籠城した北条氏も驚愕!? 東国仕置きは秀吉のやりたい放題

■天下を盗られる遠因となる秀吉の過信

九州を平定し、毛利輝元さまも上洛されたのちに、秀吉にとって天下統一のために残されたのは、東国の仕置きでございました。

といっても、秀吉はあまり東国には興味がなかったのです。この時代、新しいものは、畿内で生み出されておりましたし、明や南蛮の文物が入ってくるのは九州からでございましたから、そちらが関心の中心だったことは当然です。

東国は秩序がしっかり確保されて、これから取り組もうとしている海外進出の邪魔にならなかったらいい、という考え方でした。

そこで秀吉は、臣従することになったコ川家康さまと天正14年(1586年)に和睦すると、「関東・東北惣無事」を徹底するように家康さまに命じたのです。あとで考えると、家康さまにそんな大事な仕事を命じたことが、天下を盗られてしまう遠因になるのですが、この頃は「東国なんぞ、家康に面倒見させておけばよかろう」と軽く考えていたのでございます。

家康さまも、戦国大名同士が直接会談することは少なかったこの時代には珍しく、駿河と伊豆の国境まで出向いて、北条氏政さまと会談されたのです。上洛し、秀吉の指示に従うように説得をされたのですが、なかなか言うことを聞いてもらえず、4年後には、秀吉の小田原征伐ということになってしまいました。

そこで、今回はまず、戦国時代の関東はどうなっていたかを説明させていただきます。 

室町幕府は、鎌倉でなく京に本拠を構えましたので、関東には一族の鎌倉公方(関東公方)を置いて世襲させ統治させておりました。そして、そのお目付役として、上杉氏を関東管領ということにしたのです。上杉氏は、室町幕府を開かれた足利尊氏さまの母方の実家で、公家の観修寺家の一党が鎌倉将軍に皇族がなったときに同行したものです。

ところが、関東公方は、将軍家から自立しようとし、それを上杉家や親幕府の佐竹・小笠原・那須・小山などの各氏が抑えておりました。そして1416年に、上杉禅秀さまが鎌倉公方・持氏さまと争った「上杉禅秀の乱」がございまして、このときに、家康さまのご先祖の松平親氏さまも関東を出たと言われております。

さらに、持氏さまは六代将軍を狙っていたのですが、相手にされず、将軍義教さまへ反抗したので、上杉憲実さまとの争いになり、持氏さまは自刃させられました。それが永享の乱(1439年)です。しかし、持氏さまの子でのちに公方になった成氏さまと上杉氏が争い、幕府は成氏さまに追討軍を送ったので成氏さまは下総に移りましたが(古河公方)、鎌倉は今川軍によって焼かれてしまいました(1455年、享徳の乱)。

現在の鎌倉には、鎌倉時代の建物はひとつも残っていませんし、室町時代のものもほとんどないのですが、それは、この焼き討ちのためでございます。

このあと、鎌倉を北条早雲さまが支配されるようになったときに「枯るる樹に また花の木を 植え添えて もとの都に なしてこそみめ」(枯れ木に花を咲かせるように、鎌倉をもとのような都にしたいものだ)と詠まれましたが、実際にそれなりの古都らしい趣になったのは江戸時代になってからです。※

▲七里ヶ浜 出典:t.sakai / PIXTA

■信長に比べて北条氏との関係が悪かった

また、新しい公方となった将軍義政の弟・政知さまは、伊豆までしか入れませんでした(堀越公方と呼ばれます)。

この頃に、上杉氏の家臣だった太田道灌さまが、利根川(当時は現在の隅田川が利根川でした)の東側に拠点を置いた古河公方を牽制するために築城したのが、江戸城なのです。

政知さまが死んだあと、庶長子の茶々丸さまが政知さまの正室と嫡男である弟を殺しました(1491年)。この頃、同じ正室の子である弟が京都天竜寺に入っていて、これが運命のいたずらで11代将軍・義澄さまとなったことから、今川家の食客だった伊勢新九郎さまに茶々丸さまを討たせたのです。

伊勢新九郎さまは、幕府官僚を束ねていた伊勢氏一族の分家という名門出身でございます。本人も九代将軍義尚の側近で、姉妹が今川家に輿入れしていたことから(義元の祖母)、今川家の客分として活躍したのです。

