領地の石高を過少申告!? 秀吉も頭を悩ませた島津四兄弟の処遇

■毛利輝元を自ら案内する手厚い「おもてなし」

中国地方を支配する安芸の毛利輝元さまは、早くから秀吉と友好関係でございましたが、上洛されたのは九州遠征が終わってから、小田原攻めが始まるまでのことでした。

懸案の足利義昭さまの帰洛も実現し、なんの支障もなくなったわけです。このときの様子を少し時間を遡りますが紹介いたします。

毛利輝元さまは、天正16年(1588年)4月の帝の聚楽第行幸に参加されたかったらしいのですが、肥後の地侍たちの反乱を鎮圧するために九州に遠征されており、叶わなかったのでございます。

▲毛利輝元公像 出典:しろぽる / PIXTA

そこで、7月になって、秀吉への服従を誓い、帝から官位をいただくために上洛することになりました。7月7日に居城の郡山城をお発ちになり、兵庫と大阪で泊まり、7月22日の午後4時に入洛されました。3,000の兵を引き連れ、さらに、秀吉が派遣した迎えの大名たちの2,000の兵を加え、5,000人の大行列で、都大路は見物人であふれました。

宿舎は妙顕寺だったのですが、その前に曲直瀬道三(まなせ どうさん)の邸宅に入られました。名医として知られ、外交にも力を発揮した実力者で、こちらのほうが居心地がいいといって、その夜は泊まられたそうです。なんでも、道三の家の蒸し風呂が気に入られたのだそうです。

そして、その翌々日に聚楽第にお見えになりました。輝元さまからは、秀吉に銀子3,000枚と太刀、馬や鷹。私にも銀子200枚と白糸をくださいました。私の甥で秀吉の養子になっていた金吾(秀秋)には、沈香と虎の皮、それに太刀でした。まだ、少年ですから大喜びでした。

そして参内して、まずは従四位下侍従となり、ただちに参議に昇進されました。いきなりは参議になれないからでございます。

秀吉との面会は、公式のときは、秀吉が一段高いところに座り、左右に官位の順に大名や公家が列席し、輝元さまもそのなかにおられたわけですが、非公式には茶室で小早川・吉川のお二方と茶人の今井宗久だけを交えてお会いになっています。

輝元さまは8月29日まで京都に滞在され、近江観光に出かけられたのち、大坂経由で安芸へ帰られました。大坂では、秀吉が自ら大坂城の奥御殿や天守を案内しておりますが、大友宗麟さまの日記で秀吉は舶来のベッドで寝ていることも自慢したようです。

■秀吉が周りに語った「天下の三陪臣」

さて、天下統一のときに九州がどうなったかといえば、筑前一国に加え、肥前と筑後の一部も、小早川隆景さまに差し上げました。秀吉としては、信頼できる隆景さまに西日本の仕置きの中心になってもらいたい、ということでございました。

少しあとのことですが、五大老というものを秀吉は決めましたが、最初はコ川家康さま、前田利家さま、毛利輝元さま、宇喜多秀家と、もうひとりは隆景さまで、亡くなったあとに上杉景勝さまが代わりに入られたのでございます。

隆景さまに筑前を差し上げたので、秋月種長さまは日向の高鍋に移られました。天下の名器と言われる「楢柴」を、秀吉に献上したご褒美のようなものです(この名器は島井宗室さまからとりあげたものでしたが)。豊前の高橋元種さまも、やはり日向の延岡へ移られました。

立花宗茂さまは、大友さまの家臣でしたが、宗麟さまのお口添えで、独立の大名ということになって筑後の柳川に移られました。

久留米には、小早川隆景さまの弟で養子でもある秀包(ひでかね)さまが入られました。毛利からの人質ということで、大坂城の私のところに来ていたことがございますが、イケメンで武芸万能、とくに鉄砲の名手で、女たちの憧れの的でした。

▲「イケメンの毛利秀包さまにはファンが多かったです」 イラスト:ウッケツハルコ

私の甥(兄の家定の子)の秀秋が、のちに隆景さまの養子になったので、秀包さまは独立して大名となり、朝鮮や関ケ原の戦いの前哨戦だった大津城攻めでも活躍いたしましたが、敗戦のあとは毛利氏のもとに戻ったのち、すぐに病死してしまいました。

秀包さまの夫人は大友宗麟さまの姫で、熱心なキリシタンだったマセンシアさまで、子孫は吉敷毛利家と呼ばれ、明治になると男爵になりました。

肥前では、竜造寺隆信さまが亡くなったあとは、隆信さまの母上が再婚した相手のお子である鍋島直茂さまが、家中を仕切っておられました。しかも、秀吉に従おうという方向に導いてくれたのも直茂さまで、とても優れた武将でございました。

秀吉は、この直茂さまと、上杉さまのところの直江兼続さま、それに堀秀政のところの堀直政さまをたいへん買っており、誰かに天下の三陪臣と言っていたこともあると聞いております。小早川隆景さまを入れる方もおられますが、隆景さまは陪臣というには大物すぎます。

