史についての著作を多数出版している島崎晋氏が明かす、大河ドラマがもっと楽しくなる、源平合戦、鎌倉時代の新しい視点とは!?

※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

■気性や育った環境がかなり違っていた平氏と東国武士

東国武士あるいは鎌倉武士と聞いて、まず頭に浮かぶのは『平家物語』で語られるイメージではないでしょうか。

富士川の戦いを前にして、斎藤実盛という老武者は平氏の総大将・平維盛に呼び出され、東国武士の実力について尋ねられます。数々の修羅場を潜り抜けてきた実盛は、都育ちで戦場を知らない平氏の貴公子たちに含むところがあったのか、まるで脅すかのように、次のように語りました。

▲歌川芳虎『大日本六十余将』の平維盛 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

▲『前賢故実』による斎藤実盛 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

?戦いに臨めば、親が討たれようと子が討たれようと、戦死する者があれば、その屍を乗り越え、戦っていきます。西国の戦いと申しますと、親が討たれれば仏事を営み、忌が明けてから攻め寄せ、子が討たれれば嘆き悲しんで、戦いません。兵糧米が尽きてしまうと、春に田をつくり、秋に収穫をしてから攻め、夏は暑い、冬は寒いと言って戦いを嫌います。東国にはまったくそのようなことはありません。

案の定、維盛をはじめ平氏の貴公子は皆、震えおののいたとあります。同じく武士でありながら、平氏と東国武士では、気性や育った環境がかなり違っていたのです。

東国武士の大半は、天慶の乱(平将門の乱)で勲功を挙げた英雄たちを祖と仰いでいました。平高望を始祖とする桓武平氏、藤原秀郷を始祖とする秀郷流藤原氏、源経基を始祖とする清和源氏の三系統で、桓武平氏のうち伊勢国に本拠地を移し、都を活動拠点にした一族が平清盛を代表とする伊勢平氏です。

関東に残った一族は枝分かれを繰り返し、のちには「坂東八平氏」と総称されます。清和源氏も枝分かれしますが、関東で勢力を築いたのは河内源氏庶流です。

桓武平氏は桓武天皇、清和源氏は清和天皇の皇子に始まります。宮廷経費削減のため、皇子に姓を与えて皇籍から臣籍に降下させる件数が増えるなか、地方官として東国に赴任したあと、任期が切れても都に戻らず、在地領主との縁組を通じて定住を選ぶ者が多く現れます。藤原秀郷の後裔も同じような状況であったため、関東の武士は軒並み右の三系統のどれかとなったのです(詐称が混ざっている可能性は否定できませんが)。

ここに名の出た「在地領主」とは開発領主の後裔です。彼らの所領は、常に他の在地領主や国司(中央から派遣された国の長官)に狙われており、法的保護が期待できなかったので、彼らはみずから武装する必要に迫られました。賜姓皇族や秀郷流藤原氏を婿や養子に迎えることは、都に伝手(つて)をつくると同時に一族の箔づけにもなります。双方の利害が一致した結果、東国武士が誕生したのでした。

東国武士は死をまったく恐れないわけではありません。彼らが命をかけるのは所領を守るか、新たな所領を得る場合に限られ、無駄死には断じて避けるべきと考えていました。背中を斬られる、名もない者や格下の者に討たれるのを恥としたのも、自分一人の問題で終わらず、子孫に汚名を負わせ、文字通り「末代までの恥」となるのを恐れたからです。

東国武士が恐れたものは無駄死に以外にもあります。病や天変地異などがそれで、目に見えず、形のないものに対しては、どんなに腕力が強く、刀や弓の扱いに優れていようとも、とうてい太刀打ちできなかったからです。

災いに対処する術は古神道や密教にもありますが、その効果は多分に主観的です。疑問視する空気が強くなる前にバージョンアップを図るか、完全なる新規導入を図る必要がありました。そこで着目されたのが、京都ではすでに実績十分の陰陽道だったのです。

■陰陽道を理解することで当時の感覚に近づける

陰陽道とは、中国から伝えられた陰陽五行説に基づく占いや信仰の総称です。日本で完成され、それを操る専門の技能者が陰陽師です。

鎌倉幕府の編纂による『吾妻鏡』は、1180年4月9日から1266年7月20日まで(計10年ほどの欠落あり)の出来事を編年体で記した歴史書ですので、年代記または日記と呼んでもよいかもしれません。

この書は九条兼実の『玉葉』や藤原定家の『明月記』に代表される中央貴族の日記、『平家物語』『源平盛衰記』『承久記』に代表される軍記物語、幕府・寺社に伝存した古文書類などを史料にしたと思われます。史実として信用できない部分は多々ありますが、当時の祭祀の様子などがよくわかる史料であることは間違いありません。

▲『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

▲九条兼実(菊池容斎画) 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

関幸彦・野口実編の『吾妻鏡必携』(吉川弘文館)によれば、『吾妻鏡』には、天文・陰陽道に関する記事が800以上、陰陽師の所見が100以上あり、およそ48種の陰陽道祭が見られます。

同じく『吾妻鏡必携』では、鎌倉で行われた陰陽道の祭祀が、ごく大まかに4つにグループ化できるとして、以下のように示します。

病気その他身体の障害や危険を取り除き悪霊の祟(たた)りを防ぐもの(11種179例) 宿星の信仰を中心とし、自然の異変に対する祈祷的なもの(19種152例) 建築物の安全祈願のもの(11種46例) 祓(はらえ)を中心にしたもので神祇(じんぎ)の作法に近い部分(8種34例)

これを見れば、陰陽師の仕事内容がだいだいイメージできるのではないでしょうか。

北条氏による執権体制が確立しようとしていたその時期、『吾妻鏡』の大半は陰陽道を中心とした祭祀・儀礼関連記事で占められていました。その内容や背景を知らないままでは、当時の人びとの思考パターンや、時代の空気などを理解できるとは思えません。

陰陽道のある日常を理解することが、鎌倉幕府の誕生とそれが1世紀半近く続いた秘密に近づく第一歩となるのです。

関連記事(外部サイト)