新九郎さまは、こうして伊豆を手に入れ、やがて関東の内紛に介入して小田原を手に入れられました。そのあと、二代目の氏綱さまが同じ平氏だというので、鎌倉幕府の執権にあやかって北条氏を名乗られたのでございます。北条を名乗られたのは二代目からですから、初代の新九郎さまはその死後に、後の世の人々から北条早雲と呼ばれるようになりました。

▲北条早雲公像 出典:伯耆守 / PIXTA

武田信玄さまや今川義元さまと同世代の三代目氏康さまは、河越夜戦で上杉家と古河公方連合軍を破って南関東の覇者となられ、公方さまとは縁組みをして、鎌倉公方を名目上の主人としたうえで、実質的には関東を支配することになられました。

これに対して、上杉氏から名跡を譲られたのが、越後の長尾景虎(上杉謙信)さまで、三国峠を越えて関東に進出し、佐竹や宇都宮など各氏と組んで、北条氏と激しく戦われました。

以前にお話ししましたように、信長さまは、この古河公方さまと北条氏の関係を、足利義昭さまと自分の関係のお手本にしようとされたように思います。ところが、義昭さまがそれでは不満足だと思われたので、信長さまと手切れになったわけです。

そんなこともあって、同じ平氏同士という親近感もあったと思うのですが、上杉という共通の敵もあることから、信長さまと北条とのあいだは、それほど悪くなく、氏政さまの嫡男である氏直さまと、信長さまの娘を結婚させるということになっていました。

ところが、秀吉は柴田勝家さまと対立したことから、上杉さまと協力するようになったので、北条さまにとって、信長さまより秀吉のほうが都合が悪い存在とみられるようになりました。

一方、本能寺の変のあと、織田領になっていた旧武田領のうち、甲斐と信濃は家康さま、上野は北条さまということで山分けした経緯もございました。

■上洛をゴネ出した北条氏政

小牧長久手の戦いなどで、秀吉と家康さまが戦ったときには、家康さまは北条と接近され、信長さまの娘との結婚はやめさせて、自分の娘である督姫さまを、氏政さまのお子である氏直さまの奥方として嫁がせられたのでございます。

しかし、秀吉と家康さまが和睦することになったので、家康さまは、あらかじめ、氏政さまにその旨を伝えられました。そして、九州攻めが終わった天正16年には、秀吉から家康さまを通じての圧力は強くなり、家康さまは、自分は関東に野心はないし秀吉にも讒言(ざんげん)するようなことはないから、弟の氏規さまを早く上洛させるように、それが嫌なら娘を離別して返してくれと、氏政さまにおっしゃったのです。

そこで氏規さまが、しぶしぶ上洛し、秀吉の前に出て服従を誓われたのですが、無位無冠であったために、酷く屈辱的な扱いを受けました。

そのあとも、秀吉は関東の諸大名の領地の確定を進めました。争いの余地をなくして、秀吉の天下の秩序を守らせるためです。

▲小田原城 出典:kazukiatuko / PIXTA

そのなかでいちばん面倒だったのが、上野国の北のへりに広がる沼田・吾妻領といわれる地域だったのでございます。ここは当時、家康さまの与力ということになっていたものの、一筋縄ではいかない真田昌幸さまが支配していましたが、北条としては譲れない土地でもありました。

そこで秀吉は、この主要部を北条に渡して、代替の土地を真田に与えるが、真田家の墳墓の地である名胡桃(なぐるみ)については、真田に残すという裁定をしたのです。

これは、常識に沿ったもので、双方から受け入れられ、天正17年(1789年)の夏には領地の明け渡しもされました。残すところは、北条氏政さまが上洛されるのを待つばかりになっていました。

ところが、氏政さまはなかなか動かれません。それには、上洛するとなると、道中や土産なども含めてたいへんな費用がかかるということもあったようです。もともと、室町幕府の将軍側近だった伊勢新九郎(北条早雲)さまを初代にされたお家ですから、そういうのは得意だったのでしょうが、五代目となるとすっかり田舎大名になって、どうしたらいいかわからないということもあったかもしれません。

しかも、お国替えになるのではないかとか、そのまま京に住むように言われるだろうとかいう噂が流れてきたことも、心配を増幅させました。そこで氏政さまは、そういうことはないという保証が欲しいとか、家康さまが秀吉のもとにやって来たときは、義母の大政所を実質上の人質に出したのだから、同じ配慮が欲しいとかも言い出しました。