▲佐賀城跡 出典:papa88 / PIXTA

結局、関ケ原の戦いのあとになって、鍋島家が龍造寺家を継承するといった形になりましたが、両家は一族とみなされ、各地にたくさんの1万石を超える石高をもらう家老がいることになりました。

ちなみに、上皇陛下の美智子上皇后の母方の副島家は、多久という龍造寺系の家老の家臣、現在の雅子皇后陛下の母方の江頭家は、手明槍という、普段は農業をしているが、事あるときは槍を持って馳せ参じる身分のお家だと聞いております。

肥前では、キリシタン大名の大村純忠と有馬晴信、それに平戸の松浦家、五島の五島家は生き残りました。対馬の宗義智も朝鮮との交渉がありますから、そのままです。

豊前のほとんどは黒田官兵衛さまに与えました。功績に比べてたいしたことないという人もいますが、九州征伐が終わったときでいえば、譜代の家臣たちのなかでは、阿波の蜂須賀の次ですから、少なくはありませんでした。加藤清正や石田三成がもっと大きな石高をもらうのはそのあとのことです。豊前のうち小倉周辺は、やはり古参の家臣である毛利勝信に与えました。

豊後では、大友宗麟さまのお子の義統さまに豊後一国を安堵いたしましたが、最初から頼りなくて少し心配でございました。また肥後では、佐々成政の不用意な統治で反乱が起きたので、朝鮮への遠征も睨んで、北部は加藤清正、南部は小西行長を抜擢して治めさせました。しかし、この二人は仲が悪く、朝鮮でもライバルとして、いい方向で競うだけでなく、互いに足を引っ張っていたから困ったものでした。

そのほか、肥後球磨郡人吉の相良、日向飫肥の伊東も残しました。

■秀吉に忠実な義弘、従わない義久

島津義弘さまの菩提寺となった伊集院の妙円寺(廃仏毀釈で現在は徳重神社となっています)へのお詣りは、関ヶ原の戦いがあった日の前夜の9月24日に行われます。鹿児島から40キロの道を甲冑をつけて行うハードなものですが、これに参加したことが、私より300年ほどあとの、西郷隆盛さんや大久保利通さんといった方々が、徳川を倒した維新の原点になったといわれます。

▲徳重神社 出典:清十郎 / PIXTA

さて、薩摩の島津さまですが、秀吉に従うことになるに際しては、義久・義弘・歳久・家久さまの四兄弟など、一族のあいだでいろいろ対立もございましたので、慎重に収め方を工夫いたしました。

秀吉は、義久さまに薩摩、義弘さまに大隅、義弘さまのお子の久保さまに日向諸県郡などといった領地の与え方をいたしました。こののち、義弘さまが畿内に派遣され豊臣政権に忠実に動き、義久さまが領国にあってサボタージュするという図式が続きました。

のちの文禄の役にあっても、義弘さまは朝鮮に渡海されましたが、本国からの援助が不十分で、僅かの手勢とともに民間の船を雇って渡海する、という有様でございました。

このため、秀吉は義弘さまに実権を掌握することの背中を押そうとしたのですが、義弘さま自身が義久を排除することを望まなかったので、変則的な状況が維持されました。

四兄弟のうち、一人だけ母が違い、最も早く豊臣秀長に降った家久さまは、佐土原を安堵されましたが、どうしたわけか秀長の陣中で急死されました。薩摩では秀長に毒を盛られたという方がおられるのですが、むしろ、島津側の強硬派の誰かが仕掛けたと見るほうが自然でございます。

歳久さまは最後まで秀吉に抵抗し、駕籠に矢を射かけたほどですが、その場では咎められませんでした。しかし、のちに文禄の役に反対して一揆を起こした、梅北国兼の乱の黒幕でないかと疑われ、自害させられてしまいました。この頃、歳久さまは重病で朝鮮にも出陣できなかったのですが、万事にわたって秀吉に非協力的だった義久さまへの不満の身代わりにされたのかもしれません。ただ、もともとご病気だったようです。

■慎重に進めた太閤検地の狙い

義弘さまと石田三成の関係は、薩摩で検地を行う算段をしたときに遡ります。これは、太閤検地という秀吉の大事業が、何を狙いにしていたかがわかるよい例なので、少し詳しくご説明いたします。

それぞれの大名は、家臣たちそれぞれの領地からの推定収穫量をもとにして、上納金や軍役・普請のときに出す人数を決めます。ところが、この推定収穫量は、自己申告が原則です。しかし、これだと皆が過少申告しがちです。

また、近代的な統治をしようとすると、それぞれの領地を固定したものでなく、鉢植えのように同じ収穫高なら取り替えることができるほうがいいのですが、本当の収穫高がわからないと、それもできません。

そこで、専門的な技術をもつチームが、組織的に全国一律で検地をする必要があるわけです。ところが、領主がよほど強くないと家臣たちが協力しなかったのですが、秀吉の命令であるといえば有無を言わさないで済みますし、専門家チームを派遣するとスムーズに実施できるというわけです。