あいだに入っていた家康さまも、もう付き合っておれないという気分になってこられたようでございます。もっとも北条からすれば、家康さまが関東を欲しがっておられるのでないかと疑っていたようでもあり、実際に戦後、家康さまは本当に関八州を手に入れられたのですから、全く見当外れでもなかったのです。

また、名胡桃事件を収めようと思えば、責任者である猪俣邦憲の腹を切らせることも不可避になってまいりました。高松城のときには、安国寺恵瓊の説得で清水宗治さまが腹を切ることを承知したので毛利は救われたのですが、戦いを終息させるため、誰かに犠牲になってもらうのは、たいへん難しい決断がいります。

▲名胡桃城址 出典:クッキー / PIXTA

11月24日に、秀吉は征伐の意向を伝えましたが、北条は同じような弁解を繰り返して、氏政がすぐに上洛するとも、責任者を切腹させるとも言わなかったのです。

このあたりになると、氏政さまやお子の氏直さまのあいだの意見も齟齬がございましたし、家臣たちをまとめきれなくなっていたのだと思います。

もちろん、氏政さまには上杉軍や武田軍に包囲されても、貝のように閉じこもって撤退に追い込んだので、今回も守り切れるかもしれないという期待もあったでしょう。しかし、上杉や武田はそれぞれ2万人くらいの兵力ですが、秀吉が動員するのは20万人を超えます。

また、農繁期には動けない農民兵でもありませんし、食料なども現地調達でなく、運んで行きますから、米を奪われた農民たちが一揆を起こして北条を助けてくれる見込みもありませんでしたので、持久戦の意味がないのです。

それに、秀吉は好んで戦いに持ち込んだわけではないですが、東国の人々に誰が天下を治めているかを見せつけるためには、出陣の機会なく服属されたでは物足りないことになりますから、もし北条が従順に降伏しても、東北などでの反乱勢力鎮圧にこき使われたことでしょう。

北条は秋から年初にかけての時間を、家康さまに泣きつくだけで無駄に使っているうちに、2月には家康さまが伊豆との国境に兵を進められ、3月1日には秀吉が京を発ち、19日には家康さまが自由に使うように言い残して出陣されたあとの駿府城に入りました。

せっかちの秀吉にしては、19日までかかったというのは遅いのですが、途中で生まれ故郷の中村に立ち寄って、小早川隆景さまに自分の生まれた家を見せたりして、余裕綽々の旅でした。

よく、秀吉が貧しい生まれであることを隠していたとかいう人がいますが、これを見てもそんなことはないことがわかります。以前にお話ししたことがありますが、関白になったりすることを快く思わない人たちに納得してもらうために、御落胤とかいう噂を流しておいたほうが「それなら仕方ない」と思ってもらえるので、そういうことも言っていたというだけです。

現代の企業でも、ライバルが抜擢されたときに「あいつの親父は社長と表には出てない特別の関係があるらしいよ」とかいうと、仕方ないと納得する人が多いようなものでございます。

■天下人になって人が変わった秀吉

そして21日には、豊臣秀次が山中城(三島市)を攻め落としました。この城は、箱根の山の手前における最後の抵抗拠点でしたが、攻撃が始まって、その日のうちに落城する想定外の展開になり、小田原城はその数日後には秀吉軍に包囲されてしまいました。

氏規さまが守る伊豆の韮山城とか、石田三成の水攻めによく耐えた忍城など、よく抵抗した城もございましたが、次々に開城していきました。

また、秀吉は小田原城を見下ろす石垣山に、建物はハリボテですが、立派な石垣を備えた城を築いて、長期戦の用意があることを見せつけました。大きな樹木に囲まれた所で工事をして、ある日、一斉に木を切り倒して、小田原城の将兵を驚かせたとか聞きました。それは、秀吉が土産話で面白おかしく話したものですが、まったく、作り話でもなかったようです。

▲一夜にして城が出来上がった様子はまるでマジックのようでした イラスト:ウッケツハルコ

そして、私に手紙を書いてきて、鶴松を生んだばかりの茶々を「寧々の次に気に入っているのでよこしてくれ」とか言って呼び寄せ、また、その前から京極竜子も呼んでおりました。

また、千利休に茶会を開かせ、能の興業などもしてピクニック気分でした。なんとなく無駄にみえますが、秀吉としては関東・東北の大名たちが、参陣してくるのに時間を充てるという趣旨もございました。

たとえば、この頃、会津黒川におられた伊達政宗さまは、家中の反対をようやく押し切って、やって来られました。6月5日に小田原に着かれましたが、まずは惣無事令に違反して黒川城(若松の古名)を攻略したことなどについて前田利家さまらに尋問させ、そのうえで、9日になって謁見を許し、黒川城などを放棄することを条件に本領を安堵しました。

また、北条の降伏後に誰を抜擢するかも熟慮していたのです。

さらに、攻囲中にも城内の武将たちに調略もいろいろ行われました。そして7月5日、氏直さまは、滝川雄利さまの陣所へ向かい、氏直さま自身が切腹することで将兵の助命を請うことになりました。

しかし秀吉は、家康さまの婿であることから、氏直さまを助命し、氏政さまとその弟の氏照さま、重臣の大道寺政繁と松田憲秀に切腹を命じ、氏直さまは高野山に追放ということになりました。

氏直さまは、その翌年には大坂へ引っ越され、1万石を与えられて、いずれはしかるべき石高の大名に、ということになっていましたが、その年の11月に疱瘡で亡くなりました。しかし、北条の家は、氏規さま(氏康四男)の子孫が、河内狭山1万石の大名として幕末まで続きました。

大道寺政繁と松田憲秀の二人は、調略に応じて主君より先に降伏したのですが、赦免の約束を攻め手の武将たちが勝手にしたのが気に入らなかったのか、主君に忠実でなかったということで切腹させられてしまいました。

戦国時代が終わるとあっては、主君に忠節をすることを推奨する必要があったということもございました。

この小田原攻めでは、激しい戦いが少なかったので犠牲者は少なかったのですが、山中城攻めで、稲葉一鉄の姪の子で、早くから秀吉に仕えてきた一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)が戦死したのは惜しいことでした。弟の直盛の子孫が、伊予小松と播磨小野の大名として残りました。

茶人の山中宗二は、千利休の高弟で秀吉に仕えたこともあるのですが、反抗的な口の利き方をすることから浪人して、この頃は北条氏に仕えていたのですが、脱出して千利休に連れられて再仕官したいとやってまいりました。

ところが、ここでも北条早雲さまの末子で、前年まで存命だった北条幻庵のことを誉めるなどして秀吉と口論になり、成敗されてしまいました。このことは、千利休さまが秀吉から離れていく理由になったという人もおります。

九州攻めの不手際で改易されていた仙谷秀政は、鈴をたくさん付けた甲冑を来て城攻めに参加し、秀吉を喜ばせて再仕官に成功しましたが、尾藤知宣は秀吉の前に現れて許しを請うたのですが、秀吉軍の戦略を批判して自分ならこうするとか、若い頃の秀吉に対するようになれなれしく振る舞いすぎて怒りを買い、成敗される羽目になりました。

尾藤知宣は、石田三成夫人の叔父ですので、三成としてもつらい出来事だったようでございます。

これまでの秀吉は、諫言もよく聞く人でしたが、天下人になってからは、だんだんと自分の権威を認めない者に対して、怖い人でなければならないという気持ちが強くなってきたということはございました。

それからも、一度、勘気を被った人でも、しばらくすると許して、それなりの処遇をするということは変わりませんでしたが、少し難しい人になってきたという印象は私も持っておりました。

※鎌倉公方の館は、鶴岡八幡宮から2km足らず東の谷間にある浄妙寺方面にあり、その石碑がある。ただし鎌倉市などでも、鎌倉時代の町の様子の研究には熱心だが、室町時代の鎌倉の研究は後回しになっている。

※島津氏の祖の忠久は、近衛氏に仕える惟宗朝臣の中クラスの公家だった。惟宗は秦氏の一族の一部に賜られた姓。忠久の外祖母は比企氏出身で頼朝の乳母だった。その娘が頼朝の子どもを連れて、惟宗氏の妻になったというのだが、なにがしか根拠があるのか、南北朝のころになって言い出した話なのかは不明である。今ある源頼朝の墓にしても、江戸時代の後半になって島津重豪が、自分たちが頼朝の子孫だという伝説を正当化するために立派なものをつくったのである。鶴岡八幡宮でも頼朝の祭祀を受け継いでいるのは島津家というように扱っている。

※小田原城は、伊豆方面から進出してきた北条氏が、東から来る敵に対峙するには堅固な城だが、西の箱根や御殿場を越え、水軍も動員できる敵を相手にしたときは、それほど堅固な構造でないのだった。

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