ただし、全国的に号令をかけて一気にしたのではありません。なにしろ、うっかり強行すると一揆が起こります。肥後では、秀吉がこの国は難しい土豪が多いから慎重にするように言ったのに、佐々成政さまは性急に実施したことで反乱を起こされ、ご自身が切腹される羽目になりました。

そこで、石田三成などが率いる奉行たちが、視察や情報集めなどして、少しずつ、慎重に進めました。

さらに、検地が戸籍調査としての意味をもったのも当然です。日本の人口統計は、この太閤検地のときから、だいたい信用できるものになります。

これは刀狩りも同じです。農民が武器をある日から、いっせいに持つのをやめたわけではありません。しかし、できるだけ少なくはしたいし、また武器を持てるのは武士に限定したい、と考えたのは当然でございました。

そのときに、方広寺大仏殿の釘に刀を使うと言ったのも、ひとつのきっかけを作ろうとしたというわけです。

▲方広寺 出典:?shonen / PIXTA

しかし、これで士農工商に分かれて、身分の行き来ができなくなったというわけではありません。「士」というのがはっきりした形になるのは、明治になってからで、全国で統一基準をつくり、「士族」というものを定めて、新しくできた西洋式の戸籍に載せたのです。

それまでは、もっと細かく身分は分かれておりましたし、各藩で制度もバラバラでございました。標準的にいうと、馬に乗れるかどうかと、袴がはけるかどうかが大事です。馬に乗れるのが、いわゆる上士です。「侍」というと、そのなかでも立派な武士だけです。

馬に乗れない徒士(かち)は、歩兵ですが袴をはけます。ここまでが武士です。その下の足軽は半ズボンです。そして、さらに中間(ちゅうげん)などという武家奉公人もいます。明治の士族は、この中間の一部分まで含んでいます。

秀吉は、別に身分を固定しようとしたわけではありません。また、江戸時代に入っても、初めの頃は大名の取り潰しも石高の増減もあれば、新しい大名もどんどんできましたから、身分制度の枠を打ち破れるチャンスがあったのです。転封も多かったのです。

また、どこかの大名に仕えていたのが、嫌になって故郷に戻って百姓になったり、故郷から親戚を呼び寄せて武士になったりもしていました。

ところが、大名が固定されてしまうと、だんだん、新しい取り立てや昇格もなくなり、強いて言えば、養子になるくらいしか道がなくなってきたということなのです。

よく、養子制度という優れた制度のおかげで、人材登用ができたとかいいますが、あれはあくまでも苦肉の策でございました。結局のところ、秀吉の権威を借りて、島津領内における藩主の統制強化を図る意味も大きかったのです。家康さまの関東移封が家内の統制強化に役立ったことは前回に説明いたしましたが、この場合も同じです。

太閤検地の結果、島津家は22万5千石余から56万石弱に表高が増えました。つまり家臣たちが、自分の領地の石高を過少申告していたわけです。しかし、嘘をついていたとも言えないので、家臣たちはもともとの低い石高に見合う新しい領地へ移されました。いってみれば、給料は同じだがボーナスなど諸手当や交際費がなくなったようなものです。

たとえば、鉄砲伝来で有名な種子島さまは、特攻隊で有名な知覧の領主となりました。そして、浮いた分の多くが義久さまや義弘さまの直轄地とされました。また、秀吉の蔵入地などとして出水郡5万石が島津領から切り離されました。しかし、検地の手数料といったところですから損したわけでありません。

もっとも、秀吉の死後に義久さまの差配で、一部の有力家臣が父祖の地を回復したのですが、それでも藩主の地位強化という財産は残りました。

*毛利輝元が中国山地に入り込んだ郡山城(広島県安芸高田市吉田)から広島に移ったのは、1591年のことである。ただし、毛利氏が安芸の国の主人になるまで守護だった武田氏の本拠は、広島市内北部(安佐南区)の銀山城だったから、毛利氏も早くから広島付近への進出を考えていたらしい。最初は広島駅の南にある比治山が想定されていたが、途中で三角州の中にある現城地に変更された。

*博多は豊臣秀吉による都市計画によって面目を一新した。筑前は小早川隆景に与えられ、居城は海の中道の付け根に当たる名島だった。関ヶ原の後に筑前を与えられた黒田長政は、都市としての発展を考え、博多の西にある福崎(博多)に築城を始めた。

*大分という名は明治になってからのもので、もとは府内といった。大分は所属する郡の名である。古代の国府・中世の守護所・近世の城下町のいずれもがという珍しい例ではあるが、場所はそれぞれ微妙に違った。大友氏の居館は大分駅の東側にあり、裏手に広がる上野ヶ丘台地にも居館があった。国府はそこから南に下る傾斜地で元町といわれるところ、そして大友氏改易のあとに福原信高が築いた城下町は大分川の河口付近であった。

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